ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット
タルボットはカロタイプ(ネガ=ポジ方式)を発明し、一枚のネガから複数の陽画を作るという写真の複製性の基盤を築いた。「自然の鉛筆」(1844〜46年)は商業出版された最初の写真入り書籍であり、写真が記録・芸術・複製の三つの機能を持つことを世に示した。
イギリスに関わる写真家を、各作家がどの時代・運動と結びつくのかとともにたどるページです。
タルボットはカロタイプ(ネガ=ポジ方式)を発明し、一枚のネガから複数の陽画を作るという写真の複製性の基盤を築いた。「自然の鉛筆」(1844〜46年)は商業出版された最初の写真入り書籍であり、写真が記録・芸術・複製の三つの機能を持つことを世に示した。
弁護士出身のフェントンは1853年に英国王立写真協会の設立に中心的役割を果たし、1855年のクリミア戦争で最初の大規模な従軍写真プロジェクトを遂行した。「死体を撮るな」という出版業者の指示のもとで作られた約360点は、戦争写真と宣伝の関係を問う議論の起点であり続けている。
ヴェネツィア生まれでイギリスに帰化したベアトは、クリミア・インド・中国・日本と英仏軍の展開する場所を追い続けた写真家だった。1863年から横浜に拠点を置き、手彩色の写真帖によって日本の風景・人物・風俗を外国人旅行者向けに販売した。
ヴィクトリア朝イギリスで、肖像写真を単なる外見の記録から、感情、信仰、文学的想像力を帯びた像へ押し広げた写真家。ソフトフォーカス、近接、大判ネガ、湿板写真の揺らぎを用い、家族、使用人、文学者、科学者を、聖母、預言者、詩の登場人物のように撮影した。
画家としての構図知識とロバート・アダムソンの技量を組み合わせ、1843〜48年にカロタイプで約3000点を制作したヒルは、写真を芸術的媒体として意識的に用いた最初の本格的実践者として評価されている。ニューヘブン漁師の連作は写真史上最初の社会記録プロジェクトであり、スティーグリッツはヒルを「絵画的写…
1843〜48年のわずか5年間でヒルとともに約3000点のカロタイプを制作し、26〜27歳で早世したアダムソンは、ヒルの絵画的直観を写真技術に変換した技術的な主導者である。その仕事は没後半世紀を経てジェームズ・クレイグ・アナンのフォトグラビュール再制作を通じてCamera Workに掲載され、写真…
スコットランド出身のガードナーは南北戦争の写真記録においてブレイディの組織から独立し、写真家個人のクレジットを明示した写真集『ガードナーの戦争写真スケッチブック』(1865〜66年)を刊行した。これはドキュメンタリー写真における著作権の原則的な主張として写真史上画期的な行為であり、スミソニアンは彼…
アンナ・アトキンスは、ジョン・ハーシェルのシアノタイプ法を使って1843年から『Photographs of British Algae: Cyanotype Impressions』を自費刊行した植物学者・写真家。藻類やシダを感光紙へ直接置き、輪郭と半透明部分を白とプルシアンブルーの像として記録した。分冊、差替え、ラテン名、手書き文字まで写真工程へ組み込んだ仕事は、植物分類、カメラレス写真、写真集、女性の科学参加が交差する初期写真の重要な事例である。
アントワーヌ・クローデは、フランスからロンドンへ移り、1840年代からダゲレオタイプ肖像館を運営した写真家・発明家。アデレード・ギャラリーやリージェント・ストリートの「Temple of Photography」で露光短縮、焦点測定、背景、手彩色を改良し、1850年代にはステレオ・ダゲレオタイプや立体視と屈折の研究へ進んだ。商業肖像と王立協会での光学研究を並行した彼の写真館は、撮影所、実験室、見世物、店舗という複数の機能を一つの空間に集めていた。
チャールズ・クリフォードは、1850年代のマドリードを拠点に、サラマンカ、トレド、グラナダなどの歴史建築、イサベル2世の巡幸、マドリードの給水事業を大判写真で記録した写真家。紙ネガから大型ガラス・ネガへ技術を更新し、修復前の建物の細部を残す一方、王室の移動や新しい公共事業もアルバムとして記録した。19世紀スペインで写真が文化財調査、王室広報、公共事業の記録にどう使われたかを一人のキャリアから追える。
ヒュー・ウェルチ・ダイアモンドは、精神科医としてサリー州精神病院の女性患者を撮影し、表情や衣服を病状の記録・比較・診断に使おうとした初期医療写真の重要人物。同時にPhotographic Societyの形成、技術普及、古美術撮影にも関わった。写真なら患者の外見を正確に固定できると考えたが、実際の像にはポーズ、衣服、小道具、撮影者の判断も写り込んでおり、19世紀医学が写真に期待した「客観的な診断資料」がどう作られたのかを検討する資料になっている。
ジョン・ジェイビズ・エドウィン・メイオールは、フィラデルフィアで磨いた大型ダゲレオタイプの明晰さをロンドンへ持ち込み、科学者や文化人、ヴィクトリア女王一家を撮った肖像写真家。1860年の《Royal Album》では王室肖像を名刺判写真(カルト・ド・ヴィジット)として一般販売し、同じ肖像を多数の家庭へ届けた。王族の写真を買い、交換し、自分の家族や著名人の写真と同じアルバムへ並べる19世紀の肖像文化を考えるうえで重要な作家である。
リチャード・ビアードは、ロンドンの石炭商から写真事業へ参入し、1841年にロイヤル・ポリテクニック・インスティテューション屋上でダゲレオタイプ肖像館を開いた企業家。ウォルコット式カメラを導入し、英国のダゲレオタイプ特許権を軸に複数の店舗と地方ライセンスを展開した。「Beard Patentee」と刻まれた肖像の多くは雇用技師が撮影しており、作品の画面と同時に、ケース、商標、特許、分業が初期写真を商品と職業へ編成した過程を伝えている。
ベンジャミン・ブレックネル・ターナーは、1849年に写真を始め、1850年代を中心に活動した英国のアマチュア写真家。ロンドンで蝋燭・石鹸の家業を営む一方、カロタイプの紙ネガで田園、古木、修道院跡、クリスタル・パレスを撮り、『Photographic Views from Nature』に編集した。新しいガラス湿板が普及する時代に紙ネガを選んだ理由と、近代建築から田園へ進むアルバムの構成を通して、産業化期の英国で何を残すべき風景として見たのかを考える。
フランシス・ベッドフォードは、1850年代から1870年代を中心に活動した英国の建築・旅行写真家。建築製図とリトグラフの経験を湿板写真へ生かし、英国の聖堂や風景を出版したほか、1862年には皇太子の中東巡幸へ公式写真家として同行した。200点を超えるネガを撮影し、日付・地名・番号を伴う系列を展覧会、王室アルバム、市販写真へ展開した。その仕事から、旅行写真が場所を記録するだけでなく、王室の旅程、聖書・古典の知識、出版市場によって「どこを見るべきか」を組織した仕組みを考える。
1850年代にコンスタンティノープルを拠点とし、オスマン帝国造幣局の彫版師から写真家へ進んだジェームズ・ロバートソン。1853–54年のアテネ古代遺跡、イスタンブール、1855–56年、クリミア戦争末期から講和前後のセヴァストポリを撮影し、フェリーチェ・ベアトとの共同名義でも活動した。砲台、港、城壁、廃墟を広い画面で追う写真から、初期戦争写真が戦闘の瞬間より「戦争が地形と都市へ残したもの」をどう記録したかを考える。
ジョン・ディルウィン・ルウェリンは、1840年代から1850年代を中心にウェールズのPenllergareで活動した初期写真家・科学者。土地を相続した地主として庭園、湖、温室、観測所を整え、タルボット家との親族関係や科学者との交流を背景に、家族、植物、海岸、波、船、月を撮影した。1856年には湿板を屋外で扱いやすくするオキシメル法を考案し、娘テレザらも撮影・印画・天文観測に参加した。写真技術が個人の発明だけでなく、資金、設備、家族の分業、地域の科学文化から成立したことを示す人物である。
1854年から1860年にかけて、東インド会社軍の士官として南インドとビルマ(現ミャンマー)の寺院、宮殿、碑文、彫刻、都市景観を撮影したリンネウス・トライプ。1855年のビルマ使節団とMadras Presidencyの政府写真家として、蝋引き紙ネガを携行し、建築を複数方向から番号・キャプション付きで記録した。行政が求めた正確な情報と、雲や植生をネガへ描き足す手作業が同居する写真から、植民地調査における「客観的な記録」がどのように作られたかを考える。
マーティン・ラローシュは、本名William Henry Silvesterで、1840年代末から1860年代にロンドンを中心に活動した職業写真家。ダゲレオタイプ肖像館を営み、1854年のTalbot v. Laroche裁判で湿板コロジオン使用をめぐってタルボットと争った。チャールズ・キーンの《Richard II》《King Lear》などの舞台を再構成した写真も残り、初期写真を発明史だけでなく、営業写真館、特許、複製可能な俳優像の市場から考えるための人物である。
オスカー・レイランダーは、1850年代から1870年代に英国で活動したスウェーデン生まれの写真家。《The Two Ways of Life》では30点以上のネガを一枚へ焼き合わせ、歴史画規模の寓意を写真で構成した。肖像、子どもの身振り、チャールズ・ダーウィン『人及び動物の表情について』の写真も制作し、演出・合成によって作られた像が芸術では物語、科学では観察資料として働くという、写真の「事実らしさ」の複雑さを早い時期に示した。
1852年から1855年を中心に、ロンドン万国博覧会のクリスタル・パレスがハイド・パークからシドナムへ移築・再建される工程を連続撮影した英国の写真家。柱の設置、梁と足場、蒸気機関、作業員、歴史展示の搬入、開館式までを追い、『Photographic Views of the Progress of the Crystal Palace, Sydenham』に160点を収録した。1850年代の建築写真が完成建物だけでなく、建設の時間と産業労働を記録する媒体へ広がった過程を示す。
1854年頃から1880年代まで活動し、北米、パリ、アルプス、イタリア、1862年ロンドン国際博覧会をステレオ写真として大量に出版した英国の写真家。London Stereoscopic Companyの撮影者として出発し、独立後は旅行シリーズを自ら販売した。左右一対の像をビューアで重ねると生じる奥行きを前提に、橋、山道、列柱、滝を手前から遠景へ配置した画面から、写真と観光と出版が同じ時期に大衆化した仕組みを読む。
ウィリアム・レイク・プライスは、1850年代から1860年代初頭に写真家・著述家として活動した英国の水彩画家出身の写真家。建築画の訓練を背景に、《Don Quixote in His Study》など文学や歴史を演じ直すタブロー、芸術家肖像、ロンドン都市景観、美術複製と写真製版を手がけた。撮影前の演技と構図、撮影後の印刷・出版までを制作工程として捉え、写真に「構図」をどう導入するかを実作と文章の双方で論じた人物である。
1822年にスコットランドのカンバーノールド近郊に生まれ、1857年頃から1864年まで撮影したクレメンティナ・ホーワーデンは、ロンドンの自宅5 Princes Gardensで娘たちを集中的に撮影した。窓からの自然光、鏡、衣装、二人組のポーズ、家具を減らした室内を反復し、「Photographic Study」「Studies from Life」として発表した。家庭の内部を人物、光、鏡像の変化を試す撮影空間にし、ヴィクトリア朝の家族写真と芸術写真の境界を広げた写真家である。
1822年にイングランドのチェスターフィールドに生まれ、1850年代後半から1860年代を中心に活動した写真家・出版事業者。エジプト、シナイ、パレスチナを大判の湿板写真で記録し、『Egypt and Palestine Photographed and Described』では写真と地理・聖書解説を組み合わせた。帰国後はFrancis Frith & Co.を組織し、英国各地の町村写真を規格化して販売した。旅行写真を出版、観光、地誌、宗教的知識と結びつけ、大規模な視覚アーカイブへ展開した人物である。
ルイス・キャロルは、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンが文学作品に用いた筆名である。1832年にイングランド・チェシャーのデアズベリーに生まれ、オックスフォード大学Christ Churchで数学を教える一方、1856年から1880年まで写真を制作した。Christ Church学寮長の娘で『不思議の国のアリス』成立の着想源となったアリス・リデル、同僚の娘アレクサンドラ・キッチン(愛称ジー)、芸術家や知人を繰り返し撮影し、衣装、物語的な演技、私的アルバムを用いて肖像を構成した。ヴィクトリア朝の芸術写真を代表する一人であり、現在は写真史上の達成と子どもを撮る成人撮影者の権力差の双方から検討されている。
1831年にイングランドのサフォーク州に生まれ、1850年代にロンドンで活動したロバート・ハウレットは、王室委嘱、クリミア戦争帰還兵の肖像、風景、産業写真を手がけた写真家である。代表作は、当時世界最大級の蒸気船Great Easternの建造現場と、その設計者イザムバード・キングダム・ブルネルを撮った1857年の系列。人間、鎖、船体、足場を同じ画面に入れて巨大な工業設備の尺度を伝え、写真を新聞版画やステレオへ展開したことで、産業の記録が公共的なニュース像になる過程を示した。
サミュエル・ボーンは1834年イングランドのマックルストーン生まれ。銀行員から職業写真家へ転じ、1863〜70年にインドで活動し、三度のヒマラヤ遠征を行った。大判湿板、携帯暗室、多数の運搬人を必要とする制作を、Bourne & Shepherdの番号付きカタログと販売網へつなげ、山岳、寺院、都市を購入可能な「インドのビュー」として広く流通させた。その形式美と技術的達成は、植民地の交通・労働・市場と不可分に成立していた。
1827年にスコットランドのセント・サイラスに生まれ、1852年頃から1857年頃を中心に写真を制作したトーマス・キースは、エディンバラで診療する外科医でもあった。蝋引き紙ネガと塩紙プリントを用い、旧市街の路地・階段・石造建築、スコットランド西岸のアイオナ島の修道院跡などを撮影した。早朝や夕方の斜光を選び、建築の凹凸と深い影を大きな面として構成した写真は、都市改造で失われた場所の記録であると同時に、紙ネガの柔らかな描写を生かした独自の都市・建築写真として評価されている。
1802年頃生まれとされるアルフレッド・ロスリングは、材木商であり、1850年代のロンドン、ウェールズ、庭園、橋、採石場などを紙ネガ系の技法で撮影し、Photographic Societyの創設期から展覧会や共同アルバムに参加したアマチュア写真家である。出生地、没年、作品単位の帰属には資料差が残るため、《The Float at Swansea》など技術記録の明確な作品と、後年フランシス・フリスが印刷・出版した地誌写真を軸に、初期写真の作者性、階級的なアマチュア文化、商業流通の変化を検討する。
1831年、イングランドのケンブリッジシャー生まれ。1850年代にロンドンで写真家となり、肖像、建築、ステレオ写真を制作した。湿板コロジオンの感光液と現像、明るいレンズ、馬車を改造した移動暗室を組み合わせ、1860年代初頭の《Instantaneous Views of London》では馬車や歩行者が行き交う街路を短時間露光で定着した。大型機材と現地処理が必要な時代に、建築の形に加えて都市の交通や群衆まで写真の歴史資料にできることを早い段階で示した。
複数カメラによる連続撮影で運動の時間構造を可視化し、ズープラクシスコープで動きとして再投影した写真家。University of Pennsylvaniaとの共同研究、講演実演、ヨセミテの景観写真も含む実践は、写真・科学・映像技術の交差点に立つ。
産業都市グラスゴーの旧市街、取り壊し直前の密集路地を市の委嘱で系統的に記録した写真家。改善政策の記録として依頼された写真が、都市貧困の証言として再評価される逆説的な位置にあり、ドキュメンタリー写真の前史として頻繁に参照される。
イングランドとフランスのゴシック大聖堂を、プラチナ印画の繊細な階調で記録した写真家。建築を物理的構造としてではなく、光と空間に宿る精神性の経験として捉え、写真を芸術として自立させる実践の重要な位置を占める。
ヘンリー・ディクソンは1820年生まれ。1860年代からロンドンで写真業を営み、1870〜80年代にはSociety for Photographing Relics of Old London(SPROL)のため、解体が迫る建築を記録した。ブール兄弟との分業、湿板ネガ、保存性を重視したカーボン印画を通して、写真が都市の消失を事前に記録し、後世の建築史資料として残る仕組みを考える。
1830年にイングランドのラドローに生まれ、1850年代から1890年代にかけて活動したヘンリー・ピーチ・ロビンソンは、写真家、写真館経営者、理論家として英国の芸術写真を論じ続けた。代表作《Fading Away》では複数のネガを一枚へ焼き合わせる組合せ印画を用い、1869年の『Pictorial Effect in Photography』では構図、明暗、撮影後の合成を体系的に解説した。後にはLinked Ringの形成に関わり、写真における構成、加工、真実性、作者性をめぐる19世紀後半の論争を代表する人物となった。
ジョン・トムソンは1837年エディンバラ生まれ。1860年代から東南アジアと中国で活動し、1870年代には『Illustrations of China and Its People』、帰国後の1877〜78年にはアドルフ・スミスと『Street Life in London』を刊行した。湿板写真を文章と連続出版に組み込み、遠隔地や都市の生活を具体的に伝える一方、人々を職業・民族・階層の「タイプ」として整理する近代の分類視線にも関わった。
1856年ブライトン生まれ。父ロバートは同地の初期肖像写真家で、ファーマーは幼少期から写真と化学が身近にある家庭に育った。物理学を学び、1882年からRegent Street Polytechnicで写真を教え、のちに写真学校の初代責任者となる。Farmer’s Reducerとして定着した画像減力法、写真工程やカメラの特許、《A Wiltshire Thatcher》やストーンヘンジの野外写真を通じ、露光・材料・現像・補正を分解して教えられる知識へ整理した。写真が徒弟的な技能から高等・職業教育の専門領域へ移る過程を体現した写真家・教育者である。
1853年リーズのヘディングリー生まれ。画家の父からカメラを与えられ、1870年に家族でウィットビーへ移住した。翌年父を失い、18歳で母と7人の弟妹を支えるため写真を職業にし、肖像写真館を営みながら、港、漁師、子ども、船、街路を数十年撮影した。《The Water Rats》《Dinnertime》などをLinked Ring周辺の美術写真へ発展させた一方、漁港と観光地が重なる町の社会史も残した。その二つの働きが同じ画面にどう成立したかをたどる。
エマーソンがスタジオ演出を「不正直」と批判し、単一ネガ・単一露光による写真を芸術の条件とした根拠は、ドイツの生理学者ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの視覚生理学にあった。ヘルムホルツは網膜中心窩のみが鮮明に見え、周辺視野は自動的に軟化するという人間の視覚特性を解明しており、エマーソンは1889年の著…
ジェームズ・ブッカー・ブレイクモア・ウェリントンは1858年バース近郊ランズダウン生まれ。1880〜90年代にピクトリアル写真を制作し、1892年にはLinked Ringへ参加した一方、1890年代以降はWellington & Wardで乾板、フィルム、印画紙の製造を担った。《Eventide》などの合成と柔らかな階調を、作品の「作風」だけでなく、それを可能にした乳剤、紙、複製法、写真材料産業まで含めて考えられる写真家・技術者である。
1854年イングランド東部ローストフトの船大工の家庭に生まれ、官吏として働きながら1885年頃に写真を始めた。ピーター・ヘンリー・エマーソンの自然主義写真を学んだ後、1890年の《The Onion Field》ではピンホールによって細部を大きく抑え、写真の鮮明さをめぐる論争の中心に立った。1892年にはLinked Ringの創設に参加し、のちにKodak英国法人の経営者、キリスト教社会主義や社会改革運動の支援者となる。画面のぼけに加え、階級上昇、写真産業、展示制度、政治思想が交差する位置からピクトリアリズムを考えるうえで重要な写真家である。
1863年ロンドン生まれ。少年期から風景を素描し、前景の草木や地形を素早く記録する手段としてカメラを使い始めたアルフレッド・ホースリー・ヒントンは、ピーター・ヘンリー・エマーソンの自然主義写真から刺激を受けつつ、霧、雲、川岸、田園を大きな明暗と階調で構成した。Linked Ringの活動、『The Amateur Photographer』編集、技法書、展覧会評を通じて、急増するアマチュア写真家に美術写真の制作法と評価基準を伝えた。
1864年スコットランドのハミルトン生まれ。化学と自然哲学を学んだ後、写真家トーマス・アナンの家業で撮影と印刷に入り、1883年にウィーンでフォトグラヴュール技法を習得した。Linked Ringや『Camera Work』を通じて国際的なピクトリアリズムに参加し、自作の旅・肖像写真とヒル&アダムソンの1840年代のネガを同じ版画技術で再制作した。撮影、印刷、複製、展覧会、写真史の形成を連続した仕事として扱った点に特色がある。
1838年バーミンガム近郊アストン生まれ。ガラス製造と製紙業で財を築き、地方政治家、国会議員として活動する一方、古物・地誌資料の収集から写真へ入り、英国各地の建築、祭礼、職業習慣、国会を大量の写真と詳細なキャプションで記録した。1897年にはNational Photographic Record Associationを主導し、撮影、分類、保存、公共アーカイブへの収蔵を一つの計画として整えた。写真を将来の歴史資料として制度化した人物であり、その制度がどの「英国」を保存対象に選んだかも現在の重要な批評点である。
1864年フランス北東部エルブヴィル生まれ。少年期に英国へ移り、シアノタイプを試した後、木版職人として働きながら写真を趣味として続けたポール・マーティンは、1892年頃から包みのように偽装した小型乾板カメラでロンドンの市場、売り子、労働者、子どもを撮影した。昼は人々が撮影を意識する前の身振りを短い露光で捉え、夜はガス灯と濡れた路面を長時間露光した。《The Magazine Seller》《Trafalgar Square on a Very Wet Night》を通して、都市写真の時間と撮影者の存在感を変えた方法を検討する。
1846年ヨーク生まれ。眼科医として診療しながら山岳・氷河観察を続け、やがて火山学へ進んだテンペスト・アンダーソンは、乾板、パノラマ、幻灯を使って噴火と地形変化を記録した。1902年のスフリエール山・プレー山調査と『Volcanic Studies in Many Lands』を軸に、写真を現地観察、学会報告、公共講演へ連続させた科学写真の方法をたどる。
1868年、パリ生まれのアドルフ・ド・メイヤーは、家族や親しい友人のスナップから写真に入り、Linked Ring、Photo-Secessionを経て、ニジンスキーの《L’Après-midi d’un faune》、社交界肖像、静物、『Vogue』『Vanity Fair』『Harper’s Bazaar』のファッション写真へ進んだ。日本旅行で深めた平面構成と逆光、反射する布や宝飾の階調を誌面にも用い、美術写真と近代ファッション写真が接続する過程を考えるうえで重要な写真家である。
1861年、ウェスト・ヨークシャーのキーグリーに生まれたアレグザンダー・キーグリーは、毛織物業の経営に携わりながら写真を続け、初期の演出人物写真から森、雪、農村、古建築、海外旅行の風景へ主題を広げた。撮影したネガを段階的に拡大し、その途中で細部を修整して炭素印画へ仕上げる方法と、Linked RingやYorkshire Photographic Unionを介した展覧会活動を通じ、地方のアマチュア制作を国際的な美術写真へ結びつけた。
1868年、イギリスのリヴァプールに生まれたJ・ダドリー・ジョンストンは、港湾都市やヴェネツィアをガム・ダイクロメート印画、オイル印画で制作したピクトリアリストである。1907年にLinked Ringへ参加し、1920年代以降はRPSの会長・名誉キュレーターとして歴史的写真を収集した。作品制作とコレクション形成を通じ、英国で芸術写真が制作・保存・研究される制度にどう関わったかをたどる。
ピクトリアリズムの叙情的な画面から都市の俯瞰へ、さらに鏡装置を使った抽象写真へと展開したイギリス・アメリカの写真家。1916〜17年の《Vortograph》シリーズは写真による抽象化の初期実験として記録される。
1870年、イングランドのソールズベリーに生まれたハーバート・ポンティングは、日本やアジアを撮る旅行写真家を経て、スコットのTerra Nova遠征(1910–13)で公式写真家・映画撮影者を務めた。氷山、基地、科学者、船員をガラス乾板と映画で記録し、帰国後は幻灯講演、著書『The Great White South』、映画『The Great White Silence』へ再編集した。科学記録、探検広報、英雄化が同じ画像群からどう作られたかをたどる。
イギリスの階級社会の記録から超広角レンズによるヌードへの転換を、様式の断絶としてではなく、現実の奇妙さへの一貫した関心として読める写真家。暗部と強いコントラストが、社会的距離と心理的緊張を視覚化する。
第二次世界大戦のヨーロッパ戦線を撮り続け、ベルゲン・ベルゼン解放時の記録で写真史に衝撃を残した。その経験が「人間を撮る距離」への根本的な問い直しを迫り、戦後はアフリカへ向かってマグナム・フォトス創設の一員となった。
1904年、ロンドンのハムステッドに生まれたセシル・ビートンは、十代から妹たちをモデルに演出写真を作り、1920年代後半に『Vogue』でファッションと社交界の肖像を撮り始めた。のちに英国王室、第二次大戦の情報省公式写真、舞台・映画美術へ活動を展開した。
1924年ドイツ(東プロイセン)生まれ、2023年没。難民としてイギリスに移住した後、戦後ロンドンを拠点にストリート写真・ポートレートを中心に長い活動歴を積んだ。
1936年ウェールズ生まれ、2008年没。マグナム・フォトスのメンバーとして知られ、代表作『ベトナム株式会社』(Vietnam Inc.
1935年ロンドン生まれのフォトジャーナリスト。キプロス、ビアフラ、ベトナム、カンボジア、北アイルランドなど世界各地の紛争地帯を取材し、戦後フォトジャーナリズムを代表する写真家となった。
イヴ・アーノルド(1912–2012)は、フィラデルフィア生まれ。ハーレムの黒人ファッションショーを出発点にMagnumへ入り、モンロー、公民権運動、出産、中国などを長期取材した。
ラリー・バロウズ(1926–1971)は、ロンドン生まれのイギリス人写真家である。第二次世界大戦期にLIFE誌ロンドン支局の暗室助手となり、のちに同誌の写真家へ転じた。1962年からベトナム戦争を長期取材し、米軍部隊やヘリコプターに同行してカラーのピクチャー・エッセイを制作。1971年、ラオス上空で取材中のヘリコプターが撃墜され、同行記者とともに死亡した。
1946年マン島生まれ、2020年没。1970〜80年代のイングランド北東部——タインサイドの造船所・炭鉱・失業した工業地帯——を長期にわたって記録した。
マーティン・パーは、英国の海辺、家庭、買い物、観光、食べ物を、飽和したカラーと近距離のフラッシュで撮影した写真家である。白黒の社会的ドキュメンタリーを背景にしながら、悲劇や告発に寄せすぎず、消費社会の中で人々がどのような身振り、物、色、余暇の形式をまとっているかを、写真集と展示の連続したイメージで…
1956年イギリス生まれ。カラー写真・連作・ブック形式を組み合わせ、ドキュメンタリー写真を内側から刷新した。
1967年ドイツ生まれ、ロンドン拠点。夜の都市——再開発の残滓・不完全な構造・見過ごされた表面——を長時間露光の大判カラー写真で記録した。
1965年イギリス生まれ。16mmフィルムを中心としながら写真・ドローイング・テキストを横断する現代アーティスト。
1963年ナイジェリア生まれのイギリス人写真家。自らのキャリアを「〈戦場〉という語の意味を探索し拡張すること」と定義し、戦闘の瞬間よりも戦場の風景・廃墟・軍事インフラを大判カラーで記録してきた。
1959年イギリス生まれ。建築・都市空間・空などを主題に、出来事の記録ではなく持続的な観察と連作による記述を方法論とする大判カラー写真を制作してきた。
1971年生まれ、ロンドン拠点のブリティッシュ・アーティスト。再撮影・マーカー・ステッカーによる介入・テキストの衝突を通じてマスメディアの映像を改変し、セクシュアルな表象・消費文化・身体イメージの暴力性を露わにする。
リチャード・ビリンガム(1970年イギリス生まれ)は、自身の家族を撮影した写真シリーズ『Ray's a Laugh』で知られるアーティスト。工場労働者階級の家庭を親密な距離で記録した作品は、1990年代イギリスにおける階級・表象の政治・ドキュメンタリー写真の倫理をめぐる議論の中心となった。
アダム・ブルームバーグとオリヴァー・チャナリンは、ドキュメンタリーや制度的イメージ・システムへの批判的実践で知られる南アフリカ/イギリスの写真家デュオ。フォトブック、アーカイブへの介入、インスタレーションを通じ、写真が証拠として機能する仕組みそのものを問い続けた。
スティーヴン・ギル(1971年イギリス生まれ)は、フォトブックを主要な発表形態として、ドキュメンタリー写真を素材実験によって根本から問い直すアーティスト。カメラの中に植物や昆虫を入れたり、プリントを土の中に埋めたりすることで、場所の環境そのものをイメージの生成に参加させる。
イヴ・サスマンは、歴史絵画のタブローや写真の構図を映像・インスタレーションへ展開し、静止画像が時間、身体、演技によってどのように揺らぐかを探る作家。
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
資料の収集と本文の執筆はAIが行い、構成と編集は管理人が行っています。事実関係は管理人がAIを用いて最終チェックしていますが、誤りが残っている可能性があります。正確さが必要な場合は、各ページ §SRC の一次資料をご確認ください。