Americans
ロバート・フランク
粒子感・不安定な構図・精密な編集順序で戦後アメリカを読み直した「The Americans」(1958/59年)。写真と個人表現の境界を消した転換点。
ロバート・フランクの「The Americans」が戦後写真の転換点となった時代。テレビの台頭でLIFE誌が揺らぎ始め、日本ではVIVO・プロヴォークが「アレ・ブレ・ボケ」の美学で国際的評価を獲得した。写真家が「作者」として認識される文化が確立した時代でもある。
冷戦・朝鮮戦争・公民権運動が写真の政治的文脈を変えた。ロバート・フランクは粒子感と不安定な構図でLIFE的な明朗さを否定し、アメリカ写真の根本を問い直した。日本では東松照明・川田喜久治がVIVOを結成(1958年)し、1968-70年の「プロヴォーク」誌が森山大道や中平卓馬の荒々しい写真美学を世界へ送り出した。
フランクの「The Americans」はドキュメントと個人表現の境界を消した。FSAの「社会的記録」でもなく、HCBの「決定的瞬間」でもない——写真家の主観・不安・文化批判が写真の形式自体に埋め込まれた出発点。この転換が後のコンセプチュアル写真・私写真を可能にした。
朝鮮戦争(1950-53年)・キューバ危機(1962年)・ベトナム戦争介入(1964年)。公民権運動がロサ・パークス事件(1955年)から公民権法(1964年)へ高まった。
1950年代LIFE誌の発行部数は850万部に達したが、テレビの普及とともにその地位が揺らぎ始めた。写真報道の頂点と終わりの始まりが同時に存在した。
VIVOとプロヴォーク誌が「アレ・ブレ・ボケ」の美学を確立。1974年のMoMA「新日本写真」展が国際的評価の起点となった。
写真家が著作権を持つマグナム・モデルが定着し、フォトジャーナリストが固有の視点を持つ「作者」として評価される文化が形成された。
粒子感・不安定な構図・精密な編集順序で戦後アメリカを読み直した「The Americans」(1958/59年)。写真と個人表現の境界を消した転換点。
粒子・ブレ・ワイドアングルの歪みを都市エネルギーの言語として積極的に使ったニューヨーク・モスクワ・東京・ローマの写真集群。
占領・核・日米関係という戦後日本の構造的矛盾を写真で記録したVIVOの核心的存在。長崎・沖縄・横須賀の連作が写真史の重要な位置を占める。
35mmライカを常時携帯し、速射と不安定なフレーミングで1960年代アメリカ社会の過剰さを捉えた。未現像フィルム30万コマを残して逝去。
ショーウィンドウ・看板・自分の影・テレビを「社会的風景」として撮影。現代アメリカの視覚環境を複雑な構図で読み直した写真家。
自身の日常・妻・エロス・死を終生の主題とした私写真の代表的存在。膨大な写真集群と過剰な撮影量で、写真と欲望・時間の問題を問い続けた。
VIVO参加写真家として、「地図」(1965年)で原爆・国旗・地図を隠喩として組み合わせた写真集を制作。戦後日本の集合的記憶と写真の関係を探った。
妻ヨーコとの結婚・別離を写真集「遊戯」「鴉」で追った私写真の作家。個人の孤独と崩壊を視覚化した作品が没後に国際的再評価を受けた。
Vogue誌で培ったデザイン知性を白背景ポートレート・Small Trades・静物へ展開。商業写真とファインアートの境界を静かに塗り直した。
キプロス・ビアフラ・ベトナム・カンボジア・北アイルランドを記録した戦場写真家。人間の苦しみと戦争の本質を直視する写真倫理を体現した。
ハーパーズ・バザー・ヴォーグ・ニューヨーカーで、ファッション写真と社会的ポートレートの両面で写真表現を拡張した。
アパルトヘイト体制の内側からその日常的暴力を撮影した写真集「House of Bondage」(1967年)。南アフリカから亡命し、写真と証言の倫理を突きつけた。
1916年生まれ、2001年没。1940〜1950年代のニューヨーク——とりわけタイムズ・スクエアと14番街——を撮影したストリート写真で知られる。
1911年リトアニア生まれ、1980年没。本名イスラエリス・ビデルマナス。
1924年ドイツ(東プロイセン)生まれ、2023年没。難民としてイギリスに移住した後、戦後ロンドンを拠点にストリート写真・ポートレートを中心に長い活動歴を積んだ。
1925年オランダ生まれ、1990年没。戦後のパリに渡り、サンジェルマン・デ・プレのボヘミアン・サブカルチャーに関与しながら撮影した写真集『左岸の恋』(1956年)で知られる。
1940〜60年代のマリ・バマコで活動したセイドゥ・ケイタは、スタジオポートレートを通じてアフリカの写真的近代性を切り開いた。被写体みずからが装い・姿勢・小道具を選ぶ共同制作的な撮影実践は、写真のモダニティが西洋にのみ帰属しないことを示した。
田沼武能は、終戦直後の東京から始めた60年以上にわたる記録活動で、戦後日本の市民生活と都市の変容を写し取った。人間の存在を歴史の尺度とする市民的・人道的なまなざしが、同時代の対抗的な日本写真とは異なる位置を与えている。
1921年生まれ、2022年没。日本各地の祭礼・民俗・民間習慣を主な被写体とし、急速な近代化が進む戦後日本において失われつつある風俗・文化を長年にわたって記録した。
1943年アメリカ・オクラホマ生まれ。写真家・映画監督。
1933年山形生まれ。戦後日本の前衛文化を背景に、舞踊家・作家との協働による演劇的・象徴的なモノクロ連作を発表した。
1940年生まれ、2024年没。セレブリティのポートレート・ヌード写真・建築・雑誌・写真集にわたる広範な活動で知られる。
岩宮武二は、寺社・庭園・工芸・仏像・民具といった日本の伝統的文化形態を主題に、ドキュメントと形式的探求の境界に立つ写真実践を展開した。伝統を観光的に再現するのではなく、写真の語彙で再構成するという姿勢が、戦後日本写真の流れの中に独自の位置を与えている。
1936年ウェールズ生まれ、2008年没。マグナム・フォトスのメンバーとして知られ、代表作『ベトナム株式会社』(Vietnam Inc.
占領後の横浜で「働く女性」を主題に撮影。写真集『危険な毒花』(1957年)は赤線の女性の生活を一人称の文章と写真で伝えた。
1903年、アメリカ、ニューヨーク市生まれ。アーロン・シスキンは、Photo Leagueの《Harlem Document》で社会状況を共同記録した後、壁の剥落、落書き、ロープ、路上の痕跡を近接して撮り、抽象絵画に接近する写真へ進んだ。
1897年、ドイツ、ベルリン生まれ。アーウィン・ブルーメンフェルドは、ダダのコラージュからヌード、肖像、ファッション、カラー写真へ進み、アムステルダム、パリ、ニューヨークで制作した。
1915年、東京に生まれ、上野で育った濱谷浩は、1939年の新潟県高田への取材を起点に、豪雪地帯の祭礼、農漁業、家族、移動を長期撮影し、『雪国』『裏日本』へまとめた。
1918年、山口県徳山の写真館に生まれた林忠彦は、戦後東京の焼け跡、闇市、浮浪児と、太宰治、坂口安吾、三島由紀夫ら文士を雑誌のために撮った。路上のスナップと酒場や仕事場での肖像は、敗戦後に急増した雑誌メディアの同じ速度から生まれている。
1910年、パリに生まれたウィリー・ロニスは、街路、ベルヴィル=メニルモンタン、工場、ストライキ、家族を撮り、戦後フランスの人間主義写真を代表する写真家となった。1936年人民戦線期からの政治的関与と左派誌での報道を背景に、日常の身振りと都市の構図を結んだ。
1923年、フランス・パリ生まれ。École Estienneでグラフィックと印刷に関わる教育を受け、第二次世界大戦後に写真を始めた。初期にはLellaを継続して撮影し、1951年のLa Huneでの展示を契機に雑誌『Réalités』の仕事へ進んだ。以後、同誌の取材でヨーロッパ、アジア、中東、南北アメリカを旅しながら、パリの街路、子ども、家族、旅先の人々を長く撮影した。
1921年、オーストリア・ウィーン生まれ。第二次世界大戦後に本格的に写真へ向かい、1947年に帰還兵と家族の再会を撮ったシリーズで注目された。1949年にロバート・キャパの招きでMagnum Photosへ参加し、その後ニューヨークを拠点に活動した。1950年代からKodachromeによるカラー、低速シャッター、流し撮り、反射、ぼけを探究し、『Life』のカラー・エッセイや映画関連の仕事、1962年のMoMA個展へ展開した。
1912年、アメリカ・カンザス州フォート・スコット生まれ。1930年代末に独学で写真を始め、シカゴで肖像・ファッション写真を手がけた後、1942年にFSA/OWIでロイ・ストライカーのもとに参加した。1948年から『Life』で活動し、人種差別、貧困、犯罪、家族、著名人をピクチャー・エッセイとして取材した。のちに小説、自伝、音楽、映画へ活動を広げ、『The Learning Tree』『Shaft』などを監督した。
1912年、アメリカ・デトロイト生まれ。会社員として働きながら1938年ごろに写真を始め、Detroit Camera Guildとアンセル・アダムスのワークショップを経て、1946年からシカゴのInstitute of Designで教えた。1961年にRISDへ移り写真教育を整備し、妻エレノア、娘バーバラ、都市、草木や水面を、多重露光、接写、8×10判から35mmまでの異なる方法で反復撮影した。
1924年、スイスのSaint-Gingolph生まれ。ジュネーヴのStudio Boissonnasで写真技術を学び、1945年に資格を得てスタジオを開いた。翌年パリへ移り、Willy Maywaldの助手を経て、1950年代からRaphoとVogueで活動した。街路、子ども、労働、夜景、芸術家を撮る自主制作と、ファッション、広告、雑誌報道の依頼を並行し、戦後フランスを拠点に長く写真家として活動した。
1916年、スイス・チューリヒ生まれ。チューリヒのKunstgewerbeschuleでハンス・フィンスラーに写真を学び、静物、広告、ファッション、雑誌制作を経験した。1942年から文化誌『Du』で仕事をし、戦後はヨーロッパの復興と難民生活を取材、1949年にMagnum Photosへ参加した。1951年以降はインド、日本、朝鮮、インドシナ、南米を撮影し、1954年にペルーで事故死した。
クリステル・ストレムホルム(1918–2002)はスウェーデン、ストックホルム生まれ。絵画とグラフィック・アートを学び、戦後のパリで写真へ進み、1949年頃からドイツのFotoformと主観写真の動向に関わった。パリのPlace Blancheで知り合ったトランス女性たちを長期に撮影し、1962年から1974年までストックホルムのFotoskolanを率いた。1967年に写真集『Poste Restante』、1983年に『Vännerna från Place Blanche』を刊行し、1997年にHasselblad Awardを受賞した。
エリオット・アーウィット(1928–2023)はフランス、パリ生まれ。ロシア系ユダヤ人の両親とヨーロッパからアメリカへ移住し、ロサンゼルスで写真を学んだ後、ニューヨークのNew Schoolで映画を学んだ。ロイ・ストライカーの調査写真、米軍での写真任務を経て、1953年にMagnum Photosへ参加した。報道、雑誌、広告、映画制作と並行し、犬、恋人、家族、観光客、政治家、街路の偶然を長く撮影した。1959年のニクソンとフルシチョフの《Kitchen Debate》など歴史的な報道写真でも知られる。
ロイ・デカラヴァ(1919–2009)はアメリカ、ニューヨークのハーレム生まれ。Cooper Unionで絵画と版画を学び、Harlem Community Art Centerなどを経て、版画の資料として使っていた写真を1940年代末から主な表現にした。1952年にGuggenheim Fellowshipを受け、1955年にはラングストン・ヒューズとの写真集『The Sweet Flypaper of Life』を刊行した。ジャズ、家族、街路、労働、政治運動を長く撮影し、1975年以降はHunter Collegeで写真教育にも携わった。
ソール・ライター(1923–2013)はアメリカ、ペンシルベニア州ピッツバーグ生まれ。ラビを目指して神学校で学んだ後、1946年に画家を志してニューヨークへ移り、リチャード・プーセット=ダート、W・ユージン・スミスらとの交流を通じて写真へ進んだ。1940年代末からカラー・スライドを使い、1950年代以降は『Harper’s Bazaar』などのファッション仕事と街路での個人制作を並行した。2006年の写真集『Early Color』以後、初期カラー作品が国際的に再評価された。
ヴィヴィアン・マイヤー(1926–2009)はアメリカ、ニューヨーク生まれ。幼少期から青年期にアメリカとフランスを往復し、1950年代初頭にニューヨークで撮影を始め、1956年以降は主にシカゴで乳母・ケア労働者として働きながら写真を続けた。Rolleiflexによる白黒の正方形写真に加え、35mmカラー、Super 8映画、録音も残した。生前に公的な写真家キャリアを築かず、作品の大半は未発表のまま分散したため、2007年以降の発見、収集、プリント、展覧会、研究を通じて作家像が形成された。
エド・ルシェ(1937–)は、ネブラスカ州オマハ生まれ、オクラホマシティ育ちのアメリカの美術家。1956年にロサンゼルスへ移り、Chouinard Art Instituteで商業美術を学んだ。Plantin Pressで活版印刷を経験し、広告制作や『Artforum』のレイアウトを経て、1960年代から絵画、版画、写真、映画、アーティストブックを制作してきた。現在もロサンゼルスを拠点に活動している。
石元泰博(1921–2012)は、米国サンフランシスコに生まれ、高知で育った写真家である。戦時中の日系人収容所を経て、シカゴのInstitute of Designでハリー・キャラハン、アーロン・シスキンドらに学び、1953年に日本へ戻った。桂離宮、シカゴと東京の街路、伊勢神宮、現代建築を撮影し、写真集と展覧会を通して日米双方で活動した。
イヴ・アーノルド(1912–2012)は、フィラデルフィア生まれ。ハーレムの黒人ファッションショーを出発点にMagnumへ入り、モンロー、公民権運動、出産、中国などを長期取材した。
ギイ・ブルダン(1928–1991)は、パリ生まれ。Man Rayとの交流を経て1955年からフランス版『Vogue』で活動し、シャルル・ジョルダンの広告などで強い色彩と演出写真を展開した。
インゲ・モラス(1923–2002)は、グラーツ生まれ。翻訳者・編集者を経てMagnumに参加し、イラン、スペイン、ドナウ川流域、映画現場、芸術家の肖像を撮影した。
マルク・リブー(1923–2016)は、リヨン近郊生まれ。1953年にMagnumへ参加し、中国、ベトナム、インド、アフリカを長期取材した。《エッフェル塔の塗装工》《花の少女》で知られる。
長野重一(1925–2019)は、大分市生まれ。『岩波写真文庫』、雑誌、映画、テレビを横断しながら、戦後東京の通勤者、群衆、工業地帯、郊外を撮影した。
ブルース・デヴィッドソン(1933–)は、米国イリノイ州生まれ。1958年にMagnum Photosへ参加し、《Brooklyn Gang》《East 100th Street》《Subway》などニューヨークの共同体と公民権運動を長期にわたり撮影した。
デュアン・マイケルズ(1932–2026)、米国ペンシルベニア州マッキーズポート生まれ。大学卒業後にParsons School of Designで学び、グラフィックデザインの仕事を経て、1958年のソ連旅行を機に本格的に写真を始めた。1960年代から商業肖像と私的制作を並行し、《Chance Meeting》《Things Are Queer》《The Human Condition》などの連続写真、二重露光、手書きテキストによる作品を発表した。
ヘルムート・ニュートン(1920–2004)、ドイツ・ベルリン生まれ。1936年からファッション写真家Yvaのスタジオで修業し、ナチ政権下の迫害を逃れて1938年にドイツを離れ、シンガポールを経てオーストラリアへ移住した。戦後はメルボルンでスタジオを構え、1961年にパリへ移った後、French Vogueをはじめとする国際誌を中心に活動した。
奈良原一高(1931–2020)、福岡県生まれ。中央大学法学部を卒業後、早稲田大学大学院で美術史を学び、1956年の個展「人間の土地」で写真界に登場した。1959年に東松照明、細江英公らとVIVOを結成し、1962〜65年にヨーロッパ、1970〜74年にニューヨークへ滞在。《人間の土地》《王国》《ヨーロッパ・静止した時間》《消滅した時間》などを制作した。
ポール・カポニグロ(1932–2024)、米国ボストン生まれ。幼少期からピアノを学び、十代で写真を始めた。1950年代後半にMinor Whiteのもとで学び、Ansel Adamsのゾーン・システムにも接しながら、米国、英国、アイルランドで森、石、古代遺構、静物を長期にわたり撮影した。《Redding Woods》《Stonehenge》《Avebury》などで知られる。
セルヒオ・ラライン(1931–2012)、チリ・サンティアゴ生まれ。1949年に米国へ渡って林学を学んだのち写真へ進み、1950年代からサンティアゴ、バルパライソ、ロンドンなどを撮影した。1959年にMagnumのアソシエイト、1961年に正会員となり、1960年代後半から職業写真の第一線を離れて、瞑想、文章、ドローイングへ時間を割いた。
ダニー・ライアン(1942–)は、ニューヨーク、ブルックリン生まれの写真家・映画作家である。シカゴ大学在学中の1962年にSNCCへ加わり、公民権運動のスタッフ写真家として南部を撮影した。その後、Chicago Outlaws Motorcycle Clubと生活を共にし、『The Bikeriders』を制作する。テキサス州の刑務所を長期取材した『Conversations with the Dead』では、写真、録音、手紙、公文書を交錯させた。
ジョセフ・クーデルカ(1938–)は、チェコスロヴァキア(現チェコ)のボスコヴィツェ生まれの写真家である。工学を学びながら写真を始め、1960年代前半にはプラハの劇場を撮影したのち、ロマ共同体への長期取材と1968年のプラハ侵攻の匿名発表へ進んだ。1970年に西欧へ移り、Magnum Photosへの参加を経て、『Exiles』とパノラマ作品へ展開した。
ラリー・バロウズ(1926–1971)は、ロンドン生まれのイギリス人写真家である。第二次世界大戦期にLIFE誌ロンドン支局の暗室助手となり、のちに同誌の写真家へ転じた。1962年からベトナム戦争を長期取材し、米軍部隊やヘリコプターに同行してカラーのピクチャー・エッセイを制作。1971年、ラオス上空で取材中のヘリコプターが撃墜され、同行記者とともに死亡した。
マリック・シディベ(1936–2016)は、フランス領スーダン(現マリ)のソロバ生まれの写真家である。バマコの工芸学校で素描と装飾を学び、写真家ジェラール・ギヤ=ギニャールの助手を経て1958年に独立した。Studio Malickを拠点に、結婚式や家族行事、夜のパーティー、スタジオ肖像を撮影し、独立前後から1970年代のバマコを商業写真と社交の両面から捉えた。
レイモン・ドパルドン(1942–)は、フランスのヴィルフランシュ=シュル=ソーヌ近郊の農家に生まれた写真家・映画監督である。地元の写真店で修業し、1958年にパリの写真家ルイ・フシュランのもとで学んだ。翌1959年にDalmas通信社で報道写真の仕事を始め、1966年にGammaを共同設立した。その後はMagnum Photosに加わり、戦争・政治報道と映画制作を並行する。後年は精神医療、司法、警察、農村、地方都市へ主題を広げ、写真・映画・文章を横断している。
ベルナール・プロス(1945–)は、ベトナム南部ダラット生まれ、フランスを拠点とする写真家である。1965年のメキシコ旅行以後、旅・列車・街路・窓・家族・砂漠を50mmレンズで撮影した。『Le Voyage Mexicain』をはじめ、撮影から年月を隔てた写真集編集も制作の核となる。映画で培った時間感覚とFressonのマットな色調を重ね、写真・映画・写真集を横断しながら移動中の知覚を組み立てた。
エメット・ゴーウィン(1941–)は、ヴァージニア州ダンヴィル生まれのアメリカ人写真家である。1960〜70年代には妻イーディスとその家族を大判カメラで撮り、親密な肖像を長期の共同作業として育てた。1980年代以降は火山・核施設・採掘地・灌漑農地を上空から撮影し、『Changing the Earth』へ展開する。家族の身体と地表を同じ注意深さで見続け、肖像と航空写真を一つの制作史へ結んだ。
カタリーナ・ジーヴァーディング(1941–)は、プラハ生まれ、デュッセルドルフとベルリンを拠点とするドイツ人美術家である。1960年代末の《Eigenbewegung》から、自己像を反復・合成する《Stauffenberg-Block》《Transformer》へ進んだ。写真はやがて巨大化し、映像や街頭ポスターへ展開する。写真・パフォーマンス・印刷物・公共空間を横断し、顔を政治・ジェンダー・戦後記憶が交差する媒体へ変えた。
メアリー・エレン・マーク(1940–2015)は、フィラデルフィア生まれのアメリカ人写真家である。『Ward 81』では精神科病棟に滞在し、『Falkland Road』ではムンバイの性労働者と長く向き合う。『Streetwise』ではシアトルの若者を写真と映画で追い、その後もTinyを三十年以上撮り続ける。雑誌・写真集・録音・映画を横断し、長期取材が生む親密さと編集する側の権力を同じ作品の中に残す。
ミヒャエル・シュミット(1945–2014)は、ベルリン生まれのドイツ人写真家である。1970年代のベルリン連作では街区を灰色の階調で撮り、『Waffenruhe』では壁と若者を断片的なシークエンスへ組んだ。『Ein-heit』では自作写真と新聞・宣伝画像を混在させ、『Frauen』『Lebensmittel』では人物や食品へ対象を移した。Werkstatt für Photographieの創設を通じ、西ベルリンに写真教育と国際交流の場も築いた。
ラグー・ライ(1942–2026)は、英領インドのジャング生まれ、デリーを拠点に活動したインド人写真家である。『The Statesman』『India Today』で政治・宗教・街路・災害を撮り、1977年にMagnum Photosへ加わった。群衆の中で複数の出来事が重なる画面と、1984年のボパール化学災害を数十年追う仕事を通じ、新聞写真・雑誌・写真集をまたぐ独立後インドの視覚史を築いた。
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
資料の収集と本文の執筆はAIが行い、構成と編集は管理人が行っています。事実関係は管理人がAIを用いて最終チェックしていますが、誤りが残っている可能性があります。正確さが必要な場合は、各ページ §SRC の一次資料をご確認ください。