1868年、パリ生まれのアドルフ・ド・メイヤーは、家族や親しい友人のスナップから写真に入り、Linked Ring、Photo-Secessionを経て、ニジンスキーの《L’Après-midi d’un faune》、社交界肖像、静物、『Vogue』『Vanity Fair』『Harper’s Bazaar』のファッション写真へ進んだ。日本旅行で深めた平面構成と逆光、反射する布や宝飾の階調を誌面にも用い、美術写真と近代ファッション写真が接続する過程を考えるうえで重要な写真家である。
19世紀末から20世紀初頭の服飾写真では、衣服の形や着用例を明瞭に伝える図版が大きな役割を占めていた。ド・メイヤーはPhoto-Secessionで培った逆光、淡い階調、平面構成を雑誌へ持ち込み、服だけでなくモデルの姿勢、室内、花、宝飾、余白まで一枚の画面として設計した。写真は「何を着ているか」の説明に加え、「どんな生活や趣味に属する人物として見せるか」を担うようになる。美術写真の語彙を大量流通する編集媒体の内部で機能させた点が、彼の写真史上の重要な差分である。
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目次 · Table of Contents
アマチュア写真、Linked Ring、Photo-Secession――写真を美術として扱う環境
ド・メイヤーが写真を始めた入口は、家族や親しい友人のスナップを集め、自らも撮影する私的な実践だった。*26 身近な人物を残すために使い始めたカメラは、20代半ばから展覧会へ出す作品を作る道具へ変わっていく。20代半ばにはアマチュアとして作品を出品し、ロンドン移住後にRoyal Photographic SocietyとLinked Ringへ加わり、写真を鑑賞・審査・出版の対象として扱う国際的な美術写真の場へ入った。*1 その後はアルフレッド・スティーグリッツと交流し、『Camera Work』への掲載、Photo-Secession参加へ進む。*13 世紀転換期のピクトリアリズムでは、ネガを事実の自動記録として終わらせず、焦点、光、印画、紙、構図を撮影者が選ぶことが写真の作者性を支えると考えられていた。*19 家族のスナップから始まったカメラが、こうした制度に入ることで、親しい人物を撮る道具から光と調子を設計する美術媒体へ段階的に変わったと捉えられる。
社交界と自己演出――被写体の外側から観察する写真家ではなかった
ド・メイヤー夫妻は、芸術家、舞台人、王室周辺を含む国際的な社交圏に身を置き、彼が後に撮影する人物の服装や身振りを外部から取材するのではなく、自身の生活文化として知る位置にいた。*27 妻オルガは長年のモデルであり、旅行、庭園、室内、社交界肖像を通して繰り返し撮影された。*26 NPG所蔵のLady Ottoline MorrellのAutochromeでは、色、花、宝飾、照明が人物と同じ比重で働き、肖像が「誰であるか」だけでなく、どのような趣味と空間に属する人物として見せるかまで設計されている。*22 この経験が後のファッション誌で重要になるのは、衣服を単体で記録するのでなく、服を着る人物、家具、花、光を含む社会的イメージを一画面で作れたからである。一方、爵位や出生・国籍をめぐる古い記述には資料差があるため、華麗な伝記を作品意図の説明へ直結させることは避ける必要がある。*11
1900年の日本旅行――余白、平面、逆光を学ぶ場
1900年の日本旅行でド・メイヤーは寺院や名所だけを記録せず、障子、柱、枝、壁、影、植物を画面の区切りとして用いた写真を多数残した。現存する少なくとも59点の旅行写真には、広い余白、格子状の線、平面的な構成、方向性のある逆光が繰り返し現れる。*3 そこには日本美術を参照していたホイッスラーやAesthetic Movementの影響も重なり、現実の奥行きを忠実に再現することより、面と調子の配置によって気分を作る考え方が強まった。*3 後年のファッション写真で、モデルの背後を空け、布や髪の縁だけを光らせ、装飾を平面上のアクセントとして配置する方法は、この旅行写真と連続して検討できる。*2
逆光と反射――衣服を説明する前に、光の階調を設計する
ド・メイヤーの写真では、逆光が髪の輪郭を光らせ、薄布を透かし、ガラス、真珠、銀器、花弁の反射を白く浮かせる。こうした光の扱いはピクトリアリズム期だけに限られず、その後の商業写真にも持ち込まれた。*4 ここでソフトフォーカスは細部を曖昧にするための効果ではない。画面のどこを輝かせ、どこを暗部へ沈めるかを決めることで、見る順序そのものを作る。《Still Life》でも、照明と階調の操作によって花や反射面の一部だけが強く浮かび、同じ考え方が静物へ適用されている。*9 人物、衣服、花、ガラスに同じ考え方を適用できたことから、彼の中心課題は特定のジャンルより、反射する物質を光の層として統御することにあったと考えられる。
肖像からファッションへ――「人」と「服」を一つの社会的イメージにする
《The Silver Cap》では、オルガの帽子、衣装、暗い背景、光を拾う装飾が一つの明暗構造を作り、服の縫製を均等に読ませる商品図版とは異なる見え方を作っている。*7 『Vogue』も、社交界の人物やセレブリティを写真で扱うことで誌面にエリート的な雰囲気を与え、1914年にはド・メイヤーを最初の公式スタッフ写真家として迎えた。*6 この仕事で重要なのは、衣服だけを魅力的に写すことではなく、モデルの姿勢、家具、花、光まで含めて、その衣服が似合う生活を誌面上に成立させることだった。Gettyのファッション写真史が、彼の写真を手描きのイラストレーションと競合する新しい媒体として位置づけるのは、写真が服の記録を越えて雑誌の世界観を担い始めたからである。*5
ニジンスキー《牧神の午後》――舞踊を一枚で止めず、連続写真へ翻訳する
1912年に撮影したヴァーツラフ・ニジンスキーの《L’Après-midi d’un faune》は、ド・メイヤーの方法を舞台写真の側から理解できる仕事である。この連作は現存部数の少ないアルバムとして残り、振付を複数の静止像へ置き換えた仕事として位置づけられている。*2 この舞台は身体を正面・側面へ平たく向けるポーズを連ね、古代の壺絵やレリーフを思わせる構成を取った。ISAWの資料では、ド・メイヤーが独自の照明を用い、一部をガーゼ越しに撮影し、ネガにも手を加えたことが確認できる。*16 跳躍の頂点だけを決定的瞬間として抜き出すのでなく、複数の写真を順に見ることで身体の角度と振付の推移を追わせたため、写真集のページそのものが舞踊の時間を組み直す装置になった。*17
《The Silver Cap》――ピクトリアル肖像がファッション写真へ近づく
1909年頃に制作され、1912年にプリントされた《The Silver Cap》は、ド・メイヤーが美術写真とファッション写真を別々の様式に分けていなかったことを示す代表例である。*7 モデルは妻オルガで、帽子と衣装の光沢、横顔、背景の暗さが結びつき、人物の心理描写よりも装いを含む全体の印象が前面に出る。Photo-Secessionで重視されたプリントの階調や構成をそのまま保ちながら、被写体は社交界の衣服とスタイルへ向かっている。Art Institute of ChicagoのPhoto-Secession資料と照らすと、彼の商業活動は美術写真を捨てた後の別職種ではなく、そこで培った画面設計を大量流通する雑誌へ適用した時期として位置づけられる。*13
『Vogue』『Vanity Fair』『Harper’s Bazaar』――最終形はプリントだけでなく誌面だった
1913年に『Vogue』へ写真が掲載され、翌年Condé Nastに雇われた後、ド・メイヤーの写真は雑誌のページ、見開き、キャプション、隣接するイラストや記事と一緒に読まれるようになった。*1 当時の『Vogue』は、従来型の著名人写真に代えて、誌面全体の印象を作れる形式的に洗練された写真を積極的に採用していた。*6 1921年にはHearst系の『Harper’s Bazaar』へ移り、パリで活動を続けた。*1 写真家の仕事が「一枚の完成プリント」を作ることから、毎号更新される誌面の視覚言語を支えることへ広がった点は、ファッション写真が近代的な編集産業の中で専門化していく過程そのものだった。Gettyはド・メイヤーとスタイケンを、現代ファッション写真の基礎を作った人物として同じ歴史の中に置いている。*21
カラー、静物、肖像――一つの作風に固定しない実験
ド・メイヤーは白黒のプラチナ印画だけを用いた写真家ではない。Lady Ottoline MorrellのAutochromeのようなカラー作品も残し、色と装飾を肖像へ組み込んだ。*22 静物では花、ガラス、果物、反射面を使い、人物写真と同じように光の調子を主題化した。*9 『Camera Work』に掲載された初期作品から雑誌の商業写真までを通して見ると、媒体が変わっても、画面の情報量を均質に増やす方向には進まず、選択された光、余白、表面へ注意を集中させる方法が続いている。MoMAの『Camera Work』資料は、こうした作品が写真を美術として議論する国際的な出版空間で流通したことを確認させる。*15
スタイケンとの交代――ピクトリアリズムから1920年代のファッション写真へ
ド・メイヤーの歴史的位置は、後任のエドワード・スタイケンと比べると見えやすい。1920年代のファッション写真では、スタイケンがより明瞭で直接的な照明と構成へ進み、雑誌の視覚言語も変化していった。*5 スタイケン自身もPhoto-Secession期にはピクトリアルな方法を使っており、両者の違いを「古い/新しい」の二分だけで処理することはできない。*23 ド・メイヤーは柔らかな光と装飾を雑誌へ持ち込んで、写真がイラストレーションに代わりうることを示し、その後のスタイケンが同じ雑誌でより直接的なモダンさを強めた。二人を連続して検討すると、ファッション写真が芸術写真の形式を受け入れながら、1920年代の編集・広告環境に合わせて変化した過程をたどれる。
美術写真と商業写真を同じ履歴で読む
写真史ではピクトリアリズムを「美術を目指した古い写真」、雑誌写真を「商業」と分けて扱うと、ド・メイヤーの仕事の核心が切れてしまう。初期のピクトリアルな感覚は、後の商業作品にも継続している。*1 『Camera Work』、社交界肖像、ニジンスキー、Vogueの誌面に共通するのは、現実をそのまま列挙せず、光、姿勢、余白、表面の選択で被写体の価値を作る姿勢である。Art Instituteの『Camera Work』アーカイブは、当時の美術写真がすでに出版と複製を通じて流通していたことも示す。*14 ド・メイヤーの場合、その出版経験がファッション誌へ接続し、美術写真と商業写真の境界そのものが制作の場になった。
再評価――豪華さの背後にある階級、ジェンダー、欲望を含めて読む
1930年代にファッション写真がより明瞭で直接的な造形へ進むと、ド・メイヤーの柔らかなピクトリアル様式は旧時代のものと見なされ、晩年には写真史上の存在感も弱まった。*25 しかし近年は、初期の肖像、舞踊、日本旅行、Autochrome、雑誌写真を分断せず、同じ光と表面の設計が異なる媒体でどう働いたかを検討する再評価が進んでいる。*2 Elspeth H. Brownは第一次世界大戦期の『Vogue』を分析し、彼の仕事をAesthetic Movementやトランスアトランティックなクィア文化と結びついた感情表現の商業化として論じ、同時に人種化された白人性の形成も問題にしている。*18 これは本人の性的アイデンティティを作品から断定する議論とは区別すべきだが、豪奢な室内、白い肌、宝飾、余暇、社交界が誰の生活を「洗練」として誌面に流通させたのかを問う視点を加える。 ド・メイヤーの重要性はピクトリアルな美しさそのものより、その美しさが美術写真、階級文化、ファッション産業をまたいで商品化された地点にある。
- アルフレッド・スティーグリッツ ― Photo-Secession と『Camera Work』を通じてド・メイヤーの美術写真を世に出した編集者。
- エドワード・スタイケン ― 『Vogue』でド・メイヤーの後任となり、1920年代のファッション写真を別の方向へ進めた。
- アルヴィン・ラングドン・コバーン ― 同時期の Photo-Secession で、逆光と平面的な構成を風景・都市へ用いた。
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
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