1850年代にコンスタンティノープルを拠点とし、オスマン帝国造幣局の彫版師から写真家へ進んだジェームズ・ロバートソン。1853–54年のアテネ古代遺跡、イスタンブール、1855–56年、クリミア戦争末期から講和前後のセヴァストポリを撮影し、フェリーチェ・ベアトとの共同名義でも活動した。砲台、港、城壁、廃墟を広い画面で追う写真から、初期戦争写真が戦闘の瞬間より「戦争が地形と都市へ残したもの」をどう記録したかを考える。
クリミアでロバートソンとベアトが撮影したのは、砲撃が起きる瞬間より、占領後の要塞、港、道路、崩れた建築だった。湿板写真の露光時間と現像作業、さらに二人が現地へ入った時期を考えると、撮影可能だった中心的な対象は戦闘中の動作より、戦闘後に残った要塞、港、道路、廃墟だった。共同制作に参加したフェリーチェ・ベアトは、その後インド、中国、日本で戦争と軍事占領を撮影する。クリミアでのRobertson & Beatoは、ロジャー・フェントンの撮影後と、ベアトがアジアで単独活動を始める前を具体的な共同制作でつなぐ。
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帝国造幣局の彫版師としてコンスタンティノープルへ
ロバートソンは1840年代初頭からコンスタンティノープルのオスマン帝国造幣局で彫版師として働き、貨幣やメダルの図像を扱う職人として長く当地に定住した。British Museumは彼を写真家、画家、彫版師として登録し、オスマン帝国と地中海世界を横断した活動を記録している*1。Benaki Museumは、スルタン・アブデュルメジドの時代に帝国造幣局の主任彫版師となり、1850年代初頭にはペラで写真館を開いたと説明する*2。金属面へ図像を反復する彫版から、ガラス原板を介して建築や都市を複製する写真へ進んだ経歴は、彼の制作を「英国から戦地へ派遣された写真家」という一時的な遠征の物語から切り離す。
1853–54年アテネ撮影――戦争以前の仕事
Benaki Museumの展覧会は、ロバートソンがアクロポリスと古代遺跡を含む38点を制作し、19世紀半ばのアテネの状態と初期写真の構成力を同時に伝えたとする*3。同館の19世紀写真コレクションにも44点の古代建築写真が残り、彼の活動がクリミアだけで始まったわけではないことを確認できる*4。MoMA所蔵の《La tour des Vents》《Temple of Athena Nike》も、遺跡を孤立したモニュメントとして切り抜くより、地面、空、周囲の建築と一緒に捉える視点を示す*5。
古代遺跡を、地形と現在の都市の中へ置く
『Athens and Grecian Antiquities』では古代建築の正面図だけを作らず、周囲の斜面、街路、人物、現代のアテネを同じ画面へ入れた。Benaki Museumの図録は、当時の標準的な遺跡巡回ルートをたどりながら、人間の存在と都市の背景が古代遺跡を現在の場所として見せていると説明する*17。この方法は、後のクリミアで砲台や城壁を広い地形の中へ置く画面にもつながるが、直接の因果は断定せず、同じ写真家が「対象の周囲をどこまで含めるか」を繰り返し考えていた事実として読むべきである。
セヴァストポリ――戦闘後の要塞と港を写す
National Gallery of Artの《Panorama of Sebastopol No. 1》では、都市、港、丘陵、軍事施設が遠景まで連続し、個々の兵士より攻囲戦が変えた都市の配置が主題になる*10。Gettyの《Interior of the Flagstaff Battery》では逆に砲台内部へ近づき、破損した壁、砲、土嚢を戦闘の痕跡として記録する*14。医学史・技術史の研究は、初期の戦争写真家が長い露光と現地現像の制約から戦闘中の動作をほとんど写せず、陣地、兵器、人物、戦後の場所へ被写体を向けたことを整理している*24。ロバートソンの写真はその制約を隠さず、戦争を地形の変化として見せる。
『Vues Photographiques prises en Crimée』――戦争を一冊で読む
NGA所蔵の『Vues Photographiques prises en Crimée』は35点の塩化銀紙写真を綴じたアルバムで、表紙にはロバートソンの名が記される一方、現在はフェリーチェ・ベアトも共同作者として登録されている*12。National Galleries of Scotlandの『Views in the Crimea, Turkey Etc.』も、戦場とオスマン圏の都市を一冊の旅行・戦争記録へ接続している*18。一枚の砲台写真だけでは見えにくい港、道路、丘陵、要塞の関係が、複数ページを往復することで地理的なまとまりとして理解できる。
Robertson & Beato――共同制作と作者帰属
SFMOMAはJames Robertson and Felice Beatoを個人作家とは別の共同名義として登録し、作品の帰属を工房・パートナーシップの単位でも扱っている*9。Harry Ransom CenterのRobertson & Beato Collectionにはエルサレム、イスタンブール、エジプトの66点が残り、共同制作がクリミアだけで終わらず地中海東部の旅行写真へ続いたことがわかる*15。The Metの《Dome of the Rock, Jerusalem》もロバートソンとベアトの共同作として登録され、宗教建築を道路や周囲の壁とともに捉えている*22。同じ原板や販売物に複数の名義が残るため、作品帰属には撮影現場の役割分担と、後年の販売・所蔵記録を分けて確認する必要がある。
《Panorama of Sebastopol》――都市を戦争の尺度にする
NGAのセヴァストポリ・パノラマでは、視線が一つの砲弾跡へ集中せず、湾岸と丘、街区、軍事拠点の広がりを一度に追う*10。人物が写る場合も英雄の肖像として大きく扱われず、要塞や道路のスケールを測る存在として置かれることが多い。NGAのオンライン作品群には74点が整理され、クリミア、エルサレム、コンスタンティノープルを横断して彼の広い活動を確認できる*8。National Gallery of Artの作家記録も、ロバートソンを戦争写真だけでなく、地中海・オスマン圏の建築写真を含む19世紀写真家として整理している*19。
商業出版された戦争写真
Harry Ransom CenterのJames Robertson Photography Collectionは、写真が戦地で作られた後、アルバムや単葉として販売・収集された経路を追える資料を含む*11。SFMOMAの作家ページやGettyの作家記録も、ロバートソンをオスマン圏の建築・旅行写真と戦争写真の両方で扱っている*7。戦場の「報道」だけを目的にした写真家というより、古代遺跡、都市、宗教建築、戦争跡を同じ商業ネットワークから送り出した写真家として見る方が実態に近い。
クリミアからエルサレムへ続く共同制作
Gettyの「Felice Beato: A Photographer on the Eastern Road」は、ベアトがコンスタンティノープルでロバートソンと共同し、彼からアルブメン・ガラスネガの技術を学び、1856年にはクリミア戦争の終盤撮影を助手として経験したと整理している*16。National Galleries of Scotlandのロバートソン作品群にもトルコ、クリミア、地中海の写真が残り、撮影旅行と販売の範囲が国境を越えていたことを示す*20。
ロジャー・フェントン撤退後――占領後のセヴァストポリ
クリミア戦争写真ではロジャー・フェントンがよく知られる。The Metのフェントン作品は、港や補給地を含む戦地の写真が主要な戦闘中に作られたことを示す*13。ロバートソンとベアトはフェントン撤退後にもクリミアで撮影し、セヴァストポリ陥落後の破壊された要塞を複数方向から記録した*21。ここには撮影時期の違いがそのまま画面の違いとして現れる。フェントンの陣地・将校・補給線と、ロバートソンたちの占領後の砲台・廃墟では、撮影時期の違いが被写体の違いとして現れている。
ベアトの戦争写真家としての形成に直結した経験
ルーク・ガートランの研究は、フランス人画家ジャン=シャルル・ラングロワの書簡をもとにクリミア作品の作者帰属を再検討し、ベアトがロバートソンの助手として撮影へ実質的に参加していたこと、そしてこの経験が後の戦争写真家としての訓練に形成的な影響を持ったことを論じている*21。Gettyも、ロバートソンから学んだ技術とクリミアでの共同経験を、ベアトがその後インド、中国、日本へ進む初期経歴の重要な段階として位置づける*16。The Metのベアトによる1860年の《After the Capture of the Taku Forts》は、クリミア後に彼が単独で中国の戦場へ進み、死者と破壊を正面から記録したことを示す*23。ベアトへの継承は一般的な類似ではなく、ロバートソンの助手・共同制作者としてクリミアで撮影した経歴によって確認できる。
作者帰属の再検討がロバートソン像を変えている
Gettyはロバートソンを単独作家として、SFMOMAやHRCは共同名義を含む複数の単位で整理している*6。近年の研究が一部クリミア作品をベアトへ再帰属するのは、ロバートソンの価値を減らすためではない。むしろ工房の中で誰が撮影し、誰の名で売られ、どの旅行へ誰が同行したかを解きほぐすことで、19世紀写真が個人の署名だけでは動いていなかったことを明らかにする。ロバートソンの位置は、戦争写真の「最初」を競う順位表より、オスマン帝国の職能、商業写真館、共同制作、戦地と遺跡の移動経路が交差した場所として捉える方が具体的である。
コンスタンティノープルを、連結された都市として見る
ロバートソンは単独のモスクや遺跡だけでなく、コンスタンティノープルそのものを複数の写真で接続して見せた。オルセー美術館所蔵の1855年頃のパノラマは、セラスキエラート塔から撮った5枚のガラス湿板ネガをもとに、5枚の塩紙プリントを横につなぎ、水彩で補彩した全長143センチの作品である*25。Canadian Centre for Architectureにも、Robertson & Beato名義で1857年に制作された、5枚の塩紙プリントを約148センチに接続した同地点のパノラマが残る*26。一つのフレームに収まらない都市を横方向へ継ぎ足すことで、モスク、屋根、港、水面、遠景が個別の名所ではなく、相互の位置を持つ広い空間として提示された。後のセヴァストポリでも広い地形と軍事施設をパノラマ的に扱ったことを考えると、ロバートソンの戦争写真には、戦場へ赴く以前からコンスタンティノープルで培っていた「都市全体を配置として記録する」方法との連続が見える。
古都だけでなく、建設中のオスマン首都を写す
ロバートソンのコンスタンティノープル写真は、ビザンティンやオスマンの歴史的建造物だけを集めたものでもない。Museum With No Frontiersが公開する1853年の《Dolmabahçe Palace Portal Under Construction》には、同時代に建設中だったドルマバフチェ宮殿の門が写されている*27。歴史的モスクや塔を撮る一方で、帝国の新しい宮殿が出来上がる途中にもカメラを向けていた事実は、彼のイスタンブール像を「古い東方世界」の記録だけに限定できないことを示す。ロバートソンが撮った都市には、遺跡として残る過去、現役の宗教建築、港湾、そして新築中の国家建築が同居していた。クリミア戦争の破壊された都市と合わせて見ると、彼の写真は地中海・オスマン圏を静止した名所集として扱うより、建設と破壊の双方が進む19世紀半ばの都市環境として読む方が実態に近い。
- フェリーチェ・ベアト ― ロバートソンの義弟・共同制作者。共同名義作品の帰属を考える上で不可欠。
- ロジャー・フェントン ― クリミア戦争を先に撮影し、ロバートソンが到着する頃に現地を離れた比較対象。
- アントニオ・ベアト ― 地中海・中東の共同制作や工房ネットワークに関わる写真家。
オスマン帝国内でのロバートソンの活動をまとめた研究。
帝国造幣局の彫版師と写真家という二つの職能を含め、コンスタンティノープル時代の経歴と作品帰属を検討する基礎研究。
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
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