マーティン・ラローシュは、本名William Henry Silvesterで、1840年代末から1860年代にロンドンを中心に活動した職業写真家。ダゲレオタイプ肖像館を営み、1854年のTalbot v. Laroche裁判で湿板コロジオン使用をめぐってタルボットと争った。チャールズ・キーンの《Richard II》《King Lear》などの舞台を再構成した写真も残り、初期写真を発明史だけでなく、営業写真館、特許、複製可能な俳優像の市場から考えるための人物である。
ラローシュの写真史上の位置は、特定の作風より二つの職業実務から明確になる。第一に、無特許で公表された湿板コロジオンを職業写真家が使えるかを法廷で争い、1854年の陪審が「コロジオン使用はタルボットのカロタイプ特許を侵害しない」と判断した当事者だった。この評決で、タルボットが職業肖像にまで湿板のライセンス料を求める根拠は大きく後退した。ただし、カロタイプ特許は1852年以後すでに職業肖像へ適用範囲が狭められており、この一件が英国写真全体を一挙に「自由化した」とみなすのは正確ではない。第二に、チャールズ・キーン一座の写真では、上演中の動きを長時間露光で止められない条件に対し、俳優に劇中場面をカメラの前で再演させた。特許、営業写真館、舞台再演を一緒に見ることで、写真が1850年代に職業文化として広がる条件を具体的に追える。
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1840年代末の職業写真館と、特許で管理された技術
ラローシュはWilliam Henry Silvesterとして1814年にLambethで生まれ、宝飾業を経て1848年頃までにOxford Streetでダゲレオタイプ肖像館を開いた。Bromley House Libraryの調査は、Great Exhibition of 1851への出品や、自然色を強調した写真ミニアチュールの広告を追っている。彼にとって写真はまず、顧客へ肖像を提供する都市のサービス業だった*15。
タルボットのカロタイプ特許は、ネガから複数のポジを作れる写真法を私的権利として管理した。1852年以後アマチュアには無償化されたが、職業肖像家には許諾料が残った。ラローシュのような営業写真館では、どの化学工程が特許の範囲に入るかが、日々の営業費用と新技術採用を左右した*5。
Talbot v. Laroche――湿板コロジオンは特許侵害か
フレデリック・スコット・アーチャーの湿板コロジオン法は1851年に公表され、高精細なガラスネガと短い露光を可能にしたが、アーチャー自身は特許を取らなかった。タルボットはこの新方式も自分の特許に含まれると考え、ラローシュの使用を侵害として訴えた。R. Derek Woodの裁判史は、ラローシュ側が42項目の異議を準備し、技法の相違と先行技術を争ったことを詳細に記録する*2。 Woodが公開する注記・典拠一覧には裁判報道、特許記録、同時代資料の所在がまとめられており、この訴訟の経過を後世の要約だけでなく一次資料へ遡って確認できる*3。
1854年12月の陪審は、タルボットをカロタイプの「first and true inventor」と認めた一方、ラローシュが使った湿板コロジオンはその特許を侵害していないと判断した*2。したがって、この裁判を「タルボットの特許そのものが無効になった」と説明するのは正確ではない。実務上の意味は、アーチャーが無特許で公表した新方式を、職業写真家がタルボットへライセンス料を払わず採用できることが明確になった点にある。裁判後、タルボットは上訴せず特許延長も実現しなかったため、湿板コロジオンをめぐる大きな法的不確実性は後退した*5。 同じ1854年前後にはタルボットの特許をめぐる別の争いも続いており、HerschelとTalbot v. Hendersonを扱う研究は、湿板登場後の写真界で旧特許の適用範囲そのものが広く争点になっていたことを示す*6。
この争いを「自由な写真家対、技術を独占するタルボット」という図式だけで説明すると、当時の利害関係を落としてしまう。1854年6月、タルボットはNevil Story-Maskelyneへの書簡で、特許を守る理由を、自分に使用料を払って営業している写真家を保護するためだと説明している*21。タルボット側には既存の許諾制度を守る論理があり、ラローシュ側には、アーチャーが無特許で公開した別方式まで旧特許に従属させられると新技術の採用が難しくなる事情があった。裁判の争点は、写真技術のどの部分を誰が所有できるのかという境界にあった。
British LibraryのTalbot法務資料群には、カロタイプの特許、職業・アマチュア写真家へのライセンス、契約、訴訟関係書類がまとまって残る*22。この資料群から、写真の普及が感光材料の改良に加え、誰が使用許可を得られるか、料金を払うか、裁判費用を負担できるかという制度にも左右されていたことが分かる。ラローシュの裁判は、その制度問題が一人の営業写真家の実務にまで及んだ具体例である。
《Richard II》――上演を再演して写真にする
ラローシュの現存作で特に重要なのが、チャールズ・キーンのシェイクスピア上演を再構成した写真群である。長い露光と当時の感度では、舞台上で俳優が動く場面をそのまま撮ることは現実的ではなかった。そこで俳優は衣装と小道具を用い、特定の場面をカメラの前で静止した姿勢として再演した。Cambridge University Pressの研究は、この《Richard II》写真群を商業的な演出写真とヴィクトリア朝の歴史劇の両面から分析し、写真がキーンの歴史考証的な舞台づくりを後世へ伝える役割を担ったとする*17。写真は上演中の瞬間を写したものではなく、写真のために作り直された第二の上演だった。National Portrait Galleryが所蔵する《Charles John Kean; Ellen Terry as Leontes and Mamillius in The Winter’s Tale》は1856年4月26日の撮影で、同館は衣装を着けた俳優を上演開始前のリハーサル期に撮影した作品として記録している*24。
Royal Collectionの《Charles Kean as Richard II》では、王冠、毛皮、玉座、紋章が画面内に配置される。キーンの劇場は歴史的に正確な衣装・舞台装置で名高く、Eton Collegeの資料もその考証性を強調する。ラローシュの写真は俳優の顔だけでなく、この「歴史を再現した物質環境」を保存する役割を持つ。Eton Collegeの展覧会資料は、キーンの歴史考証的な舞台づくりと写真資料の関係を整理している*14。Royal Collectionの作品記録は、彩色された《Richard II》写真が王室コレクションへ入ったことを伝える*7。 Prince Albertのアルバムに残る《Richard II, Act I, Scene I》では、玉座に座るRichard IIが衣装と紋章を伴って正面から撮られ、劇中場面が撮影用の静止像へ変換されている*10。
NPGにはCharles Keanのcarte-de-visiteなどが残り、ラローシュの仕事が大判の舞台再現だけではなかったことがわかる。名優の肖像は、観客が所有できる小型のイメージとして流通した。写真館、劇場、著名人文化、王室収集が交差し、写真が「見た記憶」を商品へする市場が形成されていた*1。
裁判の歴史的意味は作品の見た目だけからは分からない。Bromley House Libraryの調査は、ラローシュが1848年頃からOxford Streetで営業し、1851年万国博覧会にも出品した職業写真家だったことを広告や同時代資料から確認する*15。R. Derek Woodの戸籍・新聞調査は、Martin Larocheがカナダ人写真家ではなくWilliam Henry Silvesterの営業名だったことを訂正している*4。NPGのWilliam Silvester Laroche記録からは息子も写真館を営んだことが確認でき、写真が店舗、営業名、家族経営を伴う職業として定着していく一例になる*16。
手彩色・アルバム・王室収集――舞台写真が劇場の外へ出る
手彩色された《Richard II》写真は、写真と手仕事が同じ商品に共存していたことも示す。Royal Collectionではラローシュ自身が写真家とcolouristの両方として記録され、俳優の顔と衣装の形を写真で固定した上に色を加えている*8。湿板の高精細さを求めて特許を争った職業写真家が、舞台写真では手彩色を組み合わせていたため、1850年代の写真商品を「無加工か、加工か」の二択で整理することはできない。
上演は終演すれば消えるが、写真なら俳優の顔、衣装、ポーズ、小道具を同じ表面に残し、劇場の外へ運べる。Eton Collegeの演劇写真資料にはラローシュによるCharles Kean、John Ryderらの複数作品がまとまって残り、役柄ごとのイメージ群が作られていたことが分かる*13。1858年の《King Lear》も、衣装と身振りを撮影用に固定した手彩色写真として残り、Prince AlbertからVictoria女王への贈答品になった*9。Royal CollectionではPrince Albertが《Richard II》の彩色写真一式もVictoria女王への贈り物として購入している*7。Prince Albertの写真アルバム目録にはラローシュの《Richard II》タブローが組み込まれ、個別プリントが王室の写真閲覧・収集の体系に入ったことを確認できる*18。舞台写真は劇そのものを複製する代用品ではなく、場面を選んで再演し、所有可能な像へ変える媒体として使われた。
後年の研究――特許史と舞台写真史を一人の仕事として読む
近年の研究は、ラローシュを1854年裁判の被告だけで終わらせず、その直後の舞台写真と結びつけている。Cambridge University Pressの研究は《Richard II》写真群を、商業的な演出写真であると同時に、キーンが重視した歴史考証的なShakespeare上演を写真で固定する実践として検討する*17。University of South Carolinaの舞台写真史も、これらを英国のtheatrical photographyの早い例とし、実際の舞台をそのまま撮ったのではなくスタジオで再構成した点を強調する*19。写真の「記録」は現場の瞬間と同一でなくても成立し、何を残すかを選び直すことで演劇史の資料になった。
後続への具体的な接続としては、ナポレオン・サロニーとの共同営業が確認できる。National Portrait Galleryは、サロニーが1864年に兄Oliverのもとで写真を学んだ後、翌年バーミンガムでR. W. ThruppとMartin Larocheの共同事業に加わり、1866年にニューヨークへ戻って俳優・女優の肖像で著名になった経歴を記している*23。Oxford Academicの研究はさらに、ラローシュとHoratio Sakerが多数の俳優・劇作家写真を切り貼りした資料を検討し、個々の肖像から演劇の「正典」そのものを視覚的に編成する実践へ視野を広げている*20。本人が芸術論を詳しく残した資料は乏しいため、写真を選んだ内面的な動機を推測で補うことは避けるべきである。資料から追えるのは、宝飾業から写真館へ移り、新技術を営業に使う権利を争い、劇場と著名俳優の像を商品化した職業上の選択である。
通常の肖像写真と舞台再演写真は、同じ営業写真館の市場に共存していた。NPGはLaroche/Silvester名義を肖像写真家として整理している*1。Royal Collectionの《Mrs Charles Kean and Mr Meadows》では、俳優二人が役柄と衣装を伴う一場面として撮られている*11。一方、NPGのCharles Kean所蔵群には通常の肖像や小型写真も残り、俳優像が舞台再現と著名人肖像の両方として流通したことが分かる*12。人物の顔を所有できる商品にする通常肖像と、消える上演を撮影用に作り直す舞台写真が、ラローシュの写真館では同じ職業実務の中にあった。
- ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット ― カロタイプ特許をめぐる原告。
- フレデリック・スコット・アーチャー ― 湿板コロジオン法を公表し、特許を取らなかった技術者。
- チャールズ・キーン ― ラローシュが舞台場面・衣装を撮影した俳優兼劇場経営者。
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
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