ピーター・ヘンリー・エマーソン
ヘルムホルツの視覚生理学に基づき「自然主義写真論」(1889)を提唱。合成・操作を排した自然記録の倫理を主張し、後のストレート写真への伏線となった。
写真を絵画と同等の芸術と定義しようとする国際運動の最盛期。スティーグリッツの「写真分離派」とギャラリー291が写真と前衛美術を結びつけた。一方でアジェのパリ記録・ハインの社会改革写真が「ドキュメント」の系譜を深めた。
日清戦争・米西戦争・日露戦争と列強の衝突が続く中、写真は芸術・記録・報道の三方向に分化した。スティーグリッツは1902年「写真分離派」を結成し、1903年「カメラ・ワーク」創刊。1905年のギャラリー291はマティスやピカソらの前衛をアメリカで初紹介した。
この時代は写真が「芸術か記録か」という問いを最初に全面的に問い直した時代だ。スティーグリッツのピクトリアリズムとエマーソンの自然主義は対立しつつも、ともに写真を単なる機械的複写以上のものと位置づけようとした。ハインはそれとは全く異なる方向——写真を社会変革の証拠として——を示した。
日清戦争(1894-95)・日露戦争(1904-05)・ボーア戦争で列強が衝突。日本の勝利が白人列強不敗神話を崩した。
ピクトリアリズムがソフトフォーカス・ゴム重クロム酸塩・プラチナプリントで写真の芸術性を主張。リンクト・リング(1892年)など国際組織が形成された。
1895年リュミエール兄弟が映画を公開。オートクローム(1904年特許)が世界初の実用的カラー写真として登場。
亀井茲明が日清戦争写真を組織化。鳥居龍蔵が人類学的フィールドワークに写真を用い、写真の社会的・学術的用途が広がった。
ヘルムホルツの視覚生理学に基づき「自然主義写真論」(1889)を提唱。合成・操作を排した自然記録の倫理を主張し、後のストレート写真への伏線となった。
写真分離派・ギャラリー291・「カメラ・ワーク」で写真を絵画と並ぶ芸術として美術館に送り込んだアメリカ近代写真の中核。「エクイヴァレンツ」で抽象写真の理論的基盤を築いた。
「人物写真とは伝記であれ」を信念とし、商業写真スタジオの技術競争に抗して肖像写真を魂の記録へ高めたピクトリアリズムの代表的作家。
ピクトリアリズムから写真分離派・ファッション写真・戦争記録まで横断し、後にMoMAの「人間家族」展(1955年)を手がけた写真の制度的整備者。
「自然はそのままでは芸術的でない。芸術家の介入が不可欠」と主張し、オイルプリント・ゴム重クロム酸塩で絵画的効果を追求したピクトリアリズムの理論家。
40歳でカメラを手にし、消えゆくパリの街路・中庭・ショーウィンドウを組織的に記録。マン・レイに発見され、シュルレアリストに影響を与えた「ドキュメントの詩人」。
社会学者として写真を社会変革の証拠に体系的に用いた先駆者。移民の記録・児童労働の告発写真が立法に影響を与えた。
7歳から撮り続けたスナップショットで、初期飛行機・自動車・スキー・家族の遊びを捉えた。私写真の先駆的存在として20世紀後半に再評価された。
人類学者として北海道・台湾・朝鮮・満洲にわたるフィールドワークに写真を体系的に活用した。写真と帝国的知の関係を考える上で重要な人物。
公家・伯爵として日清戦争写真事業を組織化。日本の戦争写真・報道写真の制度的出発点を作った人物として写真史に名を残す。
鹿島清兵衛は「写真大尽」と呼ばれた明治の写真パトロンで、銀座に玄鹿館スタジオを構え、国産乾板製造会社の設立、日本写真会の組織化、X線写真の公開実演などを通じて、明治写真界の制度的基盤を作った人物。富士山写真24枚を明治天皇に献上したことでも知られる。
エドワード・ウェストンは、初期のピクトリアリズム的肖像から離れ、鉄工所、身体、貝殻、野菜、砂丘、岩を、大判カメラと接写、精密な階調によって「形態」として見直したアメリカの写真家。メキシコ経験と西海岸のモダニズムを経て、ストレート写真とGroup f/64の中心的存在となり、写真が対象の再現ではなく…
ポール・ジェニオーはブルターニュ出身のフランス人写真家で、1900年前後のパリの街頭職人・小商人・行商人を記録した。兄シャルルと「ジェニオー兄弟」として活動し、ブルターニュの伝統的な生活と都市パリの日常を撮り続けた。
このサイトでは「ルイ・ヴェール(louis-vaire)」として登録されているが、資料上は Louis Vert(ルイ・ヴェール、1865–1924)として確認される。パリの街頭職業人を1900年から1906年にかけて記録し、ミュゼ・カルナヴァレに作品が所蔵される。
屋須弘平は幕末に生まれ、グアテマラで「フォトグラフィア・ハポネサ(日本写真)」スタジオを開いた日本人写真家。フアン・ホセ・デ・ヘスス・ヤスの名でカトリックに改宗し、アンティグアの宗教行列や上流市民の肖像を記録した。
ジェームズ・ブッカー・ブレイクモア・ウェリントンは1858年バース近郊ランズダウン生まれ。1880〜90年代にピクトリアル写真を制作し、1892年にはLinked Ringへ参加した一方、1890年代以降はWellington & Wardで乾板、フィルム、印画紙の製造を担った。《Eventide》などの合成と柔らかな階調を、作品の「作風」だけでなく、それを可能にした乳剤、紙、複製法、写真材料産業まで含めて考えられる写真家・技術者である。
1854年イングランド東部ローストフトの船大工の家庭に生まれ、官吏として働きながら1885年頃に写真を始めた。ピーター・ヘンリー・エマーソンの自然主義写真を学んだ後、1890年の《The Onion Field》ではピンホールによって細部を大きく抑え、写真の鮮明さをめぐる論争の中心に立った。1892年にはLinked Ringの創設に参加し、のちにKodak英国法人の経営者、キリスト教社会主義や社会改革運動の支援者となる。画面のぼけに加え、階級上昇、写真産業、展示制度、政治思想が交差する位置からピクトリアリズムを考えるうえで重要な写真家である。
1863年ロンドン生まれ。少年期から風景を素描し、前景の草木や地形を素早く記録する手段としてカメラを使い始めたアルフレッド・ホースリー・ヒントンは、ピーター・ヘンリー・エマーソンの自然主義写真から刺激を受けつつ、霧、雲、川岸、田園を大きな明暗と階調で構成した。Linked Ringの活動、『The Amateur Photographer』編集、技法書、展覧会評を通じて、急増するアマチュア写真家に美術写真の制作法と評価基準を伝えた。
1864年スコットランドのハミルトン生まれ。化学と自然哲学を学んだ後、写真家トーマス・アナンの家業で撮影と印刷に入り、1883年にウィーンでフォトグラヴュール技法を習得した。Linked Ringや『Camera Work』を通じて国際的なピクトリアリズムに参加し、自作の旅・肖像写真とヒル&アダムソンの1840年代のネガを同じ版画技術で再制作した。撮影、印刷、複製、展覧会、写真史の形成を連続した仕事として扱った点に特色がある。
1838年バーミンガム近郊アストン生まれ。ガラス製造と製紙業で財を築き、地方政治家、国会議員として活動する一方、古物・地誌資料の収集から写真へ入り、英国各地の建築、祭礼、職業習慣、国会を大量の写真と詳細なキャプションで記録した。1897年にはNational Photographic Record Associationを主導し、撮影、分類、保存、公共アーカイブへの収蔵を一つの計画として整えた。写真を将来の歴史資料として制度化した人物であり、その制度がどの「英国」を保存対象に選んだかも現在の重要な批評点である。
1864年フランス北東部エルブヴィル生まれ。少年期に英国へ移り、シアノタイプを試した後、木版職人として働きながら写真を趣味として続けたポール・マーティンは、1892年頃から包みのように偽装した小型乾板カメラでロンドンの市場、売り子、労働者、子どもを撮影した。昼は人々が撮影を意識する前の身振りを短い露光で捉え、夜はガス灯と濡れた路面を長時間露光した。《The Magazine Seller》《Trafalgar Square on a Very Wet Night》を通して、都市写真の時間と撮影者の存在感を変えた方法を検討する。
1846年ヨーク生まれ。眼科医として診療しながら山岳・氷河観察を続け、やがて火山学へ進んだテンペスト・アンダーソンは、乾板、パノラマ、幻灯を使って噴火と地形変化を記録した。1902年のスフリエール山・プレー山調査と『Volcanic Studies in Many Lands』を軸に、写真を現地観察、学会報告、公共講演へ連続させた科学写真の方法をたどる。
1871年、オハイオ州ウェスト・カーライル生まれのクラレンス・H・ホワイトは、簿記係を続けながら独学で写真を始め、妻や子ども、友人を自宅の窓辺や庭、早朝の光の中に配した作品で評価された。Photo-Secessionで活動した後、Arthur Wesley Dowのデザイン理論を写真教育へ取り込み、Clarence H. White Schoolから広告、ファッション、ドキュメンタリー、モダニズムへ進む世代を育てた。
1868年、パリ生まれのアドルフ・ド・メイヤーは、家族や親しい友人のスナップから写真に入り、Linked Ring、Photo-Secessionを経て、ニジンスキーの《L’Après-midi d’un faune》、社交界肖像、静物、『Vogue』『Vanity Fair』『Harper’s Bazaar』のファッション写真へ進んだ。日本旅行で深めた平面構成と逆光、反射する布や宝飾の階調を誌面にも用い、美術写真と近代ファッション写真が接続する過程を考えるうえで重要な写真家である。
1861年、ウェスト・ヨークシャーのキーグリーに生まれたアレグザンダー・キーグリーは、毛織物業の経営に携わりながら写真を続け、初期の演出人物写真から森、雪、農村、古建築、海外旅行の風景へ主題を広げた。撮影したネガを段階的に拡大し、その途中で細部を修整して炭素印画へ仕上げる方法と、Linked RingやYorkshire Photographic Unionを介した展覧会活動を通じ、地方のアマチュア制作を国際的な美術写真へ結びつけた。
1864年、ウェストヴァージニア州グラフトン生まれのフランシス・ベンジャミン・ジョンストンは、パリで美術を学んだ後、ワシントンD.C.で独立写真家となり、政治家肖像、雑誌報道、自画像、《Hampton Album》、庭園、南部建築調査まで仕事を広げた。依頼主や展示目的に応じて一枚の肖像、連続写真、索引付きアーカイブを使い分け、女性が写真を専門職として担う可能性と、記録写真が制度の価値観を帯びる問題を同時に残した。
1865年、ニューヨーク生まれのフランク・ユージーンは、ミュンヘンで絵画を学び、肖像画制作の補助として使い始めた写真を、やがて独立した作品媒体へ変えていった。ネガの乳剤を針で削り、筆や鉛筆で描き直した像をフォトグラヴュールとして複製し、Photo-Secessionと『Camera Work』で発表した。後年はミュンヘン、ライプツィヒで写真教育にも携わり、写真、絵画、版画、教育をまたぐ制作を続けた。
1864年、マサチューセッツ州ノーウッド生まれのF・ホランド・デイは、出版社Copeland and Dayで書物の紙、活字、挿絵、装丁に関わった後、写真で男性裸体、黒人青年、文学者、宗教的セルフポートレートを制作した。《The Seven Words》の連作、プラチナ印画、1900年ロンドン展を通じ、撮影だけでなく身体の演出、印画、配列、展示までを一つの制作として扱った。
1868年、アメリカのウィスコンシン州ホワイトウォーター近郊に生まれたエドワード・カーティスは、北米各地の先住民を撮影し、写真、文章、語彙、録音を1907〜30年刊の全20巻『The North American Indian』へまとめた写真家である。プラチナ印画、フォトグラヴュール、衣装や場面の演出による統一された像は広く流通する一方、「消滅する民族」という植民地主義的な時間観を強化した。同化政策、資金、先住民協力者、映画、現在の共同体による再解釈まで追う。
1868年、イギリスのリヴァプールに生まれたJ・ダドリー・ジョンストンは、港湾都市やヴェネツィアをガム・ダイクロメート印画、オイル印画で制作したピクトリアリストである。1907年にLinked Ringへ参加し、1920年代以降はRPSの会長・名誉キュレーターとして歴史的写真を収集した。作品制作とコレクション形成を通じ、英国で芸術写真が制作・保存・研究される制度にどう関わったかをたどる。
1870年ロッテルダム生まれのリヒャルト・ポラックは、1910年代前半に17世紀オランダ絵画を思わせる室内を実際に組み、古い衣装の人物を演出して撮影した写真家である。《Photographs from Life in Old Dutch Costume》では、家具、衣装、モデル、北向きの光、プリントまでを一つの制作工程として統制した。
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
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