マシュー・ブレイディ
1840年代からアメリカ最高の肖像写真家として大統領を含む著名人を撮影したブレイディは、南北戦争において私財を投じて20人以上の写真家を組織し、米国史上最大規模の戦場写真プロジェクトを指揮した。1862年のアンティータム死者の写真展示は、アメリカ市民が戦場の死者の写真を初めて目にした歴史的出来事と…
アメリカに関わる写真家を、各作家がどの時代・運動と結びつくのかとともにたどるページです。
1840年代からアメリカ最高の肖像写真家として大統領を含む著名人を撮影したブレイディは、南北戦争において私財を投じて20人以上の写真家を組織し、米国史上最大規模の戦場写真プロジェクトを指揮した。1862年のアンティータム死者の写真展示は、アメリカ市民が戦場の死者の写真を初めて目にした歴史的出来事と…
スコットランド出身のガードナーは南北戦争の写真記録においてブレイディの組織から独立し、写真家個人のクレジットを明示した写真集『ガードナーの戦争写真スケッチブック』(1865〜66年)を刊行した。これはドキュメンタリー写真における著作権の原則的な主張として写真史上画期的な行為であり、スミソニアンは彼…
南北戦争でガードナーの『スケッチブック』に44点を寄稿し(単独写真家として最多)、戦後は西部の地質調査に転じて「死の収穫」(1863年)から「タファ・ドームズ」(1867年)へと写真の射程を広げた。乾いた直接性と演出の拒否は、1975年のニュー・トポグラフィクス展においてロバート・アダムスらが参照…
ジョン・ジェイビズ・エドウィン・メイオールは、フィラデルフィアで磨いた大型ダゲレオタイプの明晰さをロンドンへ持ち込み、科学者や文化人、ヴィクトリア女王一家を撮った肖像写真家。1860年の《Royal Album》では王室肖像を名刺判写真(カルト・ド・ヴィジット)として一般販売し、同じ肖像を多数の家庭へ届けた。王族の写真を買い、交換し、自分の家族や著名人の写真と同じアルバムへ並べる19世紀の肖像文化を考えるうえで重要な作家である。
ジョサイア・ホーズは、画家を志したのちダゲレオタイプへ転じ、1843年からアルバート・サンズ・サウスワースとボストンでサウスワース&ホーズを運営した写真家。大型ホールプレート銀板、天窓の自然光、姿勢と背景の細かな設計によって政治家、作家、市民、学校、手術室、街路を撮影し、立体視カメラや連続露光も試した。個人帰属を確定できない作品が多く、家族、技師、着彩、機材改良を含む共同スタジオの制作体制が、初期アメリカ肖像写真の造形と商業を支えていた。
カールトン・E・ワトキンスは1829年ニューヨーク州オネオンタ生まれ。1850年代にカリフォルニアへ移り、1860〜90年代にヨセミテ、鉱山、鉄道、コロンビア川などアメリカ西部を撮影した。約18×22インチのマンモス・プレートとステレオ写真を使い分け、遠隔地の巨大な地形を精密に伝えた一方、その像は自然保護、観光、投資、資源開発という異なる目的に利用された。
複数カメラによる連続撮影で運動の時間構造を可視化し、ズープラクシスコープで動きとして再投影した写真家。University of Pennsylvaniaとの共同研究、講演実演、ヨセミテの景観写真も含む実践は、写真・科学・映像技術の交差点に立つ。
ニューヨークのスラムを写真・文章・講演・書籍の複合メディアで可視化した改革者。みずからを写真家とは考えず、社会変革のためのコミュニケーターとして実践し、フラッシュ技術による暗部記録と出版・講演の組み合わせで都市改革を動かした。
ウィリアム・ヘンリー・ジャクソンは1843年ニューヨーク州キーズビル生まれ。1870〜78年にF・V・ヘイデンの連邦地質調査へ参加し、イエローストーンやロッキー山脈を大型湿板で撮影した。1890年代には鉄道や世界交通を撮り、後年はDetroit Publishing CompanyでPhotochromの大量流通にも関与した。調査の「証拠」から観光商品まで、同じ土地の写真が制度と市場によって別の意味を持つ過程を一生の仕事で示した。
1838年ニュージャージー州フレミントン生まれ。1860年代初頭にフィラデルフィアのフレデリック・グーテクンストのスタジオで働き、1864年に専門誌『The Philadelphia Photographer』を創刊した。ステレオ写真やエジプト・パレスチナの旅行写真も制作しながら、実物印画を綴じ込む雑誌、年鑑、技術書、ランタン上映を連動させた。南北戦争後のアメリカで、写真を個々の撮影者の技能から、共有・批評・教育・販売を伴う専門文化へ育てた人物である。
1843年カナダ東部ファーナム生まれ。少年期にウィスコンシンへ移り、南北戦争で腕を負傷して大工仕事へ戻れなくなった後、1865年にキルボーン・シティ(現在のウィスコンシン・デルズ)で写真館を買い取った。ウィスコンシン川の岩場をステレオ写真の連続シリーズとして売り、《Stand Rock》では自作シャッターで跳躍を止め、量産設備や鉄道宣伝まで組み合わせてデルズの観光像を作った。Ho-Chunkの人々も商品写真へ組み込まれたため、地方景観の発見に加え、観光資本と先住民表象の歴史から読む必要がある。
291ギャラリーと写真誌『カメラ・ワーク』を主宰し、写真を絵画と並ぶ芸術として美術館に送り込んだアメリカ近代写真の中核。「エクイヴァレンツ」では被写体ではなく形式そのものが内面を語ると主張し、抽象写真の理論的基盤を築いた。
ガートルード・ケーゼビアは、絵画を学んだ後に写真へ転じ、肖像写真にピクトリアリズムの光と構成を持ち込んだ写真家。スティーグリッツとともにフォト・セセッションを創設し、《祝せられよ、女たちの中の女よ》をはじめ母性・宗教・個性を主題とした作品で、商業スタジオの技術競争とは異なる写真のあり方を示した。
スタイケンがピクトリアリズムに向かった出発点は、写真が絵画と同等の芸術的地位を得るためには「絵画のように見える」ことが最も有効な戦略だという判断だった。ルクセンブルク生まれでアメリカ育ちのスタイケンは幼少期から絵を描き、ジェームズ・ホイッスラーのトーナリズム——霧と光の微妙な階調が感情を喚起する絵…
ルイス・ハインは、エリス島の移民、炭鉱や製造工場の子ども労働者、エンパイア・ステート・ビルの建設現場という三つの場で写真を撮り、写真を社会変革の証拠として体系的に用いた先駆的な実践家。労働と移民の現場を記録した写真は、立法・報道・教育の場で具体的に機能した。
エドワード・ウェストンは、初期のピクトリアリズム的肖像から離れ、鉄工所、身体、貝殻、野菜、砂丘、岩を、大判カメラと接写、精密な階調によって「形態」として見直したアメリカの写真家。メキシコ経験と西海岸のモダニズムを経て、ストレート写真とGroup f/64の中心的存在となり、写真が対象の再現ではなく…
1868年、パリ生まれのアドルフ・ド・メイヤーは、家族や親しい友人のスナップから写真に入り、Linked Ring、Photo-Secessionを経て、ニジンスキーの《L’Après-midi d’un faune》、社交界肖像、静物、『Vogue』『Vanity Fair』『Harper’s Bazaar』のファッション写真へ進んだ。日本旅行で深めた平面構成と逆光、反射する布や宝飾の階調を誌面にも用い、美術写真と近代ファッション写真が接続する過程を考えるうえで重要な写真家である。
1871年、オハイオ州ウェスト・カーライル生まれのクラレンス・H・ホワイトは、簿記係を続けながら独学で写真を始め、妻や子ども、友人を自宅の窓辺や庭、早朝の光の中に配した作品で評価された。Photo-Secessionで活動した後、Arthur Wesley Dowのデザイン理論を写真教育へ取り込み、Clarence H. White Schoolから広告、ファッション、ドキュメンタリー、モダニズムへ進む世代を育てた。
1864年、ウェストヴァージニア州グラフトン生まれのフランシス・ベンジャミン・ジョンストンは、パリで美術を学んだ後、ワシントンD.C.で独立写真家となり、政治家肖像、雑誌報道、自画像、《Hampton Album》、庭園、南部建築調査まで仕事を広げた。依頼主や展示目的に応じて一枚の肖像、連続写真、索引付きアーカイブを使い分け、女性が写真を専門職として担う可能性と、記録写真が制度の価値観を帯びる問題を同時に残した。
1865年、ニューヨーク生まれのフランク・ユージーンは、ミュンヘンで絵画を学び、肖像画制作の補助として使い始めた写真を、やがて独立した作品媒体へ変えていった。ネガの乳剤を針で削り、筆や鉛筆で描き直した像をフォトグラヴュールとして複製し、Photo-Secessionと『Camera Work』で発表した。後年はミュンヘン、ライプツィヒで写真教育にも携わり、写真、絵画、版画、教育をまたぐ制作を続けた。
1864年、マサチューセッツ州ノーウッド生まれのF・ホランド・デイは、出版社Copeland and Dayで書物の紙、活字、挿絵、装丁に関わった後、写真で男性裸体、黒人青年、文学者、宗教的セルフポートレートを制作した。《The Seven Words》の連作、プラチナ印画、1900年ロンドン展を通じ、撮影だけでなく身体の演出、印画、配列、展示までを一つの制作として扱った。
1868年、アメリカのウィスコンシン州ホワイトウォーター近郊に生まれたエドワード・カーティスは、北米各地の先住民を撮影し、写真、文章、語彙、録音を1907〜30年刊の全20巻『The North American Indian』へまとめた写真家である。プラチナ印画、フォトグラヴュール、衣装や場面の演出による統一された像は広く流通する一方、「消滅する民族」という植民地主義的な時間観を強化した。同化政策、資金、先住民協力者、映画、現在の共同体による再解釈まで追う。
ピクトリアリズムの絵画的模倣を離れ、写真固有の直接性と構造を軸にしたストレート写真の方法を1910年代に展開したアメリカの写真家。《White Fence》《New York [Blind Woman]》など形式と社会的視線が交差する作品群が近代写真の転換点を示す。
ピクトリアリズムの叙情的な画面から都市の俯瞰へ、さらに鏡装置を使った抽象写真へと展開したイギリス・アメリカの写真家。1916〜17年の《Vortograph》シリーズは写真による抽象化の初期実験として記録される。
ダダとシュルレアリスムの中心で活動したアメリカ生まれの作家。暗室での偶然と光の操作によるRayograph、ソラリゼーション、ファッション写真などを通じ、写真を記録装置から物と光が変容する前衛的な実験の場へと転換した。
写真、絵画、映画を横断し、アメリカの建築と産業構造を精密な近代的秩序として可視化した作家。ポール・ストランドとの映画《Manhatta》、フォード・ルージュ工場の記録など、プレシジョニズムの主要な担い手として評価される。
1883年、アメリカのオレゴン州ポートランドに生まれたイモージェン・カニンガムは、植物、裸体、肖像、家族、工業景観、路上を70年以上撮影した写真家である。写真化学と商業スタジオの経験を基盤に、《Magnolia Blossom》、1929年の《Film und Foto》、1932年のGroup f/64(西海岸で鮮明な写真表現を掲げたグループ)、Martha Grahamや『Vanity Fair』の肖像へ展開した。家庭、職業、モダニズムが長期実践の中でどう結びついたかを追う。
1886年マサチューセッツ州レノックス生まれのジェームズ・ヴァン・デル・ジーは、ハーレムの家族、恋人、花嫁、スポーツ団体、教会、UNIA、葬儀や街路を長期に撮影した写真家である。背景、小道具、衣服、照明、ネガ修整、手彩色、多重露光を組み合わせ、依頼者が望む自己像を写真家と共同で形にした。
1893年、ニューヨークに生まれ、ヨーロッパ各地で育ったフローレンス・アンリは、音楽と絵画を学んだ後、1927年にデッサウのバウハウスへ滞在して写真へ進んだ。鏡、球体、果物、木枠、身体を配置する静物とセルフポートレートで、実物と反射、複数の視点を一枚の写真に重ねた。
Farm Security Administrationの写真部門で農業移住民の困窮を記録し、《移住者の母》で大恐慌の視覚的象徴を作った。日系人強制収容の記録では、国家委嘱写真でありながら国家の暴力を露呈させるという二重性を持つ仕事を残し、社会ドキュメンタリー写真の倫理的問いを体現した。
ウォーカー・エヴァンスは、看板、商店、路上、室内、小作農の肖像を、説明しすぎない正面性と連作の中に置いたアメリカの写真家。FSA(米国農業安定局の政府写真プロジェクト)、American Photographs、Let Us Now Praise Famous Men、地下鉄肖像を通じて、記録写真…
W・ユージン・スミスは、『LIFE』誌のフォト・エッセイ、ピッツバーグ、水俣を通じて、写真を一枚の速報ではなく、人物の仕事、疲労、生活環境、社会制度を読む長編の証言へ広げた写真家です。暗室の濃いプリントと編集順序で読者の感情を導いた一方、その主観性と被写体表象の倫理も現在まで議論を残しています。
工業写真・ソ連取材・LIFE創刊表紙・戦争報道を横断し、近代の機械と権力を壮大な構図で可視化したアメリカの写真家。LIFEの第1号表紙(1936年)を飾り、女性として初めて第二次世界大戦の戦場に正式に許可された報道写真家となった。
スペイン内戦から戦後ヨーロッパの子どもたちまで、柔らかいが政治的な視線で報道写真の人道主義的言語を形成した。「Chim(シム)」として知られ、1947年にマグナム・フォトスを創設した写真家のひとりでもある。
FSAのファイル整理補助者から始まり、ロイ・ストライカーの指導のもとで写真家として成長した。劇的な象徴より地方都市・道路・穀物倉庫・人々の平熱を記録し、FSAの視覚記録が「名作」だけでなく日常の堆積で成り立っていたことを示す。
FSA写真部門の最初期スタッフとして、Dust Bowlの視覚的記憶を形成した。牛の頭蓋骨写真をめぐる演出論争は、ドキュメンタリー写真における記録と構成の境界という問いを写真史に刻み込み、以後の報道倫理議論の原点のひとつとなった。
FSA写真家としてアメリカ農村・炭鉱・鉄道の貧困を記録し、プエルトリコに移住後は写真・映画・音楽・文化政策を通じて島の社会変容を担った。ニューディールの社会記録写真が戦後の地域文化政策へ移行する過程を示す、独自の経路を持つ写真家。
ラッセル・リーはFSA写真家のなかでも最大規模の記録を残した写真家。農村・炭鉱・日系人強制収容所を粘り強く撮影した大量アーカイブは、一枚の傑作よりもコミュニティの実態を積み上げる方法として、ドキュメンタリーの別の可能性を示している。
FSA写真部門への参加を通じて、社会的リアリズムを絵画・壁画・ポスターと横断する視覚言語として展開した。画家として評価されながら、その写真は同時代の視覚政治と労働表象の問題を直接担っていた。
アンセル・アダムスは、ヨセミテとアメリカ西部の風景を、露光・現像・プリントの精密な判断によって構成した、目の前の自然を光と階調の言語へ変換した写真家。ゾーンシステム、Group f/64、スティーグリッツとの関係、音楽的な「演奏」としてのプリント、ベイエリア写真史、環境保護とマンザナー写真を通して…
スティーグリッツの「等価物(Equivalents)」の概念を受け継ぎ、風景・岩・光の表面を内面的経験の等価物として連続的に組み立てた。Aperture誌の創刊(1952年)と写真教育の実践を通じて、写真を単なる記録から「経験の媒体」へと押し広げる制度的基盤を整備した。
ニューヨークの路上でチョーク落書きを遊ぶ子ども、路地の即興的な身振り、街角の人間的な演劇を撮り続けた。子どもをノスタルジーではなく都市の遊戯性・階級性・身体の即興として捉える視点は、ストリート写真のもっとも繊細な声のひとつとして写真史に位置づけられている。
リー・ミラーは、シュルレアリスムの暗室実験、Vogueのファッション写真、第二次世界大戦の従軍報道を横断したアメリカの写真家。ソラリゼーションや身体の断片化、戦時下の女性像、ダッハウ解放後の記録まで、演出と証言の境界で写真が現実をどのように組み替え、同時に歴史の証拠となるかを示した。
ウィリアム・ヴァンディヴァートは、『LIFE』誌のスタッフ写真家として戦時ヨーロッパを取材し、マグナム・フォトス創設メンバーとして写真エージェンシーの制度化に参加した写真家。戦時報道の最前線と写真家の権利獲得運動をつなぐ制度史上の中継点として評価されている。
1898年、当時のドイツ帝国西プロイセン、ディルシャウ(現ポーランド、トチェフ)生まれ。アルフレッド・アイゼンスタットは、35ミリカメラと既存光を使い、政治家、芸術家、戦争終結の群衆、学校や休暇地の日常を『LIFE』へ送り続けた写真家である。
1898年、米国オハイオ州スプリングフィールドに生まれたベレニス・アボットは、1920年代のパリでマン・レイの助手と肖像写真家を経験し、ウジェーヌ・アジェの作品保存に取り組んだ。1929年にニューヨークへ戻ると《Changing New York》を進め、戦後は科学写真へ向かった。
1905年、イタリア・アングリに生まれたフレデリック・ゾマーは、ブラジルで育ち、造園を学んだのちアリゾナ州プレスコットを拠点に写真、素描、コラージュ、音楽的スコアを制作した。
1896年、当時のオーストリア=ハンガリー帝国コロジュヴァール生まれのマルティン・ムンカーチは、スポーツ、街頭、芸能、ファッションを走る身体と急角度の構図で撮った写真家である。ベルリンの挿絵新聞で身につけた瞬間の判断を『Harper's Bazaar』へ持ち込み、報道写真の速度が衣服と身体の見せ方を変えた。
1899年、当時オーストリア=ハンガリー帝国領だったガリツィアに生まれたウィージーは、ニューヨークの殺人、火災、事故、夜の群衆を警察無線と直射フラッシュで撮った。『Naked City』では死体だけでなく、事件をのぞき込む人々、警官、新聞のキャプションまで都市のニュースを作る要素として扱った。
ウィリアム・クラインはニューヨーク生まれだが、除隊後のパリでフェルナン・レジェのもとで絵画を学び、エルスワース・ケリーやジャック・ヤングマンらアメリカ人画家と交流した。1954年にヴォーグ誌のアート・ディレクター、アレクサンダー・リーバーマンの目に留まり、ニューヨーク帰任とともに同誌の写真家として…
ガリー・ウィノグランドはニューヨーク・ブロンクス生まれで、1950年代に雑誌のフリーランス写真家としてキャリアを始め、35mmライカカメラを常に携帯して街頭での速写を続けた。その独自のスタイルは「アブストラクト・エクスプレッショニズムに近い、鋭い対角線で構成された動的な構図」と評されている。
リー・フリードランダーはワシントン州アバディーン生まれで、1953年からロサンゼルスのアート・センター・スクールで写真を学び、1956年からニューヨークを拠点にエスクァイア・スポーツ・イラストレイテッドなど雑誌の仕事を手がけた。1966年、ネイサン・ライアンズがジョージ・イーストマン・ハウスで企画…
1916年生まれ、2001年没。1940〜1950年代のニューヨーク——とりわけタイムズ・スクエアと14番街——を撮影したストリート写真で知られる。
1943年アメリカ・オクラホマ生まれ。写真家・映画監督。
アーヴィング・ペンは、Vogueの誌面で鍛えたデザイン感覚を、白い背景、古い劇場幕、自然光、静物、職業肖像、プラチナ・パラジウム・プリントへ展開した写真家である。ファッションや広告の明快さを、人物や物の輪郭、沈黙、表面、印画紙の質感まで見つめる形式へ変え、商業写真と美術写真の境界を静かに組み替えた。
リチャード・アヴェドンは、Harper's Bazaar、Vogue、The New Yorkerなどの誌面で、ファッション写真とポートレートを戦後アメリカの視覚文化へ押し広げた写真家。彼は服や人物を「内面の説明」としてではなく、動き、白背景、印刷面、巨大なプリントによって、撮影者、被写体、読者/…
1903年、アメリカ、ニューヨーク市生まれ。アーロン・シスキンは、Photo Leagueの《Harlem Document》で社会状況を共同記録した後、壁の剥落、落書き、ロープ、路上の痕跡を近接して撮り、抽象絵画に接近する写真へ進んだ。
1897年、ドイツ、ベルリン生まれ。アーウィン・ブルーメンフェルドは、ダダのコラージュからヌード、肖像、ファッション、カラー写真へ進み、アムステルダム、パリ、ニューヨークで制作した。
1921年、オーストリア・ウィーン生まれ。第二次世界大戦後に本格的に写真へ向かい、1947年に帰還兵と家族の再会を撮ったシリーズで注目された。1949年にロバート・キャパの招きでMagnum Photosへ参加し、その後ニューヨークを拠点に活動した。1950年代からKodachromeによるカラー、低速シャッター、流し撮り、反射、ぼけを探究し、『Life』のカラー・エッセイや映画関連の仕事、1962年のMoMA個展へ展開した。
1912年、アメリカ・カンザス州フォート・スコット生まれ。1930年代末に独学で写真を始め、シカゴで肖像・ファッション写真を手がけた後、1942年にFSA/OWIでロイ・ストライカーのもとに参加した。1948年から『Life』で活動し、人種差別、貧困、犯罪、家族、著名人をピクチャー・エッセイとして取材した。のちに小説、自伝、音楽、映画へ活動を広げ、『The Learning Tree』『Shaft』などを監督した。
1912年、アメリカ・デトロイト生まれ。会社員として働きながら1938年ごろに写真を始め、Detroit Camera Guildとアンセル・アダムスのワークショップを経て、1946年からシカゴのInstitute of Designで教えた。1961年にRISDへ移り写真教育を整備し、妻エレノア、娘バーバラ、都市、草木や水面を、多重露光、接写、8×10判から35mmまでの異なる方法で反復撮影した。
エリオット・アーウィット(1928–2023)はフランス、パリ生まれ。ロシア系ユダヤ人の両親とヨーロッパからアメリカへ移住し、ロサンゼルスで写真を学んだ後、ニューヨークのNew Schoolで映画を学んだ。ロイ・ストライカーの調査写真、米軍での写真任務を経て、1953年にMagnum Photosへ参加した。報道、雑誌、広告、映画制作と並行し、犬、恋人、家族、観光客、政治家、街路の偶然を長く撮影した。1959年のニクソンとフルシチョフの《Kitchen Debate》など歴史的な報道写真でも知られる。
ロイ・デカラヴァ(1919–2009)はアメリカ、ニューヨークのハーレム生まれ。Cooper Unionで絵画と版画を学び、Harlem Community Art Centerなどを経て、版画の資料として使っていた写真を1940年代末から主な表現にした。1952年にGuggenheim Fellowshipを受け、1955年にはラングストン・ヒューズとの写真集『The Sweet Flypaper of Life』を刊行した。ジャズ、家族、街路、労働、政治運動を長く撮影し、1975年以降はHunter Collegeで写真教育にも携わった。
ソール・ライター(1923–2013)はアメリカ、ペンシルベニア州ピッツバーグ生まれ。ラビを目指して神学校で学んだ後、1946年に画家を志してニューヨークへ移り、リチャード・プーセット=ダート、W・ユージン・スミスらとの交流を通じて写真へ進んだ。1940年代末からカラー・スライドを使い、1950年代以降は『Harper’s Bazaar』などのファッション仕事と街路での個人制作を並行した。2006年の写真集『Early Color』以後、初期カラー作品が国際的に再評価された。
ヴィヴィアン・マイヤー(1926–2009)はアメリカ、ニューヨーク生まれ。幼少期から青年期にアメリカとフランスを往復し、1950年代初頭にニューヨークで撮影を始め、1956年以降は主にシカゴで乳母・ケア労働者として働きながら写真を続けた。Rolleiflexによる白黒の正方形写真に加え、35mmカラー、Super 8映画、録音も残した。生前に公的な写真家キャリアを築かず、作品の大半は未発表のまま分散したため、2007年以降の発見、収集、プリント、展覧会、研究を通じて作家像が形成された。
エド・ルシェ(1937–)は、ネブラスカ州オマハ生まれ、オクラホマシティ育ちのアメリカの美術家。1956年にロサンゼルスへ移り、Chouinard Art Instituteで商業美術を学んだ。Plantin Pressで活版印刷を経験し、広告制作や『Artforum』のレイアウトを経て、1960年代から絵画、版画、写真、映画、アーティストブックを制作してきた。現在もロサンゼルスを拠点に活動している。
石元泰博(1921–2012)は、米国サンフランシスコに生まれ、高知で育った写真家である。戦時中の日系人収容所を経て、シカゴのInstitute of Designでハリー・キャラハン、アーロン・シスキンドらに学び、1953年に日本へ戻った。桂離宮、シカゴと東京の街路、伊勢神宮、現代建築を撮影し、写真集と展覧会を通して日米双方で活動した。
イヴ・アーノルド(1912–2012)は、フィラデルフィア生まれ。ハーレムの黒人ファッションショーを出発点にMagnumへ入り、モンロー、公民権運動、出産、中国などを長期取材した。
インゲ・モラス(1923–2002)は、グラーツ生まれ。翻訳者・編集者を経てMagnumに参加し、イラン、スペイン、ドナウ川流域、映画現場、芸術家の肖像を撮影した。
ブルース・デヴィッドソン(1933–)は、米国イリノイ州生まれ。1958年にMagnum Photosへ参加し、《Brooklyn Gang》《East 100th Street》《Subway》などニューヨークの共同体と公民権運動を長期にわたり撮影した。
デュアン・マイケルズ(1932–2026)、米国ペンシルベニア州マッキーズポート生まれ。大学卒業後にParsons School of Designで学び、グラフィックデザインの仕事を経て、1958年のソ連旅行を機に本格的に写真を始めた。1960年代から商業肖像と私的制作を並行し、《Chance Meeting》《Things Are Queer》《The Human Condition》などの連続写真、二重露光、手書きテキストによる作品を発表した。
ポール・カポニグロ(1932–2024)、米国ボストン生まれ。幼少期からピアノを学び、十代で写真を始めた。1950年代後半にMinor Whiteのもとで学び、Ansel Adamsのゾーン・システムにも接しながら、米国、英国、アイルランドで森、石、古代遺構、静物を長期にわたり撮影した。《Redding Woods》《Stonehenge》《Avebury》などで知られる。
ダニー・ライアン(1942–)は、ニューヨーク、ブルックリン生まれの写真家・映画作家である。シカゴ大学在学中の1962年にSNCCへ加わり、公民権運動のスタッフ写真家として南部を撮影した。その後、Chicago Outlaws Motorcycle Clubと生活を共にし、『The Bikeriders』を制作する。テキサス州の刑務所を長期取材した『Conversations with the Dead』では、写真、録音、手紙、公文書を交錯させた。
エメット・ゴーウィン(1941–)は、ヴァージニア州ダンヴィル生まれのアメリカ人写真家である。1960〜70年代には妻イーディスとその家族を大判カメラで撮り、親密な肖像を長期の共同作業として育てた。1980年代以降は火山・核施設・採掘地・灌漑農地を上空から撮影し、『Changing the Earth』へ展開する。家族の身体と地表を同じ注意深さで見続け、肖像と航空写真を一つの制作史へ結んだ。
メアリー・エレン・マーク(1940–2015)は、フィラデルフィア生まれのアメリカ人写真家である。『Ward 81』では精神科病棟に滞在し、『Falkland Road』ではムンバイの性労働者と長く向き合う。『Streetwise』ではシアトルの若者を写真と映画で追い、その後もTinyを三十年以上撮り続ける。雑誌・写真集・録音・映画を横断し、長期取材が生む親密さと編集する側の権力を同じ作品の中に残す。
ダイアン・アーバスは、戦後アメリカの人物写真を、社会の説明ではなく「見る側と見られる側の関係」を露出させる場へ押し広げた写真家。正面性の強い肖像、雑誌仕事、New Documents、死後の写真集と展示を通じて、普通/異質、親密さ/暴力性、記録/演技の境界を問い続けた。
シンディ・シャーマンは、自分自身を映画、広告、雑誌、美術史の見覚えある人物像へ変えることで、写真を「現実の証拠」や「作者の内面」を示す媒体から、イメージが人物をどう演出し、見る側にどんな欲望や物語を引き出すかを問う媒体へ押し広げた作家。1970年代後半のニューヨークで、消費社会の既成イメージを扱っ…
ロバート・メイプルソープは1946年ニューヨーク・フラッシング生まれ。プラット・インスティテュートで美術を学んだのち、1970年にポラロイドカメラで写真を撮り始め、独学でスタジオ写真へと発展させた。
バーバラ・クルーガーは1945年ニュージャージー州ニューアーク生まれ。パーソンズ美術大学でダイアン・アーバスとマービン・イズラエルに学んだのち、コンデ・ナスト社の雑誌「マドモアゼル」でアートディレクターを20代前半で務めた。
ウィリアム・エグルストンは1939年テネシー州メンフィス生まれ。1960年代から35mmのカラーフィルムで撮影を始め、1976年にMoMAでジョン・ザルコウスキーの企画により「ウィリアム・エグルストン・ガイド」展を開催した。
1947年ニューヨーク生まれ。《アメリカン・サーフェシズ》(1972〜73年)と《アンコモン・プレイシズ》(1973年〜)によって日常的なアメリカの場景をカラー写真の主題として確立した先駆者。
1945年カリフォルニア生まれ、2014年パリ没。1975年の《ニュー・トポグラフィクス》展に参加し、郊外の工業地帯・空き地・無名の建造物を精緻な白黒で記録した。
1938年ニューヨーク生まれ。1960年代のストリート写真から始め、1970年代にカラーへと転換した。
1937年生まれ。アメリカ西部の郊外化・環境的変容を静謐な白黒写真で記録し、1975年の《ニュー・トポグラフィクス》展に参加した中心的な写真家。
1936年アラバマ生まれ、2016年没。アラバマ州ヘイル郡を生涯にわたって撮り続けた写真家・画家・彫刻家。
1944年ニューヨーク生まれ。大判カラー写真によってアメリカの風景・日常・社会的矛盾を記録した。
サントス・R・バスケスは、展覧会参加記録は確認できる一方で作品内容の資料が限られる作家。アーカイブでは、作品評価を断定せず、1970-80年代の展示制度と資料の空白を示すsource-gapの例として扱う。
アニー・リーボヴィッツは、Rolling Stoneで写真家として出発し、Vanity Fair、Vogueへ活動を広げながら、雑誌の表紙や特集の中で人物を強い場面として見せてきたアメリカの肖像写真家である。ジョン・レノンとオノ・ヨーコ、妊娠したデミ・ムーア、《Women》《Wonderland》…
ヘンリー・ウェッセル(1942–2018)は、米国ニュージャージー州ティーネック生まれの写真家である。1960年代末から35mmカメラで米国各地を巡り、1975年の展覧会「New Topographics」に参加した。西部の道路や郊外住宅、看板・通行人を撮った仕事を《California and the West》《Night Walk》などの連作へ結実させた。
1953年にワシントンDCで生まれたゴールディンは、11歳で姉バーバラを自殺で失った経験から「写真は愛する人を失う前に記録し続けることができる」という確信を抱き、16歳でカメラを手にした。1970年代末にニューヨークへ移り、ボウエリー周辺のゲイ・トランスジェンダー・セックスワーカーのコミュニティに…
1947年アメリカ生まれ。既存の図像——ウォーカー・エヴァンスらの正典的な写真——を再撮影した《After Walker Evans》(1981年)で知られる。
1951年アメリカ・ハートフォード生まれ。精密に制御された照明と半演出による場面構成を通じて、ドキュメンタリーの事実性と映画的フィクションの間に存在する写真を制作した。
1969年アメリカ・ニューヨーク州生まれ。1990年代末から少女・道路文化・アメリカの風景を大判カラーで演出・記録し、男性的な移動神話に女性の集団的自由という対抗神話を対置してきた。
ニッキー・S・リー(1970年韓国生まれ)は、特定のサブカルチャーや集団に長期にわたって溶け込み、他者が撮影した日常的なスナップショットの中に現れる『Projects』シリーズで知られる作家。アイデンティティを個人の宣言ではなく、集団的に演じられるパフォーマンスとして問う。
シャロン・ロックハート(1964年アメリカ生まれ)は、写真と映画の両方を使い、労働・共同体・持続を主題に長期にわたる協働的プロジェクトを展開するアーティスト。静的なカメラ位置と長い持続時間を通じて、集団的生活を倫理的かつ形式的に厳密に描写する。
ローラ・レティンスキー(1962年カナダ生まれ、シカゴ在住)は、スティル・ライフと家庭的室内空間の写真で知られるアーティスト。食後の残物や日常の痕跡を通じて欲望・消費・視覚の物質性を問い、スティル・ライフを現代写真の批評的なジャンルとして再確立した。
ジェームズ・ウェリング(1951年生まれ、アメリカ)は、抽象・建築・風景・フォトグラムを行き来しながら写真の可能性を問い続けるアーティスト。「私は写真家か、それともアーティストか」という問いを実践そのものとして生きてきた。
ジェームズ・ケースベア(1953年生まれ、アメリカ)は、建築的・制度的空間の模型を自ら制作して撮影することで知られる写真家。権力・収監・イデオロギーが空間にいかに埋め込まれているかを、説得力ある写真的フィクションとして問う。
アトラス・グループ/ワリード・ラードは、レバノン内戦をめぐる架空/準架空のアーカイブを通じて、写真・映像・文書が歴史の証拠として機能する条件を問い直したプロジェクト。
ロー・エスリッジ(1969年アメリカ生まれ)は、商業的・民俗的・美術写真のイメージ語彙を混合することで知られる写真家。ファッション・広告写真と現代アート写真の間の境界を、シーケンスと並置を通じて分析的かつ愉快に問い直す。
アンソニー・ゴイコレア(1971年生まれ、キューバ系アメリカ人)は、1990年代後半から演出的写真タブローで広く認知されたアーティスト。一枚の画面に自分自身を複数役で登場させるデジタル合成により、青年期・アイデンティティ・欲望の撹乱的な劇場を作り上げる。
スゼ・ツン・レオン(1970年生まれ)は、地平線・領域・都市形態を主題に、大判カラー写真の連作でグローバル化と都市景観を探求するアーティスト。高所からのパノラマ的視点と体系的な構図によって、都市と地形を視覚的システムとして問い直す。
ネイト・ロウマン(1979年アメリカ生まれ)は、タブロイド・報道・犯罪図像・アメリカ大衆文化から見つかったイメージを反復的に流用する絵画・インスタレーション・版画の作家。すでに循環する視覚的断片を原材料として、写真的現実がいかに公的な知覚を構造化するかを問う。
ワンゲチ・ムトゥは、民族誌写真・ファッション写真・医学図版などの断片をコラージュし、植民地主義とジェンダー化された身体表象の歴史を再構成するケニア出身のアーティスト。
イヴ・サスマンは、歴史絵画のタブローや写真の構図を映像・インスタレーションへ展開し、静止画像が時間、身体、演技によってどのように揺らぐかを探る作家。
1960年サイゴン生まれ、ベトナム系アメリカ人。《Small Wars》《29 Palms》など戦争の再演・軍事訓練・景観を大判カメラで記録した連作群で知られる。
ライアン・マッギンレー(1977年生まれ)は、ニューヨークのダウンタウン・ユース・サブカルチャーを身近な距離から撮影し、後に屋外での演出的な裸体ロードトリップへと展開したアメリカの写真家。24歳でホイットニー美術館初の個展を開いた最年少作家として知られる。
サラ・ヴァンダービーク(1976年生まれ)は、美術史・アーカイブ・都市の断片を一時的な彫刻として組み上げ写真に収め、その後解体するアメリカのアーティスト。写真はオブジェクトの唯一の痕跡として残り、記憶・時間・場所・集合的歴史の問いを担う。
シャノン・エブナー(1971年生まれ、ロサンゼルス拠点)は、段ボール・木材・コンクリートブロックで文字や語句を構築して写真に撮り、言語を視覚的構造として問うアメリカのアーティスト。「The Electric Comma」など詩と写真を横断するプロジェクトで知られ、MoMAに複数作品が収蔵されている。
アイリーン・クインラン(1972年生まれ)は、スモーク・鏡・マイラー・偏光ゲル・期限切れフィルムといった素材を使ったスタジオ実験でフェミニスト的写真抽象を展開するアメリカの写真家。MoMA「New Photography 2013」参加。
ルーカス・ブレイロック(1978年生まれ)は、消しゴムや靴などの日常物を大判カメラで撮影し、Photoshopの加工痕をあえて残すアメリカの写真家。デジタル操作の「隠蔽」という慣習を逆転させ、加工の労働それ自体を写真の構造として可視化する。
ケイト・ステシウ(1978年生まれ)は、インターネットやストックイメージ・データベースから画像を採取し、デジタル加工・プレキシグラス・コラージュと組み合わせた写真的構造物を制作するアメリカのアーティスト。商業的画像経済と写真のオブジェクト性をめぐるポストインターネット的実践を展開する。
ラシード・ジョンソン(1977年シカゴ生まれ)は、ヴァン・ダイク・ブラウン印画などの歴史的写真プロセスと演出的なポートレートを通じ、黒人のアイデンティティ・二重意識・表象の政治を問うアメリカのアーティスト。スタジオ美術館ハーレム「Freestyle」(2001年)に参加しポストブラック芸術の文脈で…
アーティ・ヴィアカント(1986年生まれ)は、写真・彫刻・デジタルファイル・オンライン流通を横断するアメリカのアーティスト。2011年開始の「Image Objects」シリーズで、展覧会ドキュメント画像をアーティスト自身が加工して独立した作品とし、物理的オブジェクトとその複製・流通の境界を問う。
ケリー・コネル(1974年生まれ)は、一人のモデルを複数の役割で撮影しデジタル合成した「Double Life」シリーズで知られるアメリカの写真家。架空の二人の関係として提示されるその光景は、アイデンティティ・ジェンダー・親密性をめぐる内的葛藤を、ドキュメントの形式を借りて外在化する。
アレック・ソスは、ミシシッピ川沿いの人物・風景・部屋の断片を大判カラーと写真集編集で結び、アメリカの孤独と憧れを読む経験へ変えた写真家。
グレゴリー・クルードソンは、俳優・照明・セットを用いてアメリカ郊外の日常を前後不明の不穏な静止画へ変える演出写真の作家。
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
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