ソール・ライター(1923–2013)はアメリカ、ペンシルベニア州ピッツバーグ生まれ。ラビを目指して神学校で学んだ後、1946年に画家を志してニューヨークへ移り、リチャード・プーセット=ダート、W・ユージン・スミスらとの交流を通じて写真へ進んだ。1940年代末からカラー・スライドを使い、1950年代以降は『Harper’s Bazaar』などのファッション仕事と街路での個人制作を並行した。2006年の写真集『Early Color』以後、初期カラー作品が国際的に再評価された。
1940〜50年代のニューヨークでは、カルティエ=ブレッソン、リゼット・モデル、ロバート・フランクらが街頭の人物や出来事を白黒で撮り、戦後の都市写真を形づくっていた。ライターも同じ街を歩いたが、窓、反射、雪、車体、看板、傘で視界が遮られる場面を選び、人を小さく、あるいは身体の一部だけ見せ、色を構図の中心にした。人物の顔や出来事をはっきり見せず、窓、反射、雪、車体で視界が遮られた断片から街を表す方法を、1950年代のカラー写真で具体的に示した。 これが重要なのは、街を「何が起きた場所」として説明するだけでなく、通行人が実際に経験する、見落とし、遮り、反射、色の断片まで写真の主題にできると示したからである。さらに、カラー・プリントが高価で、美術写真としてのカラーの発表機会も限られていた1950年代に、色を忠実な色再現のためだけに使わず、人物を隠し、距離を圧縮し、画面を分割する要素として使った。後のニュー・カラーの前史としてだけでなく、ニューヨーク・スクール、雑誌写真、抽象絵画、スライド上映が交差する位置から見ると、ライターの独自性がより明確になる。
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家族と絵画
ソール・ライターは1923年にピッツバーグで、著名なタルムード学者でラビだった父の家庭に生まれた。ラビになる進路を期待されて神学校で学んだが、十代から絵画への関心を強め、1946年に学業を離れてニューヨークへ移った。*1 ニューヨークでは抽象表現主義の画家リチャード・プーセット=ダートと知り合い、写真を試すよう促された。W・ユージン・スミスとも交流し、1947年のMoMAのアンリ・カルティエ=ブレッソン展を見て、街路での撮影を本格化させた。*2
写真を始めた後も絵画はやめなかった。Apertureの訪問記では晩年にも絵画への強い愛着を語り、住居兼スタジオには自身と長年の伴侶ソームズ・バントリーの絵が残されていた。*25 大学美術館の展覧会資料は、ボナールやヴュイヤールを思わせる平面的な色彩感覚と、プーセット=ダートから受けた刺激を初期写真の背景として位置づけている。*24 ライターにとって写真は、画家を断念した後の代替手段ではなく、絵画と並行して都市の見え方を組み立てる別の方法だった。
戦後ニューヨーク
ライターが移住した1940年代後半のニューヨークでは、雑誌、広告、美術館、ギャラリーのあいだで写真の発表環境が急速に拡大していた。ジェーン・リヴィングストンは『The New York School: Photographs, 1936–1963』で、ダイアン・アーバス、リチャード・アヴェドン、ロバート・フランク、リゼット・モデル、ヘレン・レヴィット、ライターらを、同じ団体に所属した運動ではなく、都市の偶然や雑誌文化を共有した緩やかな写真家群として整理した。*36 したがって「ニューヨーク・スクール」は本人たちの宣言した様式名ではなく、後世の写真史が異なる実践を比較するために作った枠組みとして扱う必要がある。
マックス・コズロフが企画した「New York: Capital of Photography」は、ニューヨークの街路写真を、ルイス・ハイン、Photo League、ヘレン・レヴィット、ロイ・デカラヴァ、リゼット・モデル、ウィリアム・クライン、ゲリー・ウィノグランドらへ連なる長い都市写真史として捉えている。*38 この系譜では、街路写真は一つの撮り方ではない。社会状況を直接記録する方法、群衆の動きを切り取る方法、人物の孤立や都市の圧力を見せる方法が同じ街で併存した。ライターの位置は、決定的な出来事を明瞭に見せるより、窓、反射、雪、車体、看板によって人が部分的にしか見えない都市経験を画面に残した点にある。
1953年にはMoMAの「Always the Young Strangers」に参加しており、2000年代に突然発見された無名の写真家だったわけではない。*32 Fondation Henri Cartier-Bressonも、同展への参加と戦後ニューヨーク写真との接点を確認している。*34 ただし、1950年代に制度の中で知られていた白黒写真や商業仕事と、後年に代表作となった膨大な個人カラー作品とのあいだには大きな公開の時間差があった。
カラーの発表環境
1950年代にカラー写真が美術館から完全に排除されていたわけではない。MoMAは1950年に「Color Photography」を開催している。*33 一方で、カラー・プリントは制作費が高く、35mmカラーは雑誌、広告、家庭用スライドと強く結びついていた。Milwaukee Art Museumは、ライターの初期カラーの多くがスライドとして残り、1990年代になって本格的な展示用プリントが制作されたことを指摘している。*27
ライターは1940年代末からカラー・スライドを使い、1955年にTanager Galleryで上映し、1957年にはエドワード・スタイケンがMoMAの講演で20点を紹介した。*2 そのため「カラーを誰にも見せなかった」という説明も正確ではない。問題は、カラーを制作していたかどうかより、その作品がスライド上映、雑誌、後年のIlfochromeプリント、写真集のどの形で、どれほど継続して見られたかにある。
『Early Black and White』に収録された1940〜50年代の白黒写真と、それに付されたマックス・コズロフ、ジェーン・リヴィングストンの論考は、ライターの切断されたフレーム、光と影、人物を遮る前景がカラー以前から現れていたことを示す。*37 したがって後年のカラー作品は、色を使ったことで突然生まれた別の作風ではない。白黒期から続く都市の断片化に、赤、黄、緑といった色面が新しい構成要素として加わったと考える方が、制作の連続性を説明しやすい。
カラーと都市
ライターは1940年代末にはKodachromeなどのカラースライドを使い始めていた*3。当時のカラーは雑誌、広告、家庭用スライドと結びつき、美術写真の主流では白黒が依然として強かったが、彼は赤い傘、黄や緑の車体、ガラス越しの反射を、被写体の説明以上に画面を組み立てる要素として扱った。1954年にはクレメント・グリーンバーグ選出のグループ展でカラーを発表し、1955年にはTanager Galleryでカラー・スライドを上映、1957年にはスタイケンがMoMAの講演「Experimental Photography in Color」で20点を紹介している*2。したがって《Early Color》による2000年代の再発見だけで「生前は完全に知られていなかった」とする理解は正確ではない。発表機会は限られたが、1950年代から写真界の内部ではカラー作品が提示されていた。
カラー写真そのものが1950年代の美術館から完全に排除されていたわけではない。MoMAは1950年に「Color Photography」を開催し、89人の写真家によるカラー作品を展示している。*33 一方、Milwaukee Art Museumは、当時のカラー・プリントが高価で制作しにくく、ライターのカラー作品の多くが長くスライドの状態にとどまったことを指摘している。*27 この二つを分けて考えると、ライターの重要性は「誰もカラーを認めなかった時代に一人だけ使った」という物語には収まらない。カラーの展示、保存、販売の経路がまだ不安定だった時期に、色を街の記録へ後から付ける情報として扱わず、赤い傘、車体、標識、ガラスの反射そのものから画面を作り続けた点にある。
遮蔽と色面
ライターの写真に特徴的な大きな前景、曇ったガラス、看板で切られた人物、画面の大半を占める暗部や空白は、街路で起きた事件を明瞭に伝える構図とは異なる。本人は「物を通して撮る」ことや、霧やガラスの向こうで像が失われる状態を好んだと述べている*1。ボナール、ヴュイヤール、ドガなどへの関心は財団と展覧会資料でも確認され、Bunkamuraは絵画と写真を横断する色彩感覚を紹介している*11。ここで重要なのは、絵画の見た目をそのまま写真で再現したという単純な関係ではない。街路にはすでに窓枠、車体、広告、雪、反射があり、ライターはそれらを利用して視界が一度にすべてを見通せない状態を組み立てた。窓や反射が人物を隠すため、見る側は一枚の中で街全体を把握できず、見えている断片から場所や出来事を推測することになる。
望遠と圧縮
《Taxi》《Through Boards》《Snow》などでは、望遠的な圧縮と前景の遮蔽物によって、遠くの人物と近くの色面が同じ浅い画面に重なる*3。ライターは大事件を探すより、自宅周辺の数ブロックで反復して撮ることを好み、同じ通りの天候と光の変化を蓄積した*21。この方法は、ストリート写真を決定的瞬間の捕捉だけに結びつけない。人物の顔を全面に出さず、背中や傘、足元だけを残すことで、誰なのか、何が起きたのかを決めつけず、通行人を街の色や天候と同じ一要素として残した。
絵画との往復
ライターは色面や反射を写真へ持ち込んだ理由を、特定の写真家からの影響だけで説明しなかった。QAGOMAとZillman Art Museumの資料は、ライターの写真に画家としての色彩感覚が持続し、街路の断片を平面的な色面として扱ったことを指摘している。*23 写真では絵画の効果を後から加えるのでなく、ガラス、雪、車体、衣服、看板など街にすでにある色と遮蔽物をフレームの中で組み合わせた。絵画と写真を往復していたことが、色を被写体の属性から画面全体の構造へ変える感覚を支えた。
スライドと後年プリント
現在ライターの代表作として流通するカラー写真の多くは、撮影時にはスライドとして壁に投影され、本人が大量の完成プリントを作っていたわけではない。1993年にIlfordの支援を受け、ニューヨークのLaumont Editionsで35mmスライドからIlfochromeプリントを本格的に制作し始めた*2。Bunkamuraの調査では、生前にプリントとして確認したカラー作品は200点余りで、スライドを光で見る経験が長く中心だった*11。2006年にSteidlから刊行された『Early Color』は、その膨大なスライド群から編集された最初のモノグラフであり、同年のHoward Greenberg Gallery展やMilwaukee Art Museumの個展と結びついて国際的な再評価を加速させた*9。
ファッションと私的制作
1958年以降の『Harper’s Bazaar』ではモデル、衣服、色、都市空間を精密に構成し、商業媒体の要請に応えた*10。一方、個人制作では同じ都市をより曖昧な距離から撮り、ファッションのように被写体を整えず、視界に割り込む障害物を残した。Howard Greenberg Galleryの回顧資料は、ライターが長く商業写真と私的制作を並行させたことを示している*6。ヌードや室内の親しい人物を撮った《In My Room》では、街路とは異なる近さが現れるが、鏡、家具、身体の一部による遮蔽は共通する*8。
Art Gallery of New South Walesは、1959年の『Harper’s Bazaar』の仕事について、ライターの繊細で抑制された画面が、同誌の視覚を強く方向づけていたリチャード・アヴェドンの動的で明快なスタイルと対照的だったと説明している。*35 同館の作品ではスクリーン、鏡、窓がモデルを囲み、衣服を見せる依頼写真の中にも、個人制作と共通する「途中に何かを挟んで見る」構図が現れる。商業写真ではモデル、衣服、照明をある程度制御でき、街路では雪、窓、通行人、車の偶然を受け入れるという違いがある。それでも人物を画面の中央へ明快に置くより、人物と周囲の色面を同じ構成要素として扱う点は両方に通じており、ファッションと個人制作を完全に切り離して読むとライターの方法の一部を見落とす。
《Through Boards》《Taxi》《Snow》
財団のカラー作品ページでは《Taxi》(1957)、《Through Boards》(1957)、《Snow》などを画像で確認できる*3。National Gallery of Artも《Through Boards》や雪景の作品を所蔵し、ライターの色彩と遮蔽の方法を美術館コレクションの文脈で示している*15。これらの作品では、人物や建物そのもの以上に、ガラス、交通、雪、看板が何を見せ、何を隠すかが写真の主題になっている。
『Early Color』
『Early Color』は2006年にSteidlから刊行され、ライターのカラー作品が初めてまとまった写真集として広く流通した。*9 LensCultureは、この刊行と欧州での回顧展が、長く箱に保管されていたカラー・スライドを写真史の議論へ戻した経緯を整理している。*26 ここでは撮影年の早さと公表年の遅さを分けて読む必要がある。1950年代に撮影された像でも、今日知られているプリントの多くは数十年後の制作であり、現在の「代表作」はスライド、後年プリント、写真集編集を経て成立している。
1950年代の発表史
2006年の『Early Color』以後、ライターはカラー写真の先駆者として急速に知られるようになった*14。Gallery Fifty OneやM+Bでの展示も再評価の流れを支えた*16。ただし、同時代にはエルンスト・ハースらもカラーを積極的に用い、カラー写真の美術史は一人の発明者へ還元できない。ライターの固有性は、カラーを採用した年代の早さだけでなく、色を都市の心理的・空間的な遮蔽と結びつけ、写真の情報量を意図的に減らした点にある。
リヴィングストンが1992年にライターを「ニューヨーク・スクール」へ位置づけたことは、再評価の起点の一つだった。*36 ただし、その名称は共通の宣言や組織を持つ運動を指すのではなく、戦後ニューヨークで雑誌仕事と私的な街路撮影を往復した複数の写真家を後から比較するための枠組みである。コズロフのニューヨーク写真史が示すように、同じ街路でも社会批評、群衆、孤立、ユーモアなど異なる問題が撮影されていた。*38 ライターの重要性は、この大きな都市写真史の中で、見えない部分や遮られた部分を失敗として除かず、色と前景によって街を断片的に経験する感覚そのものを写真の主題にした点にある。
2000年代の再評価
1990年代にHoward Greenberg Galleryでプリント制作と展示が進み、2000年代に写真集と美術館展が重なったことで、長く知られなかった天才という物語が形成された*12。Deichtorhallenの回顧展は写真、ファッション、絵画をまとめて扱い、評価の幅を示した*10。青幻舎や日本のBunkamuraでの大規模展も、日本での受容を広げた*18。財団のアーカイブ整理は、未整理スライド、絵画、商業仕事を含む制作全体を再検討している*20。
カラー街路写真の位置
雪で輪郭が消え、曇った窓や看板が身体を隠すため、見る側は都市を一度に把握できない。ライターはその見えにくさを避けず、色と前景の遮蔽物で構図を作った。2017年と2023年のBunkamura展は、写真、ファッション、絵画を横断し、色と遮蔽物が共通する制作上の特徴を紹介している*19。財団の展覧会履歴を見ると、2006年以後も各国の美術館で再検討され、後世の評価は「早いカラー」の一点から、写真と絵画、私的制作と商業媒体の往復へ広がっている*5。
同時代と後代のカラー写真を分けて見ると、ライターの位置がより明確になる。Zillman Art Museumは、1947年のカルティエ=ブレッソン展がライターだけでなくウィリアム・クライン、ロバート・フランク、ヘレン・レヴィットらニューヨーク・スクールの世代へ影響したと説明し、その中でライターが1950年代から色と重層的な構図を組み合わせた点を特徴としている*24。National Gallery of Australiaの「Colour + Concept」は、ライターをエルンスト・ハースら初期のカラー表現と同じ歴史の中へ置き、写真家によって色が記録以上の抽象的・概念的な働きを持ったことを示した*30。FOMUも、ライターの1950年代のカラー作品を、1970年代に美術写真として広く認知されたスティーヴン・ショアやウィリアム・エグルストン以前の実践として位置づけている*31。したがって重要なのは「カラーを最初に使った」ことではなく、街路写真の即時性に、色、反射、遮蔽、平面的な構図を早い段階で結びつけたことである。
写真集とアーカイブ
ライターのカラー作品は撮影年と公表年が大きく離れているため、写真史上の位置を考えるときは「いつ撮ったか」と「いつ誰が見たか」を分ける必要がある。財団の写真集一覧をたどると、2006年の『Early Color』以後、『Early Black and White』『In My Room』など異なるまとまりが刊行され、アーカイブから選ばれる作品群そのものが変化してきた*4。Howard Greenberg Galleryの「Early Color」は、写真集刊行と展覧会が同時に進んだ再評価の中心であり、プリントとして流通する像の選択に大きな役割を果たした*7。Bunkamuraの2017年展は日本での知名度を決定的に高め、カラーだけでなく白黒、絵画、ファッションを一人の制作として示した*13。M+Bでの展示も、米国西海岸での受容を広げた*17。2023年の生誕100年展では未整理スライドのデータベース化と新発見作品が前面に出され、評価が固定した「代表作」の反復だけではなく、アーカイブそのものの更新へ向かった*22。この発表史を含めると、作品はスライド、商業誌、後年プリント、写真集、展覧会を通って現在の形になったと分かる。
Museum of Fine Arts, Houston所蔵の《Through Boards》は1957年撮影、後年プリントとして登録され、同館はライターがイースト・ヴィレッジの自宅周辺を繰り返し撮ったことも解説している。*28 Museum of Contemporary Photographyは《Snow》などをカラー写真の文脈で所蔵している。*29 こうした所蔵情報は、撮影場所、後年プリント、絵画と商業写真を含む制作全体からライターの位置を考える材料になる。
- アンリ・カルティエ=ブレッソン ― ストリート写真 / 決定的瞬間
- ロバート・フランク ― ニューヨーク・スクール / 戦後アメリカ
- ウィリアム・クライン ― ニューヨーク・スクール / 街路写真
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
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