1921年、オーストリア・ウィーン生まれ。第二次世界大戦後に本格的に写真へ向かい、1947年に帰還兵と家族の再会を撮ったシリーズで注目された。1949年にロバート・キャパの招きでMagnum Photosへ参加し、その後ニューヨークを拠点に活動した。1950年代からKodachromeによるカラー、低速シャッター、流し撮り、反射、ぼけを探究し、『Life』のカラー・エッセイや映画関連の仕事、1962年のMoMA個展へ展開した。
ハースがカラー写真へ持ち込んだ具体的な変化は、色と露光時間を被写体の追加情報ではなく、写真そのものの主題にしたことにある。戦後ウィーンの白黒報道からMagnumへ進んだ後、1950年代初頭のニューヨークでKodachromeを使い、反射、広告、車体、雨、低速シャッターを組み合わせた。1953年の『Life』《Images of a Magic City》はカラーを24ページの写真エッセイとして大衆へ流通させ、1962年のMoMA個展は色そのものを「見ること」の問題として展示した。重要なのは、1970年代のNew Colorより約20年前に色を使ったという順位ではない。カラーが広告・ファッション・娯楽と結びつき「真剣な写真」から低く見られていた時期に、雑誌、映画、美術館を横断しながら、色面、ぼけ、運動だけでも複雑な知覚経験をつくれることを実証した点にある。その商業メディアとの近さゆえに後の美術写真史では位置が曖昧になったことまで含め、ハースはカラー写真の制度的な境界を考える重要な作家である。
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帰還兵の白黒写真から始まる
ハースはウィーンに生まれ、第二次世界大戦後に本格的に写真へ向かった。1947年、帰還兵と家族の再会を撮ったシリーズが注目され、『Life』からスタッフ職の誘いを受けたが、独立性を守るため断ったと公式アーカイブは記している。*1この判断は後年の制作を理解するうえで重要である。報道の到達力を捨てたのではなく、特定の雑誌に専属することで、何を、いつ、どの形で撮るかを編集部に固定されることを避けた。Hasselblad Foundationも、ハースが一誌に拘束されず、自分の速度で素材を完成させる自由を重視したと評価している。*2 さらにNational Gallery of Australiaは、ハース自身が戦後の灰色で荒廃した環境の反動として色を「必要としていた」と振り返り、新しい時代への希望をカラーで祝いたかったと述べた記録を紹介している。*21 したがってカラーへの移行は、白黒報道から装飾的な色彩へ趣味を変えたという話ではなく、戦争直後の経験に対して写真の感覚をどう作り直すかという個人的・歴史的な問題でもあった。
Magnumとアメリカへの移動
ロバート・キャパに招かれ1949年にMagnumへ加わり、のちに同組織の運営にも関わった。WestLichtの回顧展は、戦後ウィーンの白黒報道からアメリカ移住、初期カラーへ至る流れを一続きに示し、雑誌報道の中心にいながら色の実験へ進んだ経緯を整理している。*3初期のMagnumが白黒報道を中心にしていたなかで、ハースはカラーを個人的研究として深めた。Estateの論考は、当時の白黒が「真実らしさ」や非商業的な写真の記号として機能していた一方、ハースが1952年ごろから色の創造的可能性を本格的に追ったと説明している。*4ここでカラーは技術革新への追随ではない。色が多い街を撮るというより、色が光、広告、車体、ガラス、雨、影によって変化する都市だからこそ、ニューヨークが実験場になった。 ICPの資料によれば、ハースは最初のカメラを手に入れる以前からウィーンのGraphische Lehr und Versuchsanstaltで写真を学び、1946年に初めてカメラを得た。*25 同資料は1949年にはLeicaを購入してカラー実験を始め、色が「真剣な創作写真」では白黒より劣ると見なされていた時代に、雑誌、映画、音と映像を組み合わせる試みまで広げたと位置づける。*25 ハース固有の重要性は、偶然カラーを早く使ったことではなく、職業教育、Magnumの報道、雑誌印刷、映画という複数の制作現場を使って、その低い制度的評価そのものへ実作で応答した点にある。
《Images of a Magic City》――色で都市を読む
1953年、『Life』はハースのニューヨークのカラー写真を二号・計24ページにわたり掲載した。Estateはこれを同誌で例のない大規模なカラー特集として位置づけ、その後パリやヴェネツィアの色のエッセイへ続いたと記している。*5National Gallery of Australiaのカラー写真史も、この特集を当時の『Life』で最長のカラー・ストーリーとし、ハースが反射や斜めの視点によって都市を半抽象的な色面として扱ったことを論じている。*21《Corner of 38th Street》では、看板や車、反射した色が都市の説明より画面を分割する色面として働く。MoMAの所蔵情報は同作をdye transfer printとして記録し、シアン、マゼンタ、イエローを重ねるプリント技術にも触れている。*6The Met所蔵の《Conversation on Third Avenue》も1950年代のクロモジェニック・プリントとして残り、人物の会話より都市の色面と反射が画面の構造を担う系列の広がりを確認できる。*22 International Photography Hall of Fameの回顧資料も、当時感度の低いカラーフィルムを使いながら、反射、ガラス、動く被写体を利用して色を固定的な表面から解放した点をハースの技術的特徴として挙げている。*7
「止める」から「流れる」へ
1957年のスペインの闘牛取材では、速いシャッターで運動を分解するより、カメラを被写体とともに動かし、輪郭と色を流した。公式年譜は、この仕事を運動研究の転機とし、翌1958年の『Life』《The Magic of Color in Motion》で低速シャッターによる色の混合を体系的に展開したと記す。*8The Metの《The Bullfight》がクロモジェニック・プリントとして所蔵されていることからも、この実験が雑誌の印刷効果だけで終わらず、独立したプリント作品として残されたことが分かる。*23ハース自身は写真を「光と時間」の言語として捉え、客観的な混沌へ主観的な秩序を与えることを写真家の仕事として書いている。*9ここでぼけは速度感を飾る効果ではない。露光中に対象とカメラが動いた時間を一枚へ残すため、写真が「一瞬を固定する」媒体だという理解そのものを別の方向から使った。Amon Carter Museum所蔵の《Cowboy and Bronco, New York》(1958年撮影、のちに染料転写でプリント)も、輪郭を流しながら色の帯と方向感を残す運動表現が、雑誌の印刷効果だけでなく独立したカラー・プリントとして成立したことを示している。*28同じ1950年代ニューヨークでカラーを撮ったソール・ライターと比べると差はさらに分かりやすい。Milwaukee Art Museumはライターの色を、窓、遮蔽物、反射、抑えた色調によって日常の一部を断片的に見せる都市写真として評価している。*30 ハースにも反射や圧縮はあるが、彼は『Life』の誌面やスポーツ、闘牛、交通のような動く世界へカラーを持ち込み、露光時間を使って対象の速度まで色面へ変えた。二人を「初期カラー」の一括りにせず比較すると、ハースにとってカラーが都市の雰囲気だけでなく、時間を記録する装置だったことが見える。
雑誌レイアウトがカラー写真を大衆化する
ハースの色は美術館より先に大衆雑誌で大きく流通した。『Life』のページは、見開き、連続、大小の写真を組み合わせ、単独プリントとは異なる速度で都市や運動を見せた。MoMAの1965年《The Photo Essay》展にもハースが含まれ、写真と文章、グラフィックを一体の声明として構成する雑誌的形式そのものが写真史の対象として提示された。*10この雑誌経験は、後に「芸術写真」と「商業写真」を分けてハースを評価する際に見落とせない。色の印刷、ページの順序、映画の宣伝やロケーション撮影など、複製メディアの条件自体が彼の視覚実験を支えた。
映画セットと運動の感覚
1950年代後半から60年代にかけて、ハースは映画のスチルや撮影現場の仕事も多く手がけた。Estateの『On Set』紹介は、ジョン・ヒューストンら複数の映画監督の現場で、戦闘、ダンス、俳優の動きを撮影し、連続する静止画に時間と物語を生じさせた仕事としてこの側面を整理している。*11映画仕事がそのまま写真技法の原因だったと断定はできないが、連続運動、照明、色、セット、俳優の動線を扱う環境と、静止画で時間を表現する彼の関心が同時期に展開したことは確認できる。Estateの展覧会史には後年《Hollywood》としてこの側面が再展示された記録もある。*12
1962年MoMA――カラーを美術館で見る
MoMAは1962年に《Ernst Haas: Color Photography》を開催し、約10年のカラー制作をまとめた。展覧会記録には、ニューヨーク、闘牛やモータースポーツなどの運動研究、自然、アメリカ景観を含む約80点が並んだことが確認できる。*13同年のプレスリリースは、ハースのカラーをジャーナリズムの記録だけで測らず、見ることそのものを扱う写真として位置づけ、John Szarkowskiも、従来のカラー写真では色が被写体に付随する装飾になりがちだったのに対し、ハースは色の感覚自体を主題にしたと評価した。*141950年代の『Life』で大量流通した色が、同じ作家の大判プリントでは知覚の構造として検討された点に、この個展の写真史的な意味がある。FUJIFILM SQUAREの作家資料も、雑誌で広く流通したカラー作品とMoMAでの展示を連続したキャリアとして整理している。*18
「カラーの先駆者」だけでは足りない
ハースはカラー写真史の先駆者として頻繁に紹介されるが、そのラベルは白黒作品を見えにくくした。ICPは1992年に《Ernst Haas in Black and White》を開催し、人間の生活を捉えた白黒写真が長く過小評価されてきたことを明示した。*15後世の評価もカラー一辺倒ではない。International Photography Hall of Fameは、1989年のカラー回顧、1992年の『Ernst Haas in Black and White』、2011年の『Color Correction』までを挙げ、死後の出版と展示が作家像を繰り返し更新してきたことを示す。*16 つまり彼の歴史的位置は、カラーへ一直線に進んだ技術者ではなく、報道、色、抽象、運動を往復した写真家として見る方が正確である。 Art Institute of Chicagoが所蔵する《Vienna, 1947》のような初期白黒作品は、カラー以前のハースが戦後都市と人間をすでに強い階調と構成で撮っていたことを確認できる。*26 そのため後年のカラーを「白黒の報道を捨てた転向」とみなすより、戦後の観察で形成された画面構成を、Kodachromeの色面と長い露光時間へ展開した連続性として読む方が妥当である。
商業性が評価を遅らせたという問題
20世紀後半のカラー写真史では、ウィリアム・エグルストンやスティーヴン・ショアが美術館・写真集の正典として強く語られてきた。一方、ハースは1950年代から『Life』、広告、映画セットと美術館を横断していたため、「商業写真」と「美術写真」を分ける後世の分類に収まりにくかった。MoMAの作家履歴を見ると、1962年の個展以前から作品が展示・収蔵され、その後もカラーと白黒の双方が扱われている。*17National Gallery of Australiaは、カラーが長く商業領域と結びつき、白黒が「真剣な写真」の基準と見なされやすかった文脈を説明したうえで、ハースをカラー表現の革新者の一人として位置づけている。*21近年の出版では『Color Correction』『New York in Color, 1952–1962』などが、彩度の強い代表作だけでなく、反射、圧縮、ぼけ、看板、都市の断片を再編集している。Estateの書誌は、この死後の編集史を追う資料になっている。*19Estate自体には25万点を超えるカラー・トランスペアレンシーと10万点の白黒ネガ、書簡、文章が残されており、現在の評価は限られた雑誌掲載作から大きく広がり得る。*24ハースの写真史上の意味は「カラーの先駆者」という順位づけより、色を主題、露光時間を形、雑誌ページを流通の場として一体化し、カラー写真が商業と美術の双方で複雑な内容を担えることを1950年代から実証した点にある。 日本で開催されたFUJIFILM SQUARE《Ernst Haas: The Creation》も、色、動き、抽象、自然を横断する作品をまとめ、商業写真家という限定的な像から再検討している。*20
1970年代の「New Color」から逆算しない
カラー写真の正典は、1970年代にウィリアム・エグルストン、スティーヴン・ショア、ジョエル・マイヤーウィッツらが美術館と写真集で評価された歴史から語られやすい。しかしMilwaukee Art Museumの《Color Rush》は、カラーがそれ以前から雑誌、広告、美術館、ストリート写真を横断して発展し、Edward Steichen、Irving Penn、Helen Levitt、Eliot Porter、ハースらが異なる目的で色を使っていたことを一つの歴史として整理している。*29 この中でハースの固有性は「最初」だったことではない。PennがVogueの統制された色彩構成を、Levittが街路の日常をカラーへ展開したのに対し、ハースは雑誌報道の移動性を保ったまま、低速シャッター、反射、流し撮りによって色と時間を一体の主題にした。National Gallery of Australiaの「New American Colour Photography」は、この世代の背景として、カラーが長く商業領域と結びつき、日常のスナップ、テレビ、映画、絵入り雑誌の色彩文化から新しい写真が生まれたことを整理している。*27 ハースをこの後の正典から逆算すると、「New Color以前の先駆者」という序列だけが残る。しかし彼の1950年代の仕事は、ストリートの色を大型美術プリントへ直結させるより、『Life』の大規模な誌面、映画セット、広告や企業仕事、スライド上映など複数の媒体へ広がっていた。だからこそ後世の「ファインアート写真」という枠に入りにくかったのであり、その入りにくさ自体が、カラー写真がどの制度を通って芸術として認められたかを考える材料になる。
- ソール・ライター ― 1950年代ニューヨークのカラーを反射・遮蔽・抑えた色調で扱った同時代の比較対象。ハースの運動と露光時間の使い方との差が明確になる
- ロバート・キャパ ― Magnumへハースを招いた人物。戦争報道の即時性とハースの後年の色・運動研究を比較できる
- アンリ・カルティエ=ブレッソン ― 静止した瞬間の構成と、ハースが低速シャッターで時間を流した方法の対照
- マーティン・パー ― 後年、カラーと雑誌/ドキュメンタリーを消費社会の表現へ展開した比較対象
- カラー写真 ― 商業・印刷・アマチュアの色から美術館の写真表現へ評価が変化した領域
- Magnum Photos ― 報道写真家の自主性と国際的な配信を支えた協同組織
- 写真エッセイ ― 雑誌のページ上で写真の順序、サイズ、文章が意味をつくる形式
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
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