弁護士出身のフェントンは1853年に英国王立写真協会の設立に中心的役割を果たし、1855年のクリミア戦争で最初の大規模な従軍写真プロジェクトを遂行した。「死体を撮るな」という出版業者の指示のもとで作られた約360点は、戦争写真と宣伝の関係を問う議論の起点であり続けている。
フェントンのクリミア戦争写真は、写真が戦場に組織的に持ち込まれた最初の大規模な事例として記録されている。「死体を撮るな」という出版業者の指示のもとで制作されたその作品群は、写真が何を映すかではなく何を映さないかによって意味が決まるという問題を写真史に持ち込んだ。1853年の英国王立写真協会の設立への関与とあわせ、フェントンは写真の制度的・商業的・政治的利用が交差する1850年代英国の状況を体現する存在として評価されている。
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ロジャー・フェントンは1819年にランカシャーで生まれた。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで法律を学んだ後、1843〜44年頃にパリでポール・ドラローシュのもとで絵画を修業した。1851年のロンドン万博を契機に写真へ本格的に取り組み、英国の写真家を組織する中核人物の一人となった。1853年には英国王立写真協会(ロイヤル・フォトグラフィック・ソサエティ)の設立に中心的役割を果たした。*1
1854年のクリミア戦争で従軍記者ウィリアム・ハワード・ラッセル(タイムズ紙)が英国軍の失態を連報したことで、戦争は国内で深刻に不人気となった。マンチェスターの出版業者トーマス・アグニュー商会はプリンス・アルバートを通じて政府の協力を取り付け、「否定的な世論を和らげる写真」を撮るためフェントンを現地に派遣した。アグニューは「死体・残虐な場面は撮影しないこと」を明示的に要請した。*2
フェントンは1855年3月から6月にかけてクリミア半島に滞在し、専用の暗室馬車「フォトグラフィック・ヴァン」を持ち込んで、ガラス湿板コロジオン法で約360点のアルブミン・プリント原版を制作した。帰国後に展示・販売されたこれらの写真は、初めて戦場の現実を英国市民に視覚的に伝えたが、死傷者・戦闘の場面はほぼ存在しなかった。*3
フェントンは1862年に突然写真活動をすべて終え、機材一式を売却して法律の仕事に戻った。退去の理由は今日も明確ではない。1869年に没した。*4
フェントンの約360点のクリミア写真は、軍人の肖像・キャンプの日常・戦場の地形という三つのカテゴリーに集中している。この構成は「否定的な世論を和らげる」という委嘱の意図と直結しており、写真が何を映すかではなく何を映さないかによって意味が決まるという問題を先取りしている。*5
最も広く知られる作品「死の影の谷」(The Valley of the Shadow of Death, 1855年)は、砲弾が散乱する荒涼たる丘の道を写したものである。ジャーナリストで映画監督のエロール・モリスは2007〜08年の詳細な調査において、同じ場所を撮影した二枚の写真を比較分析し、砲弾が道の上と道の脇という異なる位置に配置されていることを示した。どちらが先に撮影されたかをめぐる議論は決着していないが、この分析は写真の「真実性」という概念をめぐる最重要の事例の一つとして今日も参照されている。*6
フェントンの写真はアルブミン・プリントで制作されており、ガラス湿板ネガから複数の焼き付けが可能だった。この技術は、ダゲレオタイプの一点性から複製可能な写真印刷への移行期を示す重要な証拠でもある。*7
フェントンのクリミア写真は、当時の英国社会において「戦争写真の起源」として即座に認識されたわけではなかった。写真展示と写真集の販売が続いたものの、当初の社会的インパクトは限定的だった。彼の重要性が写真史的に確立されるのは20世紀に入ってからであり、特に戦争写真の倫理と宣伝の問題が論じられるようになったことと連動している。*8
現在、フェントンのクリミア写真約263点は米国議会図書館(ライブラリー・オブ・コングレス)の「フェントン・クリミア戦争写真コレクション」として公開されており、高解像度でデジタル閲覧が可能である。これはフェントン研究の最も包括的な公開アーカイブとなっている。*9
メトロポリタン美術館はフェントンを「写真の新しい使用法——報道と旅行写真——の開拓者」として位置づけており*10、MoMAも彼のコレクションを保有している。*11 弁護士・画家修業者・写真協会設立者・従軍写真家という経歴は、写真の制度的・商業的・政治的発展が複雑に絡み合った1850年代英国の文化状況を象徴している。
- ギュスターヴ・ル・グレー ― パリでドラローシュのアトリエを共に学んだ同門で、1850年代に技術的革新を競った同時代人。
- マシュー・ブレイディ ― 同時代に南北戦争を記録し、戦争写真の文脈で並行して語られる写真家。
- アレクサンダー・ガードナー ― 南北戦争で死傷者を直接撮影した写真家で、フェントンが撮らなかった「死の現場」の記録という対比において参照される。
- ティモシー・オサリバン ― 南北戦争・西部開拓期を記録し、フェントンとともに19世紀の大規模な従軍・遠征写真の系譜を形成する。
- ドキュメンタリー ― フェントンのクリミア写真は、写真が戦場という現実を記録・伝達する手段として機能した最初の組織的な事例として位置づけられる。
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本文執筆 — AI
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