写真の座標 Photo Coordinates
PHOTOGRAPHERS/JOHN JABEZ EDWIN MAYALL ·肖像写真 ·UPDATED 2026.09
JM
§ 313 — Photographer Index — 肖像写真

ジョン・ジェイビズ・エドウィン・メイオール

John Jabez Edwin Mayall 1813–1901
Countryイギリス / アメリカ Period1839–1860s Channel写真史の論点 · 肖像写真
Abstract

フィラデルフィアで磨いた大型ダゲレオタイプの明晰さをロンドンへ持ち込み、科学者や文化人、ヴィクトリア女王一家を撮った肖像写真家。1860年の《Royal Album》では王室肖像を名刺判写真(カルト・ド・ヴィジット)として一般販売し、同じ肖像を多数の家庭へ届けた。王族の写真を買い、交換し、自分の家族や著名人の写真と同じアルバムへ並べる19世紀の肖像文化を考えるうえで重要な作家である。

この写真家が変えたこと

メイオールは、ヴィクトリア女王一家の肖像を、一般の購入者が買い、交換し、アルバムへ保存できる名刺判写真として大規模に流通させた。ダゲレオタイプでは一回の撮影から得られる像は基本的に一点だったが、名刺判写真は同じネガから多数の紙焼きを作れ、郵送や交換にも適していた。1860年、女王とアルバート公が家族写真の一般販売を認めると、メイオールは立つ、座る、本を見るといった家庭生活に近い姿を小型カードとして販売した。宮廷へ行けない人も王室の写真を購入して自宅に所有できるようになり、王室肖像は大量販売される写真商品とアルバム文化の一部になった。

Keywords Royal Album carte-de-visite daguerreotype ヴィクトリア女王 肖像スタジオ セレブリティ文化
§ WORKS 作品を見る

本サイトでは作品画像を掲載していません。下記の公式アーカイブで作品をご覧ください。

目次 · Table of Contents
§ 01 / 04 背景と時代

フィラデルフィアからロンドンへ

メイオールは英国で生まれ、1840年代前半にフィラデルフィアでダゲレオタイプ・スタジオを営み、同時に化学の知識も講じていた。1846年にロンドンへ移ると、当時イギリスでダゲレオタイプ特許を握っていたリチャード・ビアードから営業許可を得て、翌年「American Daguerreotype Institution」を開いた。*1 Science Museum Group Journalは、彼が英国の特許制限を受けないフィラデルフィアで商業ダゲレオタイプを営み、1846年に帰英してまずアントワーヌ・クローデと働いた経緯をたどっている。*2 National Portrait Galleryが示すように、彼はやがて王室から文化人まで大量の肖像を制作し、英国の肖像写真市場の中心的なスタジオへ成長した。*3

1851年万博のダゲレオタイプとロンドンの肖像商売

初期のメイオールにとって写真を選ぶ理由は、絵画の代用品を作ることだけではなかった。ダゲレオタイプは皮膚、髪、衣服、装身具を細密に記録し、科学者ジョン・ハーシェルのような人物の顔を一回限りの金属板へ固定できた。現存するハーシェル像は、ダゲレオタイプという一品物の物質性と、知名人を「本人の顔」として保存する欲望が重なる例である。*18 一方、1851年の万国博覧会では、頭部を明瞭に残しながら周囲を徐々にぼかすヴィネット肖像を示し、照明と背景の処理によって顔へ視線が集まるようにした。*1 初期から中期の肖像では、カメラの精密さを示す技術競争と、被写体の威厳を保ちながら購入者が見やすい像を作る商業上の要求が同時に働いていた。*10

メイオールは名刺判写真へ移る以前から、肖像を商品として成立させる技術を競っていた。Gettyのダゲレオタイプ研究書は、1851年のロンドン万国博覧会で彼が72点のダゲレオタイプを展示し、Honorable Mentionを受けたことを記している。*26 この時系列を見ると、彼は一点物の銀板肖像で技術的評価を得たのち、1860年には複製可能で低価格な名刺判写真の市場へ進んだことが分かる。

§ 02 / 04 表現の核心

ヴィクトリア女王一家を家庭的な姿で撮る

1860年、メイオールはバッキンガム宮殿などでヴィクトリア女王、アルバート公と子どもたちを撮影し、その一部を《Royal Album》として販売した。Royal Collectionは、女王がアルバート公の膝上の本をのぞき込む一枚を、一般販売されたセットの一部として記録している。*4 同時期のアルバート公のカード肖像も、全身を小型カードへ収め、宮廷肖像に必要な品位を保ちながら、手に取りやすい寸法へ圧縮している。*5 National Portrait Gallery Australiaは、女王がこの小型で比較的「民主的」な形式を受け入れ、大量印刷を許可したこと自体が大きな転換だったと整理している。*6

なぜ名刺判写真だったのか

名刺判写真がメイオールの王室肖像に適していた理由は、同じネガから多数の紙焼きを作り、一枚ずつ販売・郵送・交換できたからである。小さな紙焼きは同一ネガから反復でき、封筒に入れて送れ、アルバムへ差し込めた。スコットランド国立美術館に残る47点の王族アルバムは、47点を収めたアルバムそのものが、購入した王族写真を人物ごとに並べ、比較しながら保存する使い方を具体的に示している。*7 London Museumのブルワー=リットン像は、1862年のリージェント・ストリートのスタジオで著名政治家・作家を同じ規格のカードに載せていたことを示す。*15 Historic Royal Palacesが指摘するように、王室は写真を親しみやすい家族像の形成にも利用し、メイオールの販売網はそのイメージを広い層へ運んだ。*16

スタジオ演出と著名人の像

メイオールの肖像は、後世の「自然なスナップ」とは異なり、椅子、本、帽子、カーテン、立ち姿を慎重に配置する。開いた本を指す男性のダゲレオタイプでは、読書という行為が職業・教養・人格を示す舞台装置になり、手彩色まで加えられている。*10 一方、ダゲールの肖像はガラス・ネガからのアルブメン・プリントとして残り、同じ被写体イメージが複製可能な写真へ移行したことも示す。*11 王室一家の写真をもとにした木口木版が雑誌へ展開された例は、メイオールの像が写真カードの内部だけに留まらず、印刷メディアへ二次流通したことを示している。*13

§ 03 / 04 代表作・方法・媒体

《Royal Album》1860年

《Royal Album》で大きく変化したのは肖像のポーズ以上に、その販売方法だった。《The Queen and Prince Consort》の小さなアルブメン・プリントは、宮廷の権威を背景や大画面で誇示せず、二人の身体をカードの内部へ収める。*12 その結果、王室像は家庭のアルバムの中で俳優、政治家、探検家、知人の写真と隣り合うことができた。実際、1860–70年代の英国・欧州王族の名刺判写真アルバムには、複数の写真家によるカードとメイオールの作品が同じ収集体系で保管されている。*20

ダゲレオタイプから紙焼きへ

メイオールのキャリアでは、ダゲレオタイプの一点物から複製可能な紙写真への移行を一つのスタジオの活動として確認できる。1840年代末から50年代初めの《Copy of the Rosetta Stone》は、金属板に一像を固定するダゲレオタイプが、人物だけでなく文化財複製にも使われたことを示す。*8 ドメニキーノの絵画複製も、絵画をダゲレオタイプとして撮り直し、元作品とは別の場所で閲覧できる複製を作った例である。*9 1850年代後半には写真クラブのアルバムのような紙焼きの共同出版にも参加し、スタジオ肖像と写真家同士の交換文化が同じ紙媒体で展開した。*22

名刺判写真を集めるアルバム文化

Harry Ransom Centerにはダゲレオタイプと多数のプリント、王室カードを含むメイオール資料が残り、一人の作家の作品が「一枚の名作」より、カード、アルバム、スタジオ商品として大量に存在したことが確認できる。*17 Gettyの1861年頃の無名カップル像からは、王族以外の一般客も同じ名刺判サイズで肖像を作っていたことが確認できる。*19 王族と一般客の写真が同じ程度のカード寸法で作られたため、購入者は身分の異なる人物の肖像を同じアルバムに保存できた。

§ 04 / 04 批評と写真史上の位置

技術評価と商業スタジオを両立する

メイオールを「王室写真家」とだけ呼ぶと、初期写真の技術実験と商業化が切り離されてしまう。1846年にはクローデの助手として働いた痕跡があり、月の多重露光を収めたダゲレオタイプのケースにはメイオールのスタジオ住所が残る。*14 彼は科学・光学の実験に近い環境から出発しながら、その精度を大衆的な肖像市場へ転用した。National Portrait Galleryが510点の肖像との関係を記録する規模は、作者性とスタジオ生産が同時に存在したことを示す。*3

王室メディアとセレブリティ文化

王室写真の大量販売は、写真家一人の「発明」ではない。ヴィクトリア女王とアルバート公自身が写真を熱心に収集し、公開範囲を選択したことが前提にある。*16 そのうえでメイオールは、身体、衣服、家具を小さなカード内で読み取りやすく配置し、同じ写真を多数販売しやすい簡潔な肖像構成を用いた。National Portrait Gallery Australiaが紹介するヴィクトリア女王編纂のポートフォリオは、メイオールを含む複数写真家のカードが同じ冊子へ収められた実物例である。*21 宮廷へ行けない鑑賞者も同じ規格の王室肖像を購入し、自分の家族写真や別の著名人と同じアルバムへ並べられた。権威の差は被写体の身分に残る一方、写真の寸法と保存方法は共通化された。

王室肖像と名刺判写真から見た写真史上の位置

メイオールの歴史的位置は、ダゲレオタイプから紙写真へ技術的に移行したことだけでは説明できない。彼のスタジオでは、一点物の銀板肖像、人物を演出する撮影、ネガからの複製、名刺判写真の販売、家庭アルバムへの収集、印刷物への転載が同じ商業活動の中で連続していた。ハーシェル像のような一点物と《Royal Album》の大量販売を比較すると、19世紀半ばの肖像写真が、撮影者と被写体だけの記念物から、複製されて市場を流通する商品へ拡大した過程を一人の写真家の経歴から確認できる。*18

購入者がアルバムで王室像を編集する

《Royal Album》は、販売された後も購入者のアルバムの中で使われ続けた。National Portrait Galleryは、1860年の《Royal Album》によってヴィクトリア女王の写真が初めて一般に購入できる形になったと説明している。*23 Royal Collectionには、女王とアルバート公がメイオール、カミーユ・シルヴィらの名刺判写真54点を自らまとめた折本型ポートフォリオが残り、王室自身もカードを交換・収集・配列していたことが分かる。*24 V&Aは名刺判写真を、安価に複製でき、1860年代のアルバム制作や切り貼りにも広く使われた媒体として位置づけている。*25 同じ規格のカードだったため、購入者は王族、著名人、家族の写真を一冊の中で並べ替え、自分で順序を作ることができた。王室肖像の大量販売と同時に、肖像写真を所有者が収集し、比較し、並べ替える使い方が広がった。

§ REL 関連する写真家・運動
Photographers
  • アントワーヌ・クローデ ― ロンドンのダゲレオタイプ技術とスタジオ実験を考える比較対象。1846年にはメイオールがクローデの助手として働いた記録も残る。
  • アンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディズデリ ― 名刺判写真を商業的に拡大した同時代の肖像写真家。ディズデリの多面撮影方式とメイオールの王室写真を比較すると、同じ小型カードが一般客の肖像にも著名人の販売写真にも使われたことを確認できる。
  • ヴィクトリア女王、アルバート公 ― 写真を収集し、家族肖像の公開にも関与した被写体・パトロン。写真家側の技術だけでは説明できない王室メディア戦略の中心にいた。
§ REF さらに読む
§ SRC 出典

出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)

本文執筆 — AI

構成・編集 — 写真の座標 管理人

資料の収集と本文の執筆はAIが行い、構成と編集は管理人が行っています。事実関係は管理人がAIを用いて最終チェックしていますが、誤りが残っている可能性があります。正確さが必要な場合は、各ページ §SRC の一次資料をご確認ください。