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PHOTOGRAPHERS/ERWIN BLUMENFELD ·ダダ ·UPDATED 2026.09
EB
§ 377 — Photographer Index — ダダ

アーウィン・ブルーメンフェルド

Erwin Blumenfeld 1897–1969
Countryドイツ / アメリカ Period1950–1960s Channel写真史の論点 · DADA
Abstract

1897年、ドイツ、ベルリン生まれ。アーウィン・ブルーメンフェルドは、ダダのコラージュからヌード、肖像、ファッション、カラー写真へ進み、アムステルダム、パリ、ニューヨークで制作した。ソラリゼーション、多重露光、歪曲、極端なハイキー、色面を使い、『Vogue』『Harper’s Bazaar』の顔と身体を印刷ページの強い記号へした。撮影、暗室、印刷を一つの制作工程として扱った点が核心にある。

この写真家が変えたこと

ファッション写真がモデルや衣服を明瞭に見せることを求められるなかで、ブルーメンフェルドは撮影時の像をそのまま完成形としなかった。ベルリン・ダダ期のコラージュで行った切断、反転、接合は、写真では多重露光、ソラリゼーション、歪曲、マスキング、極端なハイキーへ置き換わる。1950年の『Vogue』表紙では顔の大半を白へ消し、目、口、ほくろだけで人物を成立させ、余白、色、文字と写真を同じ平面上で働かせた。 ブルーメンフェルドは、ダダの切断と再構成を暗室操作、カラー、雑誌印刷へつなぎ、撮影後の工程まで含めて一枚の商業画像を設計した。 政治的なモンタージュ、注文写真、雑誌表紙、美術館での抽象写真展示が同じ時期に併存したため、前衛と商業を別々の経歴として分けると、彼が複製媒体そのものを制作の場所として扱った意味が見えにくくなる。

Keywords Erwin Blumenfeld Vogue ダダ ソラリゼーション 多重露光 カラー写真
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目次 · Table of Contents
§ 01 / 04 背景と時代

ベルリン・ダダ

ブルーメンフェルドの公式アーカイブによれば、ベルリンでパウル・シトロエン、ゲオルク・グロス、ヴァルター・メーリングらの周辺に接し、第一次世界大戦後にはダダのコラージュや素描を制作していた。カメラを職業にする以前から、ブルーメンフェルドには既存イメージを切断し、別の意味へ接合する習慣があった。*1 公式サイトの作品セクションは、コラージュ、実験写真、ファッション、カラーを分けて見せつつ、一つの作家活動として並べている。*2 その連続性を見ると、ソラリゼーションや多重露光は流行的な装飾というより、像を完成品として受け取らず、後から操作できる材料として扱うダダ的な態度の延長に見える。

公式のモノグラフ一覧には、後年の研究がダダ、パリ期、ニューヨークのカラー仕事を別々に掘り下げてきた経緯が残る。*3 ヘレン・アドキンスの研究『Erwin Blumenfeld: “I Was Nothing But a Berliner”』は、1916〜33年のモンタージュだけで223ページを費やし、博士論文をもとに初期ダダ期を独立して検証している。この初期ダダを独立した制作として見ると、後年のファッション写真を飾る「若い頃の前衛趣味」には収まらない。広告、絵葉書、新聞、写真断片を切り、権力やブルジョワ的価値へ向けて意味を反転させた経験が、写真を最初から完成した現実の写しとして信じない態度を作っていた。*29

アムステルダムからパリへ

公式展覧会史は、1929年の「Film und Foto」から戦後のMoMA、ポンピドゥー、ベルリン、東京まで展示歴を追える。*4 東京都写真美術館の回顧展は、二度の世界大戦と移動を経た人生、ダダからヌード、ファッションへの展開を約290点で示した。*5 アムステルダムの皮革店にあった暗室を使い始め、商売の破綻後に写真を職業化した経緯は、写真選択の必然を経済的条件と制作環境の双方から説明する。

アムステルダムで写真が職業になった経緯は、後の実験を『純粋芸術から商業へ転向した』物語として見ることも難しくする。店の暗室という身近な設備が制作の入口になり、肖像の依頼が生活を支える仕事になったため、実験と注文仕事は初期から同じ環境にあった。東京都写真美術館がダダ、ヌード、ファッションを連続して展示したのは、この複数の領域が後から接合されたのではないことを示す。*5 ブルーメンフェルドの前衛性を「美しい女性像」の前史だけにすると、政治的なイメージ制作が抜け落ちる。ニューヨークのユダヤ博物館が所蔵する《The Dictator》(1937)は、子牛の頭とヴィーナス像を組み合わせたファシスト指導者への風刺であり、後の収容と亡命以前から、写真とモンタージュが政治的な攻撃性を持っていたことを示す。*21

§ 02 / 04 表現の核心

露光・反転・切断

ベルリニッシェ・ギャラリーは、1916〜33年のダダ・コラージュを、ユダヤ系ベルリン人としての背景、グロスや『Der Sturm』周辺との交流、権威への辛辣な風刺と結びつけている。*6 Fotomuseum Den Haagの回顧展は、アムステルダムの暗室からパリのファッション仕事へ進み、二重露光、歪曲、ソラリゼーションなどを継続的に使ったことを整理している。*7 ベルギー・ユダヤ博物館は、ダダ的着想、政治的関心、芸術実験を一つの活動として扱い、戦争による収容と1941年のニューヨーク移住までを写真史へ組み込んでいる。*8

顔と複製

MoMAの作家ページを見ると、ブルーメンフェルドは1940年代後半から「Abstraction in Photography」「Color Photography」「In and Out of Focus」など写真の形式実験を扱う展覧会に含まれている。*9 《Portrait of E.L.》では、人物の顔を通常の肖像として安定させるより、影、露光、輪郭によって像を不確かにする。*10 この段階で、後のファッション写真に現れる「顔を情報から形へ変える」方法がすでに形成されていた。 ダダのコラージュでは、新聞や印刷物から切り取られた既存イメージが、本来の説明文と切断されて別の関係へ置かれる。暗室での多重露光やソラリゼーションも、操作は違っても、撮影された像を最終的な意味として受け取らない点で共通する。ベルリニッシェ・ギャラリーの初期作品群を参照すると、後年の『Vogue』で顔を切り詰める方法が、突然生まれた広告上の工夫だけではなかったことが分かる。*6

この連続を『ダダ思想をそのままファッション誌へ持ち込んだ』と断定する必要もない。政治的風刺を目的としたコラージュと、商品を魅力的に見せる雑誌写真では制度も目的も異なる。共通しているのは、像を切断、反転、重複させることで、カメラが最初に記録した見え方から離れた最終画像を作る操作である。 サラ・E・ジェイムズは『Frieze』で、ブルーメンフェルドの仕事をベルリン・ダダからフランス・シュルレアリスム、ニューヨークのファッションまで連続する視覚文化として読む。1930年代後半の『Verve』では、濡れた布や歪曲で身体を変形させた写真がマン・レイ、ブラッサイ、ラウル・ユバックと同じ誌面に置かれた。身体の複数化、ソラリゼーション、布による遮蔽は、一人だけの奇抜な技法ではなく、同時代シュルレアリスムが視覚と欲望を不安定にした方法と接していた。*30 ただしブルーメンフェルドには、前衛をギャラリー内部で完結させない特徴がある。同じ批評は、ブラッサイ、イルゼ・ビング、ロッテ・ヤコビ、ジゼル・フロイント、フローレンス・アンリらが、スタジオ、報道、ファッション、前衛雑誌を横断していたことを指摘する。ブルーメンフェルドの特異性は「商業なのに芸術的」だったことより、商品を売るページの内部で、顔や身体を切断・重複・消去する前衛の操作を実際に働かせ続けたことにある。*30

§ 03 / 04 代表作・方法・媒体

『Vogue』とカラー

メトロポリタン美術館の《Multiple Exposure Portrait, Amsterdam》は、一人の人物の複数の向きが重なり、肖像が単一の顔に固定されない作品である。*11 撮影後の操作を前提にすることで、写真は「その瞬間にそこにいた人」を一方向から記録するだけの媒体ではなくなった。 1950年1月1日の『Vogue』表紙では、白地の中に片目、赤い唇、ほくろだけが残る。メトロポリタン美術館の所蔵ページで、雑誌表紙そのものが作品として保存されていることを確認できる。*12 《Jean Patchett for Vogue》でも、顔や身体の全情報より、線、コントラスト、印刷面で成立する形が優先される。*13

アートディレクション

ロンドンのNational Portrait Galleryは、ブルーメンフェルドをダダ、アムステルダムの実験的ヌード、パリのファッション、ニューヨークの雑誌仕事を横断した作家として整理している。*14 バービカンの回顧展も、ファッション写真家としての名声と、実験写真・自画像・ヌードを同じキャリアに置いた。*15 ブルーメンフェルドにとって雑誌仕事は「芸術の外側の商業」ではなく、色校、トリミング、文字、余白を含む複製画像の最終形を試す場所だった。 カラー写真では、ネガやスライドに記録された色と、雑誌印刷で再現される色は同一ではない。だからブルーメンフェルドの実験は撮影時の照明だけで終わらず、色校や印刷結果を想定して成立する。Steidlがニューヨーク期のカラー・スライドと雑誌原頁をあわせて再検討したことは、現在知られる作品像が撮影原版と複製物の往復から作られていることを示している。*18 1950年の『Vogue』表紙は、この考え方を極端に示す。白い余白は撮れていない部分ではなく、目と口の色を最も強く働かせる画面要素である。人物の情報を減らすほど表紙は遠くからでも識別しやすくなり、写真は肖像、グラフィックデザイン、ブランドの記号を同時に担う。*12

1950年1月号の「Doe Eye」は、もとの白黒肖像を暗室で極端に単純化し、雑誌側のカラー処理によって青い目と赤い唇を持つ表紙になった。Vogue ItaliaがFoamの回顧展に際してこの工程を紹介している。完成した表紙は、ブルーメンフェルドの撮影だけでも、雑誌側の印刷だけでも成立せず、両者の工程が重なった複製画像である。*22 東京都写真美術館の収蔵データでも、このイメージは《Jean Patchett, Vogue, New York》として1950年の作品に登録され、アメリカ版『Vogue』1月号表紙であることが確認できる。作品を「顔の写真」と見るより、特定の雑誌号に載ることを前提に作られた表紙イメージとして見る必要がある。*24 この環境はニューヨークでさらに制度化された。メイソン・クラインの『Modern Look』は、1930〜60年のアメリカ雑誌を、ヨーロッパから亡命・移住した写真家やデザイナーと、アレクセイ・ブロドヴィッチ、アレクサンダー・リーバーマンらアートディレクターが共同で作った視覚文化として検証している。リチャード・アヴェドン、リリアン・バスマン、アーヴィング・ペンら後続世代もこの誌面環境で仕事をした。ブルーメンフェルドのカラー実験は「個人作品を雑誌へ転載した」のではなく、写真、文字、余白、色分解、印刷を一つの最終画像へ統合する商業出版の現場で成立した。*32

§ 04 / 04 批評と受容

戦争・亡命・商業

アイオワ大学のInternational Dada Archiveは、ブルーメンフェルドを国際ダダの資料群に位置づけ、初期コラージュを後の写真活動から切り離さず参照できる。*16 Corkin Galleryの「From Dada to Vogue」も、1919年以後のコラージュから1940年代の写真までを連続して提示する。*17 Steidlの『Studio Blumenfeld: Color, New York, 1941–1960』は、雑誌原頁と長く公開されなかったカラー・スライドを再検討し、印刷物として知られてきた画像と撮影原版の関係を見直した。*18

前衛とファッションの再評価

Foamの「Erwin Blumenfeld in Color」は、ニューヨーク期のカラー写真を中心に、二重露光、歪曲、ソラリゼーションで形成された白黒期の実験が色彩へどう移ったかを展示した。*19 Jeu de Paumeの回顧資料は、1910年代末から1960年代までの素描、コラージュ、フォトモンタージュ、オランダの肖像、パリの白黒ファッション、ニューヨークのカラーを300点以上の作品・資料でつないでいる。*20 こうして見ると、女性の顔や身体を断片化する方法には二重性がある。ファッション誌が作る理想化された女性像を強化する一方で、その顔を切断し、消し、複数化して、安定した人格像としては見せない。これを解放や批判と断定する根拠はないが、商業的な美の生産と、像を不安定にする前衛技法が同じページに同居した緊張こそ、現在ブルーメンフェルドを読み直す重要な地点である。 亡命後の成功だけを見ると、ヨーロッパでの迫害と収容は華やかなニューヨーク時代への前史になってしまう。ベルギー・ユダヤ博物館が戦争と移動を制作史へ組み込むように、活動拠点の変更は本人の自由なキャリア選択だけで起きたものではなかった。新しい雑誌市場へ入れたことと、以前の生活基盤を失ったことは同時に見る必要がある。*8 近年のカラー再評価は、ブルーメンフェルドを『奇抜な暗室技法の作家』からも解放した。FoamやSteidlの研究では、撮影、暗室、カラー・スライド、雑誌印刷を一続きの工程として見直している。そこから浮かぶのは、写真家がシャッターを切る人に限定されず、複製される最終画像の条件まで設計する存在だったという点である。*19

ユダヤ博物館の「Modern Look」は、1930〜50年代のアメリカ雑誌を、ヨーロッパから渡った写真家やデザイナーと、アレクセイ・ブロドヴィッチ、アレクサンダー・リーバーマンらアートディレクターの仕事が交差する場として検証している。ブルーメンフェルドのアメリカ時代は、亡命後に個人の才能が開花した物語だけでなく、移住者の前衛的な視覚言語が大量印刷の雑誌へ組み込まれた歴史の一部でもある。*23 2022年のMusée d’art et d’histoire du Judaïsmeの展覧会は、1930年から1950年を中心に、未発表シリーズを含む約180点と資料を通して、パリでの成功、フランスでの収容、モロッコでの再収容、1941年の渡米を一続きの制作史として扱った。ニューヨークの華やかなファッション写真を、戦争による断絶を克服した成功物語だけにしないためには、この移動が本人の自由なキャリア選択ではなかったことを作品史の中に残す必要がある。*25 一方、ブルーメンフェルドは商業誌だけで評価されたわけでもない。MoMAは1948年の《In and Out of Focus》に彼を含めた。*26 1950年には《Color Photography》へ出品された。*27 1951年には《Abstraction in Photography》にも参加している。*28 つまり同時代から、彼の仕事はファッションの成功と並行して、戦後写真の実験、カラー、抽象を考える場でも展示されていた。

この展覧会史を踏まえると、後年の再評価を「商業写真家が美術へ昇格した」と説明するのは単純すぎる。雑誌表紙、美術館展示、個人的な暗室実験が同時進行していたこと自体が、ブルーメンフェルドの位置を特徴づける。 本人の自伝『Eye to I』も、作品解釈の補助線として重要である。ICP Libraryが所蔵するこの自伝は、後年のブルーメンフェルドがベルリン、戦争、商売、収容、亡命、雑誌界をどう語り直したかを確認できる一次資料である。自伝は記憶による自己構成でもあるため、事実確認にはアーカイブや研究書との照合が必要だが、彼が自分の人生を「純粋芸術家から商業写真家へ」という単純な成功譚として整理していなかったことを読む材料になる。*31 ジェイムズはさらに、ブルーメンフェルドの後継をウィリアム・クラインのファッション写真や映画へつなげている。両者に共通するのは、ファッション産業の依頼を受けながら、その表面を誇張、断片化、風刺によって内部から揺らす態度である。この系譜に置くと、ブルーメンフェルドは前衛と商業の境界を「越えた」人物というより、二つが同じ印刷文化の中で衝突する場所を作品にした写真家として評価できる。*30

§ REL 関連する写真家・運動
Photographers
  • マン・レイ ― パリでソラリゼーションや身体の変形を前衛写真の語彙へした同時代作家。技法の共有と商業媒体での使い方の差が比較点になる
  • アレクサンダー・リーバーマン ― 『Vogue』のアートディレクターとしてブルーメンフェルドを起用し、写真と印刷ページを結ぶ制作環境を作った人物
  • アレクセイ・ブロドヴィッチ ― 『Harper’s Bazaar』で大胆なレイアウトと写真家の実験を推進し、同時代の雑誌写真を別の編集方針から形成した人物
  • マルティン・ムンカーチ ― 動く身体と屋外撮影を軸にファッション誌を変え、ブルーメンフェルドの暗室・印刷中心の方法と対照をなす写真家
  • イルゼ・ビング ― パリのニュー・フォトグラフィーと雑誌仕事、亡命を経験し、同時代の都市写真を別の方向から示す写真家
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§ SRC 出典

出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)

本文執筆 — AI

構成・編集 — 写真の座標 管理人

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