リチャード・アヴェドン(Richard Avedon, 1923–2004)はニューヨークに生まれ、第二次世界大戦中に米国商船隊で身分証明写真を撮影した後、ニュースクールのデザイン・ラボラトリーでアレクセイ・ブロドヴィッチに学んだ写真家である。1940年代半ばからHarper's Bazaarで活動し、1965年以後はVogue、1992年からはThe New Yorkerで仕事を続け、ファッション写真、肖像、報道的な仕事を横断した。
アヴェドンは、戦後のファッション写真でモデルを街路やサーカスへ連れ出し、服を静止した商品としてではなく、歩く、跳ぶ、振り返る身体と都市空間の出来事として見せた。その後の肖像では逆に、白いシームレス背景、固定した8×10インチの大型カメラ、均質な光、近い撮影距離へ条件を減らし、顔、衣服、皮膚、姿勢、撮られていることへの反応そのものを画面の情報にした。ファッションで身体を動かした方法と、肖像で身体をほとんど動けなくした方法は正反対に見えるが、どちらも人物がカメラの前でどう振る舞うかを写真の中心に置いている。《In the American West》では、この白背景の形式を西部の現場へ持ち出し、風景を消しながら、労働や生活の痕跡を身体の表面に集約した。
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目次 · Table of Contents
商船隊と雑誌
リチャード・アヴェドンはニューヨークに生まれ、少年期から写真に触れ、第二次世界大戦中には米国商船隊で身分証明用の写真を撮影した。アヴェドン財団は、彼がその仕事を通じて大量の顔を撮影し、自分が写真家になりつつあることに気づいたという本人の回想を記録している *1 。この経験だけで後年の肖像を説明することはできない。ただ、顔を反復して撮り、表情や姿勢のわずかな差を写真として扱う経験は、アヴェドンの仕事の初期にすでにあった。退役後、アヴェドンはニュースクールのデザイン・ラボラトリーでアレクセイ・ブロドヴィッチに学び、Harper's Bazaarの主要な写真家へ進んだ *1 。彼の出発点は、純粋なスタジオ写真ではなく、ページ、編集、タイポグラフィ、モデルの動き、読者の視線が組み合わさる雑誌の現場にあった。ICPも、アヴェドンがJunior Bazaar、Harper's Bazaar、Vogue、The New Yorkerで活動し、美術館でも高い評価を受けた写真家だったことを整理している *2 。つまりアヴェドンの経歴は、商業写真から美術写真へ「転向」した話としてではなく、商業誌面で培った人物の見せ方が、写真集や展覧会へ別のスケールで移っていく過程として捉えられる。SFMOMAの回顧展も、初期のストリート写真、1950年代のパリ・ファッション、セレブリティの肖像を同じキャリアの中で扱い、フォトジャーナリズム、ファッション写真、美術写真の境界を横断した仕事として説明している *3 。
戦後ファッション
アヴェドンがファッション写真へ入った時期は、戦時の倹約から戦後の華やかさへ服飾文化が切り替わる時期と重なる。V&Aは1947年のディオールの「ニュールック」を、戦時中の節約からグラマーと女性らしさへ向かう変化の象徴として位置づけ、Gettyも戦後のファッション写真が、服そのものだけでなく新しい生活への憧れを読者へ提示したと説明している *7*32 。個人的にも、アヴェドンは婦人服店を営む父のもとで育ち、退役後にブロドヴィッチへ学び、21歳でJunior Bazaarへ加わった *4 。雑誌の仕事では、服の形だけでなく、服を着た人物が街を歩き、笑い、遊ぶ生活像まで同じ画面に組み込めた。だからファッション写真は、アヴェドンにとって商品撮影に限らず、身体の振る舞いと都市生活を通して、戦後の新しい女性像を誌面に作る仕事だった。
雑誌ポートレート
アヴェドンの写真は、「一枚の名作」としてだけではなく、雑誌の見開き、表紙、特集、広告、写真集、展覧会の壁面という複数の場所で機能していた。アヴェドン財団の雑誌アーカイブは、彼の写真がHarper's Bazaar、Life、Vogue、Rolling Stone、The New Yorker、Egoïsteなどに掲載され続けたことを示し、1992年にはThe New Yorker初のスタッフ写真家になったと説明している *5 。雑誌のなかで写真は、文章を飾る図版でも、服を説明する商品写真でもない。読者がページをめくる速度のなかで、人物、服、時代の空気、社会的な役割を一瞬で結び直す装置になる。アヴェドンのポートレートが強度を持つのは、人物の内面をそのまま取り出したからではない。むしろ、ポーズ、髪型、服、アクセサリー、光、余白、印刷面が、人物らしさを作る手がかりとして画面に残されるからである。アヴェドン自身も「写真は表面の下へ行かない」と語り、表面に手がかりが満ちているという考えを示している *6 。この場合の表面は、浅い外見という意味ではなく、写真が実際に扱える顔、服、姿勢、余白、印刷面、掲載媒体のすべてを含む場所である。アヴェドンの肖像は「本当の人格を暴く」写真ではなく、表面の配置だけで読者や鑑賞者に人物を判断させ、その判断の危うさまで見せる形式だった。
政治・戦争・家族
アヴェドンの関心は、ファッションから社会問題へ一度に転向したのではない。アヴェドン財団は、広告や商業スタジオの成功が、文化的・政治的・個人的な関心を長期プロジェクトとして追う自由を与えたと説明し、公民権運動、ベトナム戦争、父ジェイコブ・イスラエル・アヴェドンの連作をその流れに挙げている *1 。1963年にはStudent Nonviolent Coordinating Committeeのメンバーを撮影し、その写真は翌年ジェームズ・ボールドウィンと刊行した《Nothing Personal》の終盤に置かれ、アメリカの人種関係、暴力、分断された政治を扱う構成の一部になった *38*39 。1971年にはサイゴンでナパーム被害者を撮影し、戦争が民間人の身体へ残した損傷を正面から記録している *40 。ファッション、政治、戦争は別々の仕事だが、いずれも人物の服装、姿勢、顔つきに、その人が属する社会や時代の条件を読ませる点で連続していた。
父を1969年から死去する1973年まで繰り返し撮った連作は、その関心を最も私的な場所へ向けた。Metは、このシリーズが幼少期からの父への怒りと距離、成人後に関係を結び直そうとした欲求から生まれたと説明している *24 。1974年のMoMAで8点だけを展示したこの連作は、老いと死を一般論として扱うのではなく、写真家自身が失おうとしている相手を撮る行為だった *19 。政治家や活動家、戦争被害者、父親という主題の違いよりも、人物の顔と身体を通して、その人が置かれた社会的・個人的な条件を写真に残そうとした点に、後年の肖像へ続く共通性がある。
動くファッション写真
ファッション写真におけるアヴェドンの更新は、服を静かに見せることよりも、服が人の動きや都市空間と結びつく瞬間を作った点にある。財団の記録によれば、Harper's Bazaarで当初スタジオ使用を許されなかったアヴェドンは、街路、ナイトクラブ、サーカス、海辺などでモデルと服を撮影した *1 。Harper's Bazaarの回顧記事は、ブロドヴィッチが商船隊時代の実験的な肖像を評価し、その実験性をファッション写真へ持ち込むよう促した経緯も伝えている *33 。ICPも、アヴェドンが静的なファッション写真の定型を崩し、戦後のファッション写真へ強い運動感を持ち込んだと位置づけている *31 。MFA Bostonは、笑う、跳ぶ、踊る、ローラースケートをするといったモデルの動きが、服だけでなく戦後の新しい生活感を見せたと説明している *4 。Gettyも、1950年代半ばのパリでスージー・パーカーをローラースケートさせ、カルメン・デロリフィチェに水たまりを跳び越えさせた撮影を、運動を画面へ組み込んだ例として挙げている *36 。
V&Aは、1957年の《Carmen (Homage to Munkácsi), coat by Cardin, Place Francois-Premier, Paris》を、屋外でモデルを動かしたマルティン・ムンカーチへの参照として紹介している *7 。東京都写真美術館の《Renee The New Look of Dior Place de la Concorde, Paris》は1947年のパリ・ファッション・ポートフォリオに属し、SFMOMAは1955年の《Dovima with Elephants, Evening Dress by Dior, Cirque d'Hiver, Paris》を代表例として掲載している *8*3 。ここでは服の情報だけでなく、戦後のパリを歩く女性像や、雑誌が読者に示した新しい生活の身振りまでが写真の内容になっている。
演出とストロボ
ファッション期の「動き」は、偶然を待つスナップだけで成立していたわけではない。1958年のThe New Yorkerの取材は、アヴェドンのスタジオでセットや小道具が組まれ、複雑な照明装置が配置される様子を記録している *35 。1967年にツイッギーを撮影した同誌の現場記録では、床まで湾曲して継ぎ目を消す白い紙背景が使われ、ストロボはモデリング用の連続光で照明状態を確認したうえで撮影時に発光していた *34 。同じ記録では、アヴェドンがモデルの立ち位置や姿勢を細かく指示しており、軽快に見える画面も、身体、服、光を制御して作る演出だったことが分かる *34 。
アーヴィング・ペンとの違い
同時代のペンと並べると、アヴェドンの特質はさらに明確になる。Gettyは、戦後のファッション写真でペンがスタジオ撮影を軸にしたのに対し、アヴェドンはロケーションでモデルを動かす方法に秀でていたと整理している *32 。Art Institute of ChicagoのPenn Archivesは、1960年代のファッション写真が優雅さから自発性へ移るなかで、アヴェドンが都市の日常を感じさせる動的なポーズを担い、ペンはディテール、形、構成への沈潜を続けたと整理している *9 。Metropolitan Museum of Artも、ペンのスタジオ写真を、構図、ニュアンス、細部への緻密な注意によって成立する削ぎ落とされた美学として説明している *10 。さらにPenn Archivesの肖像解説では、ペンの「コーナー・ポートレート」が被写体の動きを制限し、物語的な読みを閉じ、ジェスチャーと表情の微細な探索へ向かったことが示される *11 。これに対してアヴェドンは、初期ファッションでは身体を都市やサーカスへ放ち、後の白背景では人物を固定しながらも、撮影の場で生じる反応、疲労、抵抗、演技を前面に出した。二人はどちらも雑誌写真を、美術館の展示やコレクションでも検討される形式へ運んだが、ペンが服や顔を構成と印画の密度へ沈めたのに対し、アヴェドンは身体の反応、対面の圧力、誌面や壁面での即時性へ向かった。
白背景ポートレート
アヴェドンの成熟したポートレートで繰り返される白背景は、しばしば「人物だけを見せる」装置として語られる。しかし、それを中立な背景や真実の保証として扱うと、彼の方法を単純化してしまう。白い背景は、風景、室内、職場、階級を説明する小道具を取り払い、被写体の身体、衣服、皮膚、視線、疲労、緊張、あるいは撮られていることへの抵抗を画面の前面へ押し出す。Metは1955年の《Marian Anderson》について、白背景と切り詰めた構図が人物の存在感を強めていると説明している *25 。その結果、鑑賞者は「この人は誰か」と読むことを求められるが、同時に、その読みがどれほど表面に依存しているかも突きつけられる。Amon Carter Museumは《In the American West》について、被写体が継ぎ目のない白背景の前に置かれ、場所への参照を取り除かれたと説明している *12 。SFMOMAのプレス資料も、このシリーズの人物が影や場所への参照のない白い背景の前に置かれ、西部に結びつけられがちな「荒々しい壮大さ」のステレオタイプではなく、普通の人間の脆さを示したと述べている *13 。つまり白背景は、人物を透明にするのではなく、背景を消したことで残るものを過剰に見せる。そこに残るのは、人格の奥底そのものではなく、顔、身体、服、職業名、撮影時の状況、そして見る側の解釈がぶつかる面である。
8×10カメラと固定撮影
成熟期の肖像では、カメラが動かないこと自体が方法になった。1969年、アヴェドンは三脚に据えた8×10インチのDeardorffを本格的に使い始め、それまで腰の位置にRolleiflexを構えて被写体と一緒に動く撮影から離れた *24 。大型カメラの横に立って直接相手を見る配置は、《In the American West》でも、被写体の近くに8×10を置く方法として続いている *28*30 。
8×10は細部を増やすだけでなく、撮影中の身体の自由も狭めた。遅いシャッター速度と浅い被写界深度では大きな動きがピントを外しやすく、さらにネガ全体を黒い縁まで使うため、被写体が画面内で位置を変える余地も小さい *24 。初期ファッションの歩行やジャンプとは逆に、成熟期の肖像では、ほぼ同じ位置に立つ人物の目線、口元、肩、手、衣服の皺が写真ごとの差として現れる。
ライティングと撮影距離
アヴェドンの白背景を、強いストロボで背景を白く飛ばす単一の撮影法として扱うことはできない。Metは8×10による白背景肖像について、影をほとんど作らない拡散した日光、あるいはそれに近い平坦なスタジオ照明を使ったと説明している *24 。スタジオではストロボの使用例が確認でき、Phillipsも後年の代表的なスタジオ肖像で8×10、白背景、ストロボの組み合わせを典型的な方法として整理している *34*37 。一方、《In the American West》では白い背景紙を建物の陰に設置し、直射日光を避けた自然光で人物を撮影した *26*28 。異なる光源に共通するのは、ドラマチックな光そのものより、顔、皮膚、布、汚れを画面全体で読ませることだった。
《In the American West》についてアヴェドン自身は、カメラの後ろではなくレンズの数インチ左側に立ち、被写体から約4フィートの位置で撮影したと説明している *30 。この距離では、写真家と被写体は互いの表情や身振りを直接読み取れる。近距離、大型カメラ、白背景を組み合わせることで、遠くから人物を観察するのではなく、対面そのものを撮影条件に組み込んだ。
対面と演技
アヴェドンの形式がファッション、セレブリティ、政治家、家族、労働者へ移動できたのは、人物を背景や物語で説明するよりも、カメラ前に立たされた身体の反応を中心に組み立てていたからである。場所を減らし、光をそろえ、正面性を強めると、顔、服、姿勢、手、皮膚、緊張が強く残る。Harper's BazaarやVogueではモデルが演じる自由さや洗練として現れ、Rolling Stoneの《The Family》では政治権力を担う人々の一覧として、《In the American West》では職業名と撮影地を添えられた労働者や漂泊者の身体として現れた。Fondation Henri Cartier-Bressonは、アヴェドンが人物を理想化することはまれで、顔を風景のように明晰に提示したと説明している *14 。Friezeも、被写体だけでなく写真家自身の振る舞いを含む「パフォーマンス」が、アヴェドンの肖像に関わると論じている *15 。白背景はどの人物にも同じ意味を与えるのではなく、人物がどんな役割を背負ってカメラの前に立ち、写真家がどの反応を選び、鑑賞者がその表面から何を読み取るのかという関係を、画面の条件として見える形にした。
アウグスト・ザンダーとの違い
アウグスト・ザンダーとの比較では、アヴェドンの方法の違いが明確になる。ザンダーの《People of the Twentieth Century》は、ドイツ社会を農民、職人、商人、芸術家などの社会的タイプと職業に分類し、個々の肖像を大きな社会的アーカイブへ組み込む計画だった *16 。一方、Walther Collectionは、アヴェドンの《The Family》をザンダー的な構造を響かせる連作としながら、共同体のアイデンティティの中で政治権力がどのように示され、操作されるかを浮かび上がらせるものとして位置づけている *17 。アヴェドンにも分類や連作の感覚はあるが、社会を職業類型として体系化するより、写真家がどれほど近づき、誰を選び、鑑賞者がどの表情や服装から人物を判断するのかまでを肖像の条件に含める。
In the American Westの撮影条件
《In the American West》は、アヴェドンの白背景の方法が、ファッションやセレブリティの領域を離れて、アメリカ西部の神話とぶつかった仕事である。Amon Carter Museumによれば、このプロジェクトは1979年に同館館長ミッチェル・A・ワイルダーがアヴェドンへ委嘱したもので、アヴェドンは1979年から1984年にかけて17州189の町を移動し、752回の撮影で17,000枚のフィルムを露光した *12 。助手のローラ・ウィルソンは、催事やロデオなど人が集まる場所を調べ、石油・鉱業・農業の経済状況も調査しながら候補者を探しており、シリーズの人物選択は継続的なリサーチを伴っていた *27 。同館のコレクションページには《A. L. Bean, cotton farmer, Sweetwater, Texas, 3/10/79》や《Alton Terry, oil field worker, Frenstat, Texas, 9/28/80》が掲載され、いずれもAmon Carter Museumの委嘱プロジェクトとして1985年に展示されたことが記録されている *18 。Fondation Henri Cartier-Bressonは、2025年の展覧会で同シリーズを、アメリカ西部の伝統的な描写や神話化と対照的な肖像として紹介している *14 。
撮影そのものは現場のスナップへ変更されなかった。Amon Carter Museumの撮影記録では、助手が建物の陰になる側へ白い背景紙を設置し、候補者をその前へ立たせている *26 。Gagosianも、同シリーズで8×10 Deardorffを被写体の近くに置き、自然光とシームレスな白背景を使ったとしている *28 。Sotheby’sのカタログノートも、白い紙の前に被写体を立たせ、陰の中で利用可能な光を使う手順を記している *29 。西部の空、道路、鉱山、牧場そのものを消す一方で、泥、油、汗、皺、傷、作業着は大判ネガに細部まで残る。環境を背景として説明するのではなく、その環境が身体と衣服へ残した痕跡を見せることが、このシリーズの技法と主題を結びつけている。
プリントの大きさもその効果に関わる。Amon Carter Museumは、《In the American West》の展示用プリントの一部が高さ約4フィート、横幅約11フィートに達したと説明している *12 。8×10ネガが保持した皮膚、髪、布、汚れの細部を大きく引き伸ばすことで、白背景で孤立させた人物は美術館の壁面で観客の身体に近いスケールを持つ。撮影時の約4フィートという近さが、展示では巨大な人物像との対面へ置き換えられている *30 。
In the American Westへの批判
《In the American West》は発表時から、その強い形式と同時に、誰を「西部」として選んだのかをめぐって批判を受けた。写真史研究者ミック・ギドリーは、このシリーズを伝記的、歴史的、地理的、美学的な複数の文脈から検討し、白背景によって人物が西部の具体的な場所から切り離されること自体が、作品の指示対象を曖昧にすると論じている *41 。1985年のChristian Science Monitorも、被写体が西部社会の横断的な代表になっておらず、困難を抱える労働者や漂泊者へ選択が偏っているという批判を紹介した *42 。翌年のThe Spectatorはさらに、実在する人物があらかじめ構想された「西部」の枠組みに組み込まれているとして、写真家の選択権そのものを問題にした *43 。
アヴェドン自身も、このシリーズを西部の客観的な断面とは主張していない。1985年のインタビューでは、自分はフォトジャーナリストではなく、作品名も《The American West》ではなく《In the American West》であると区別し、写真は事実そのものではなく撮影者の意見になるという立場を説明している *42 。同時に、他者を使って作品を作ることには重大な倫理的問題があるとも認めていた *42 。この批判と本人の説明を合わせると、《In the American West》は西部の客観的記録としてではなく、アヴェドンが誰を選び、どの文脈を消し、どの大きさで提示したかまで含めて読む必要がある。
選択と倫理
アヴェドンの肖像では、人物が強く立ち上がる一方で、その見え方が撮影者の選択によって組み立てられていることも表に出る。誰が選ばれ、場所がどこまで消され、どの表情が採られ、どの大きさで印刷されるかによって、被写体はただ「写る」のではなく、特定の姿で差し出される。National Portrait Gallery Australiaは、《In the American West》でアヴェドンが「見たいもの」を探し、被写体の選択が完全に主観的だったという制作側の証言を紹介している *6 。同記事は、プリンターのルディ・ホフマンが、アヴェドンから「もっと優しく」「もっと緊張して見えるように」といった、技術値ではなく感情状態に関わる指示を受けたことも記している *6 。白背景は演出の痕跡を消す装置ではなく、被写体の姿が、撮影、選択、プリント、展示によって作られていることを見えやすくする装置でもあった。
父ジェイコブ・イスラエル・アヴェドンを撮った連作は、その問題が最も私的な形で表れた仕事だった。アヴェドン財団の展覧会記録は、1974年のMoMAで、死にゆく父を写した8点による小規模だが徹底して個人的な展示が行われ、賞賛と批判の双方を呼んだと記している *19 。The Image Centreも、1951年から2004年までの肖像を通して、アヴェドンが著名人を理想化する慣習から距離を取り、顔に刻まれた加齢の痕跡を長期にわたって撮った点を展覧会の主題としている *20 。アヴェドンの肖像は、「冷酷」か「共感的」かの一語では片づかない。人物を強く見せるほど、撮影者の指示、カメラの位置、プリントの大きさ、展示空間、見る側の判断も作品の意味に関わってくる。写真が誰かを可視化することと、その人を写真家の選択した像として固定することは、彼の作品では切り離せない。
雑誌編集と社会
アヴェドンの評価は、雑誌文化と美術館制度のあいだで形成された。20世紀半ばのアメリカでは雑誌が写真を大規模に流通させる主要媒体であり、アヴェドンはHarper's BazaarやVogueだけでなく、政治家、活動家、作家を含む肖像を誌面へ送り続けた *21*38 。ジェームズ・ボールドウィンとの《Nothing Personal》(1964)では、個々の写真だけでなく、異なる人物像を見開きや連続するページで衝突させる編集そのものがアメリカ社会への批評になった *21*39 。一方で、この本は発表当時から、著名人を用いた社会批評の姿勢に対して厳しい批判も受け、Friezeはその反響がアヴェドンのその後の肖像制作にも影響したと振り返っている *15 。雑誌ページは作品を広く見せる媒体であると同時に、写真の並べ方や掲載順によって社会的な立場を示す場所でもあった。
美術館とファッション写真
美術館での受容も早かった。アヴェドン財団の展覧会記録によれば、彼は1955年のMoMA「The Family of Man」に含まれ、1962年にはSmithsonian Institutionで初の回顧展を開き、1978年には存命の写真家として初めてメトロポリタン美術館で展覧会を行った *19 。同記録は、1978年の展覧会がアヴェドンのファッション写真の回顧展であり、写真というメディアとファッション写真というジャンルの正当性に関わる出来事だったと説明している *19 。その後もMoMAはアヴェドンを多数の展覧会とコレクションに位置づけている *22 。National Portrait Gallery Australiaは2013年に同国初のアヴェドン展を、人物肖像の実践を中心に構成した *6 。日本では東京都写真美術館の「ヴィジョンズ オブ アメリカ」に出品作家としてアヴェドンが含まれ、20世紀のアメリカ写真表現を考える文脈の中に置かれている *23 。こうした受容で重要なのは、商業写真を単に「美術へ格上げした」ことではない。雑誌で培った連作、見開き、人物を即座に読ませる画面構成を美術館の壁面へ移し、ファッション写真と美術写真を別領域として扱う枠組みを揺さぶった点にある *15*19 。
- アーヴィング・ペン ― 本文で戦後のファッション写真の同時代人として並べられ、動きと構成の違いが対比される。
- アンリ・カルティエ=ブレッソン ― 本文で、顔を風景のように明晰に提示したと対比的に論じられる。
- アウグスト・ザンダー ― 本文でアヴェドンの肖像方法との違いを示すために参照される類型的肖像の先行者。
- マルティン・ムンカーチ ― 屋外でモデルを動かすファッション写真の先行者。本文でアヴェドンのオマージュ作品の参照先として挙げられる。
1951年から2004年までの肖像を通じ、顔、老い、名声、死の見せ方を追える。
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
資料の収集と本文の執筆はAIが行い、構成と編集は管理人が行っています。事実関係は管理人がAIを用いて最終チェックしていますが、誤りが残っている可能性があります。正確さが必要な場合は、各ページ §SRC の一次資料をご確認ください。