ポール・ストランド
ピクトリアリズムを決定的に離れ、幾何学的構成と直接的フォーカスによる「ストレート写真」を確立。スティーグリッツが「最も直接的な表現」と称した。
第一次世界大戦とロシア革命がヨーロッパの秩序を破壊し、ダダ・バウハウス・構成主義が写真に新しい視覚言語をもたらした。ストランドの「ストレート写真」、モホイ=ナジの「新しいヴィジョン」、ザンダーの組織的肖像が同時に始まり、写真の実践は多方向に爆発した。
1914年の大戦勃発から1920年代の「狂騒の時代」まで、写真は絵画との決別を宣言した。チューリッヒでダダが誕生し(1916年)、バウハウスが開校(1919年)、ストランドが「ストレート写真」の基盤を確立した。日本では福原信三・野島康三・安井仲治が欧州モダニズムを日本に接続した。
ストランドの「ストレート写真」宣言はピクトリアリズムの芸術的模倣を否定し、写真固有のシャープネスと現実性を前景化した。一方でマン・レイの「レイオグラフ」はカメラなしで印画紙に像を作り、写真の「記録」という定義を根底から問い直した。同一の「写真」という媒体が、全く逆の方向を同時に進んだ時代。
第一次世界大戦(1914-18年)・ロシア革命(1917年)・ヴェルサイユ体制が世界の地政学を塗り替えた。
ダダ(1916年)・バウハウス(1919年)・ロシア構成主義が写真に新視覚言語をもたらした。写真はコラージュ・フォトグラム・俯瞰構図で拡張された。
35mmライカカメラの登場(1925年)が写真の機動性を飛躍的に高めた。グラビア印刷と報道写真誌の普及が始まった。
福原信三・野島康三・安井仲治が欧州モダニズムを日本に接続。関西を中心に「前衛写真」が展開した。
ピクトリアリズムを決定的に離れ、幾何学的構成と直接的フォーカスによる「ストレート写真」を確立。スティーグリッツが「最も直接的な表現」と称した。
カメラなしで印画紙に直接像を作る「レイオグラフ」(1921年)を発明。ダダ・シュルレアリスムと写真を結びつけ、写真の「記録」という定義を根底から問い直した。
バウハウスで「新しいヴィジョン」を理論化。俯瞰・仰角・フォトグラムで「写真は目を解放できる」と主張し、写真教育の基盤を作った。
「20世紀の人々」というプロジェクトで農民・職人・芸術家・政治家まで全階層を組織的に肖像記録。社会的タイポロジーとしての写真実践を示した。
「世界は美しい」(1928年)で事物そのものの構造美を精密に示した新即物主義の中心人物。ピクトリアリズムともバウハウス的実験とも異なる独自の立場。
ソビエト・アヴァンギャルドの中心として、大胆な俯瞰・仰角・斜構図で「写真的視覚」を革新した。プロパガンダと前衛芸術の交差点に位置する。
ブダペスト→パリ→ニューヨークと移住しながら、直感的なフレーミングと個人的まなざしでストリート写真の詩的可能性を拡張した。
資生堂初代社長として企業経営と写真芸術を両立。日本のピクトリアリズムを牽引し写真の芸術的地位確立のための制度整備に尽力した文化組織者。
大阪生まれ。ピクトリアリズムからモダニズムへの移行期に、日本写真史上最も重要な軌跡の一つを残し39歳で早逝した写真家。
産業・都市・肖像・ジャーナリズムを横断した戦間期モダニズムの写真家。「メタル」(1928年)でエッフェル塔や橋梁を機械美として捉えた。
ピクトリアリズムの叙情的な画面から都市の俯瞰へ、さらに鏡装置を使った抽象写真へと展開したイギリス・アメリカの写真家。1916〜17年の《Vortograph》シリーズは写真による抽象化の初期実験として記録される。
絵画主義的な印画の質感と近代的な人物把握を結び、日本近代写真の肖像表現を切り開いた写真家。ピクトリアリズムから日本固有の写真モダニズムへの移行期に、身体と顔の存在感を写真として立ち上げた作家として位置づけられる。
ニューヨークとパリでの経験を神戸・芦屋の写真文化へ接続し、日本モダニズム写真の形成に関わった写真家。商業写真と構成的実験の双方を担い、阪神間モダニズムの視覚文化を支えた。
写真、絵画、映画を横断し、アメリカの建築と産業構造を精密な近代的秩序として可視化した作家。ポール・ストランドとの映画《Manhatta》、フォード・ルージュ工場の記録など、プレシジョニズムの主要な担い手として評価される。
1865年、プロイセン王国ハルツ地方シーロに生まれたカール・ブロスフェルトは、植物の芽、茎、種子、花序を拡大し、単純な背景で撮影した造形教育者・写真家である。1890年代から工芸教育の教材として蓄積した写真は、1928年の『Urformen der Kunst』、1929年の《Film und Foto》を経て、新即物主義やNew Visionの文脈で再評価された。教育、倍率、比較、写真集、ベンヤミンやバタイユの同時代批評から、教材写真が近代写真へ読み替えられた過程を追う。
1886年ベルリン生まれのエーリヒ・ザロモンは、1920年代末からエルマノックス小型カメラと室内の自然光を用い、法廷、国際会議、外交官、政治家を公式行事の前後や進行中に撮影した写真家である。長くその場に留まり、フラッシュを避け、ときにカメラを隠す方法によって、疲労、雑談、待機、交渉の身振りをニュースにした。彼の仕事は、小型カメラの技術革新だけでなく、記者のアクセス、被写体との関係、撮影許可、雑誌の大量流通が一体になって成立した近代フォトジャーナリズムの条件を示す。
1883年、オーストリア=ハンガリー帝国領ボヘミアのプシーブラムに生まれたフランティシェク・ドルティコルは、プラハの肖像スタジオを基盤に、裸体、幾何学的セット、強い光と影を構成した写真家である。象徴主義的な初期作から、1920年代のモダニスト裸体、1930年代の紙・木の人形へ進み、後年は仏教研究、翻訳、絵画へ活動を移した。身体、舞台、光を撮影前から設計する方法と、写真を離れるまで続いた精神的関心をたどる。
1889年ドイツ、ゴータ生まれのハンナ・ヘッヒは、新聞、雑誌、広告の写真を切り抜き、異なる身体、機械、文字、民族資料の図像を不連続な縮尺で接続したベルリン・ダダの作家である。《Cut with the Kitchen Knife》や連作《From an Ethnographic Museum》では、ワイマール期の「新しい女性」、政治家、芸能人、非西洋文化の表象が衝突する。大量印刷が作る身体像をその印刷物自体から切り出し、ジェンダー、政治、人種化された分類が画像によって作られる仕組みを批判した。
1870年、イングランドのソールズベリーに生まれたハーバート・ポンティングは、日本やアジアを撮る旅行写真家を経て、スコットのTerra Nova遠征(1910–13)で公式写真家・映画撮影者を務めた。氷山、基地、科学者、船員をガラス乾板と映画で記録し、帰国後は幻灯講演、著書『The Great White South』、映画『The Great White Silence』へ再編集した。科学記録、探検広報、英雄化が同じ画像群からどう作られたかをたどる。
1883年、アメリカのオレゴン州ポートランドに生まれたイモージェン・カニンガムは、植物、裸体、肖像、家族、工業景観、路上を70年以上撮影した写真家である。写真化学と商業スタジオの経験を基盤に、《Magnolia Blossom》、1929年の《Film und Foto》、1932年のGroup f/64(西海岸で鮮明な写真表現を掲げたグループ)、Martha Grahamや『Vanity Fair』の肖像へ展開した。家庭、職業、モダニズムが長期実践の中でどう結びついたかを追う。
1886年マサチューセッツ州レノックス生まれのジェームズ・ヴァン・デル・ジーは、ハーレムの家族、恋人、花嫁、スポーツ団体、教会、UNIA、葬儀や街路を長期に撮影した写真家である。背景、小道具、衣服、照明、ネガ修整、手彩色、多重露光を組み合わせ、依頼者が望む自己像を写真家と共同で形にした。
1893年、ニューヨークに生まれ、ヨーロッパ各地で育ったフローレンス・アンリは、音楽と絵画を学んだ後、1927年にデッサウのバウハウスへ滞在して写真へ進んだ。鏡、球体、果物、木枠、身体を配置する静物とセルフポートレートで、実物と反射、複数の視点を一枚の写真に重ねた。
1896年、イタリア北東部ウーディネに生まれたティナ・モドッティは、十代でサンフランシスコへ移住し、舞台と映画を経て写真へ進んだ。1923年からメキシコでエドワード・ウェストンと活動し、電線、建築、花、労働者、農民、壁画を撮影した。
1902年、ドイツのデュッセルドルフに生まれたウンボ(オットー・ウンベール)は、1921年からヴァイマルのバウハウスでヨハネス・イッテンらに学び、ベルリン移住後に写真を始めた。近接肖像、急角度の俯瞰・仰角、夜景、長い影を用い、1928年創設のDEPHOTを通して挿絵雑誌へ写真を供給した。
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
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