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PHOTOGRAPHERS/J. DUDLEY JOHNSTON ·ピクトリアリズム ·UPDATED 2026.09
JJ
§ 366 — Photographer Index — ピクトリアリズム

J・ダドリー・ジョンストン

J. Dudley Johnston 1868–1955
Countryイギリス Period1890–1910s Channel写真史の論点 · PICTORIALISM
Abstract

1868年、イギリスのリヴァプールに生まれたJ・ダドリー・ジョンストンは、港湾都市やヴェネツィアをガム・ダイクロメート印画、オイル印画で制作したピクトリアリストである。1907年にLinked Ring(写真を芸術として扱う英国の写真家グループ)へ参加し、1920年代以降はRPS(Royal Photographic Society/王立写真協会)の会長・名誉キュレーターとして歴史的写真を収集した。作品制作とコレクション形成を通じ、英国で芸術写真が制作・保存・研究される制度にどう関わったかをたどる。

この写真家が変えたこと

ジョンストンの実践では、ピクトリアルな作品制作と歴史的写真を保存する制度づくりが、同じ写真文化観の中で続いていた。Linked Ringでは、撮影後の印画操作まで写真家の判断として扱い、ガム・ダイクロメートやオイル印画が芸術写真の重要な手段になった *22。ジョンストン自身も《A Venetian Waterway》で階調と表面を仕上げ、展覧会に出すプリントを最終作品として扱った *7。1924年にRPSの名誉キュレーターとなると、技術機器中心だった収蔵へ19世紀写真とピクトリアル写真を加え、作者プリントを比較研究できる基盤を拡充した *16。写真を作る側と保存する側の双方に関わったことで、芸術写真を展覧会の一時的な運動から、後世が実物で検討できる歴史資料へつないだ。

Keywords ピクトリアリズム Linked Ring RPS ガム印画 写真史 コレクション
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目次 · Table of Contents
§ 01 / 04 背景と時代

Linked Ringと芸術写真

ジョンストンは1868年にリヴァプールで生まれ、商業と工業が急速に拡大した港湾都市を身近な環境として育った。20世紀初頭の英国写真界では、写真を機械的な複製から独立した芸術へ位置づけようとするピクトリアリズムが、サロン、写真協会、手作業の印画法を通じて広がっていた。Linked Ringは1892年、RPSの展覧会運営や芸術写真への姿勢に不満を持つ写真家たちが結成した分離派で、ヘンリー・ピーチ・ロビンソン、ジョージ・デイヴィソン、フレデリック・エヴァンスらを通じて国際的なピクトリアリズムと結びついた*22。ジョンストンは1907年に同グループへ選出され、その終末期に英国芸術写真の制度と人脈へ加わった。

彼の《Liverpool—an Impression》やヴェネツィア作品では、都市の細部を均等に説明せず、霧、水面、建築、船影を一つの調子へまとめる画面が選ばれた*2。これは産業都市や観光都市を社会調査として記録する方法とは異なり、光と大気をプリント上で再構成し、写真を「作者が仕上げる像」として提示するピクトリアリズムの価値観に属する。リヴァプールの後世の写真史研究でも、ジョンストンの初期作品は港湾都市を絵画的な調子へ翻訳した先行例として扱われている*23

Linked Ring内部でも、写真家の介入方法は一様ではなかった。メトロポリタン美術館の研究は、フレデリック・エヴァンスのようにプラチナ印画の精密さを重視する作家と、ロベール・ドマシーのようにガム印画の手作業を積極的に用いる作家が、方法をめぐって議論しながら「写真を美術として扱う」という目的を共有したことを示す*22。ドマシーのガム印画は顔料と刷毛仕事を写真像へ導入できたため、ジョンストンの手作業印画は、柔らかな見た目の効果に加え、どの段階で作者の判断を写真へ入れるかという国際的な論争に位置づけられる*11

ジョンストンがLinked Ringへ入った1907年は、ピクトリアリズムが新しい分離運動として始まった時期より後に当たる。Michael Pritchardによる英国ピクトリアリズム史は、1920年前後には分離派的な活動の多くが写真協会へ再吸収される一方、ストレート写真やモダニズムの新しい現実描写が台頭した経緯を整理している *26 。ジョンストンが長く担ったのは、手作業印画を重視する芸術写真の価値観を、作品制作だけで終わらせず、批評、協会運営、収集へつなぐ仕事だった。

RPSと収集制度

RPSは1853年にPhotographic Society of Londonとして設立され、技術、科学、展覧会、出版を横断して写真文化を支えた組織である*3。ジョンストンは1923–25年と1929–31年の二度会長を務め、1924年から1955年まで名誉キュレーターを担当した。Linked RingがRPSへの批判から生まれたことを考えると、そのメンバーだった人物が後年RPSの内部で歴史収集を担った経歴は、英国の芸術写真が周縁的な分離派から公的な保存対象へ変わっていく過程と重なる。

University of Brightonの研究は、ジョンストン就任以前のRPSコレクションが技術史資料を中心にしていたのに対し、彼の時期に写真プリントそのものの収集が積極化したことを指摘する *16。Apolloによる英国写真コレクション史も、1920年代にジョンストンが現役作家や初期写真家の遺族へ働きかけ、RPSの収集を本格化させた点を挙げている *25。V&Aに残るRPS資料には、ジョンストン自身の写真、アルバム、オートクローム、ガラス乾板に加え、彼が扱った歴史資料や組織文書も含まれる *6。写真家としての名声と制度的な権限が同じ人物に集まったことで、個人の美的判断がコレクション形成へ反映される条件も生まれた。

RPSの収集は協会内部だけで完結しなかった。Science Museum Groupの記録には、ジョンストンがScience Museum側の担当者とラコック・アビーを訪れ、タルボット関係資料をRPSと博物館へ分ける作業に関与した経緯が残る*13。彼のキュレーションには、作品収集に加えて、写真発明史の原資料をどの公的機関に保存するかを調整する仕事も含まれていた。現在V&Aに残るジョンストン関係箱にはプリント、ネガ、オートクローム、アルバム、文書が混在し、作家作品とキュレーターの仕事を同じアーカイブで検証できる*6

§ 02 / 04 表現の核心

手作業印画と都市風景

《A Venetian Waterway》では、橋、ゴンドラ、水面の反射が細部の競合を抑えた柔らかな階調へまとめられている*7。ガム・ダイクロメート印画は、顔料を混ぜた感光性のアラビアゴムを紙へ塗り、露光と水洗を重ねて像を作る方法で、層の重ね方や部分的な処理によって濃度、輪郭、色味へ作者が介入できる。オイル印画も感光ゼラチンへ油性インクを刷り込むため、撮影後のプリント制作が像の完成に大きく関わる*18。ジョンストンがこうした方法を選んだ理由は、レンズが記録した細部を整理し、光、霧、水、石造建築の関係を最終プリント上で統御するピクトリアルな写真観に適していたからである。

William Russell YoungのSt Andrews大学博士論文は、英米ピクトリアリズムにおけるソフトフォーカスを、「絵画風」の趣味という説明を超えて、レンズや印画技術が画面の様式を形成する問題として検討している*8。ジョンストンのガム、プラチナ、オイル印画もこの技術史の中に置くと、柔らかな階調は記録の精度を捨てた結果ではなく、撮影後の材料と工程を作者の造形判断へ組み込むピクトリアリズムの写真観として具体化する。

NGA所蔵作の裏面には1908年の展示歴や印画法に関する作者の記載が残り、プリントが展覧会へ出す物体として制作されていた事実を示す*7。この物質性は、後年ジョンストンが「どのプリントを収蔵するか」を重視した仕事とも接点を持つ。ただし制作技法がそのまま収集理念を生んだと断定する資料はないため、両者を同一原因で結ぶ根拠はない。写真を最終的な物質として扱った二つの実践として並べて考える方が妥当である。

NGAの作家記録では、ジョンストンの現存作は一点の代表写真だけでなく、都市、建築、風景を異なる印画法で扱った仕事として残っている*1。ガム印画やオイル印画で輪郭を弱める操作は、情報量の抑制は意図的な選択であり、霧、水面、光を同じ階調へ統合し、港湾設備や建築細部を後景へ置いて画面全体の調子を優先した。ピクトリアリズムが写真の機械性へ対抗した方法は、画面の何が残り何が弱くなるかという具体に現れている。

1930年、ジョンストンは『Nature』でF・C・ティルニーの『The Principles of Photographic Pictorialism』を論評し、カメラ操作の熟練に加えて、画面を構成する「pictorial」な判断の習得を重視した *24。この論評では、ピクトリアリズムの核心を柔らかな外観よりも、撮影から最終プリントまで画面構成に作者が責任を持つことに置いている。

同じ1930年、ジョンストンはネガ修整の技術書を論評し、過度な修整で人物を均質化する旧来の肖像慣行に批判的な立場を示した *28 。これはガム印画などの介入を無条件に肯定したということではない。撮影後の操作を、被写体の情報を消すための技巧と、画面全体を構成する造形判断に分けて考えていたことがうかがえる。彼のピクトリアリズムは「操作が多い写真」という特徴より、どの段階の介入を作者の判断として正当化するかという写真観に関わっていた。

制作・収集・歴史記述

ジョンストンの後半生では、作品制作に加えて、収集、分類、協会史の執筆が大きな比重を占める。1946年の『The Story of the RPS』は、1853年創設以来の協会史を内部資料から整理した著作であり、RPS自身も組織史研究の主要文献として挙げている*14。またRPS Journalの長期アーカイブは、技術論、展覧会評、会務、写真史が同一刊行物で蓄積されたことを示し、ジョンストンの歴史執筆が作品だけを扱う美術史とは異なる組織内部の視点から行われたことを示している*15

V&Aに移管されたRPS資料には、ジョンストンがウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットのノートを手書きで写した記録や、伝記・文献目録のためのメモも残っている*6。彼のキュレーションは作品を取得して棚へ収める作業だけではなく、初期写真の一次資料を転記し、作者情報を照合し、後の研究で使える形へ整理する文献作業を含んでいた。写真制作、作者プリントの収集、協会史の執筆が同じ人物の中で連続したことが、ジョンストンの特殊な位置を具体化する。

この実践は、写真史の叙述と実物資料の保存を一体化した。プリント、ネガ、機材、書籍、文書を残すことで、後世の研究者が同じ対象を再検討できる物的基盤が作られた。Science Museum Groupの人物記録も、ジョンストンを写真家、収集家、キュレーターの複数の役割で登録している*12。作品を見る眼、保存する判断、歴史を叙述する文章が一人の活動に集中したことが、この作家の特異性である。

後世の写真史形成との接点も具体的である。1930年代にMoMAの写真史展を準備したベーモント・ニューホールは英国でジョンストンと接触し、RPSやラコック・アビーの歴史資料を調査したことが研究されている*9。これはジョンストンの叙述がそのまま世界標準になったという意味ではない。彼が形成した収蔵と閲覧の環境が、後続の写真史家が19世紀写真を選び直すための一つの資料基盤になったことを示す。

§ 03 / 04 代表作・方法・媒体

《A Venetian Waterway》とリヴァプール

《A Venetian Waterway》は、ジョンストンのピクトリアルな方法を具体的に示す代表例である。NGAは同作を1908年のガム・ダイクロメート印画として公開し、高解像度画像には、ヴェネツィアの建築と水面を穏やかな濃淡へまとめたプリントの質感まで記録されている*7。一方、《Liverpool—an Impression》では、産業港として知られた故郷の都市が霧と反射の中へ整理され、煙や港湾設備の社会的情報を後景へ置き、都市全体の大気が主題化される*2。両作品では、被写体が観光都市でも工業都市でも、場所固有の情報量を減らし、プリントの調子を統一する方向が一貫している。

後年のドキュメンタリー写真が重視する都市の階級、労働、産業構造は、この画面では捨象されている。その一方、20世紀初頭の芸術写真にとっては、カメラが自動的に記録する細部から離れ、プリント制作を通して作者の判断を示すことが写真の芸術性を主張する手段だった。ジョンストンの都市像は、ピクトリアリズムが何を獲得し、同時に何を画面の外へ置いたかを具体的に示す。

NGAの作者ページと作品記録を照合すると、作品の帰属、印画法、展示歴、来歴を一枚ごとに追える*1。こうした物質的情報は、ピクトリアル写真を「絵画のような雰囲気」という様式名で済ませず、どのプリントがいつ展示され、誰の手を経て保存されたかを作品史へ戻す。ジョンストンが後年コレクション形成へ向かった意味も、作者プリントを歴史資料として扱うこの視点から具体化できる。

Permanent Collectionと協会史

1924年以降のPermanent Collectionは、ジョンストンのもう一つの主要作品群と呼べる規模の仕事だった。The Guardianによる2003年のRPSコレクション紹介では、就任時に約100点だった写真収蔵が、彼の死までに数千点規模へ拡大した経緯がまとめられている*17。タルボット、ロジャー・フェントン、ジュリア・マーガレット・キャメロン、フレデリック・エヴァンス、コバーンらを同一コレクションで研究できるようにしたことで、写真史を技術発明の年表だけでなく、作者が作ったプリントの差として比較できる条件が整った。

その資料群はのちにScience Museum系の国立コレクションへ移り、2017年からV&Aで保存・研究されている*20。ジョンストン自身の収集判断は現在の写真史研究と一致するとは限らないが、彼が集めた物が残ったことで、後世はその判断自体も検証できる。『The Story of the RPS』と実物コレクションは、ジョンストンが写真史の叙述と、研究可能な資料の保存を並行して進めたことを示す。

RPSが現在も写真史・写真批評の功績にJ Dudley Johnston Medalを授与していることは、彼の名が歴史記述とキュレーションに強く結びついて継承されたことを示す*10。また歴代会長の公式記録は二度の会長在任を確認でき、収集が一キュレーターの私的趣味を超え、協会運営の中心に近い位置で進められたことを補足する*21

§ 04 / 04 批評と写真史上の位置

ピクトリアリズムの制度化

Linked Ringの時代、芸術写真は既存の写真協会や技術中心の評価から距離を取るため、独自のサロンと人脈を必要とした*22。ジョンストンがその後RPSの会長・名誉キュレーターとなり、ピクトリアル作品や19世紀の作者プリントを積極的に収集したことは、かつて分離派が守ろうとした「写真を作者の作品として扱う」考えが、大きな写真団体の保存制度へ入っていく過程を示す。RPSの歴史を一人で作ったわけではないが、彼の長い在任期間はその制度化に具体的な物量を与えた。

2003年にRPS CollectionがNational Museum of Photography, Film and Televisionへ移管され、その後Science Museum Groupの所蔵として再編されたことで、ジョンストンが集めた写真は協会員の内部資料から、より広い公的コレクションの一部へ変わった*4。この移管後の展示と研究は、彼の収集方針そのものを歴史化する条件も作っている。ピクトリアリズムを保存したキュレーターの判断と、後世の博物館がそのコレクションをどう再編集するかを分けて検討できるようになった。

ジョンストンの制度的な役割は、芸術写真の運動を保存可能な資料へ変えた点に現れる。写真の芸術性を主張する運動は、展覧会やサロンだけでは一時的な活動に終わる。プリント、文書、書籍を収蔵し、目録化し、研究へ開くことで、その運動は後世が再検討できる資料になる。ジョンストンは写真家としてピクトリアリズムに参加し、キュレーターとしてその作品と周辺資料を保存した。作家活動と制度形成が同じ経歴に重なるため、彼の仕事は英国ピクトリアリズムの制作史と保存史を連続して示している。

Science Museum Groupはジョンストンを「pictorialist photographer, collector, curator」と複数の職能で登録している*12。この分類自体が、作品制作と制度形成を別の人生として切り分けにくいことを示す。Linked Ringの分離派文化からRPSの中心へ移った経歴を追うと、芸術写真が反体制的な小集団の価値観から、美術館・協会が収集し研究する対象へ制度化される過程が一人の活動に凝縮している。

収集制度と継承

一方、コレクション形成は中立的な作業ではない。何を重要とみなし、誰の作品を遡って取得するかには、RPSとジョンストン自身の価値判断が入る。University of Brightonの研究がコレクションの形成史そのものを検討するのは、所蔵品を「写真史そのもの」と受け取らず、誰がどの時期に何を集めたかという形成過程を分析対象にしているためである*16。1920〜30年代には報道、広告、新即物主義、映画、植民地写真など写真文化が急速に広がっていたが、ジョンストンの収集は19世紀写真と芸術写真へ強く重点を置いた。

コレクションの扱われ方はジョンストンの死後も変化した。Jane Fletcherの研究は、1970年代のRPSが新しい写真教育、ギャラリー、Arts Councilの助成、ヴィンテージ・プリント市場の成長に直面し、巨大な歴史コレクションを維持費のかかる「負担」から組織を支える資産へ再評価していった過程を追っている *5 。ジョンストンが形成した収蔵物は、彼自身のピクトリアルな価値観を保存する集合から、後の写真制度が何を歴史資源として扱うかを検討する資料へ役割を広げた。

その収集方針は同時代から後世まで無批判に受け入れられたわけではない。A. D. Colemanが紹介するRPS内部史では、1940年代後半にヘルムート・ゲルンスハイムが近代写真の収集を求めた際、ジョンストンの後期ピクトリアリズム重視との緊張が生じたことが記録されている *27 。これはコレクションの欠点を一人の保守性へ還元するための逸話ではなく、写真史の制度が同時代の何を「保存するに値する」と判断したかを示す具体例である。ジョンストンの功績と限界は、同じ収集判断の中に残っている。

収集の偏り自体もコレクション形成史の一部である。タルボットやキャメロンのプリントが現在の写真史で高く評価される背景には、作品の制作時評価だけでなく、収蔵によって継続的な研究対象になった制度的条件がある。収蔵された作家と、別の場所へ散逸した写真を併せて考えることで、写真史が作品の形式だけでなく、保存・分類・公開の判断によっても形作られてきたことが具体化する。

現在のRPS Collectionは、写真、ネガ、機材、書籍、アルバム、協会文書を横断する巨大な資料群としてV&Aで管理されている*6。この状態に至るまでには、ジョンストン以後のキュレーター、博物館職員、保存科学者、研究者の仕事が続いており、彼一人へ成果を集中させることはできない。それでも1924–55年の収集が大きな基礎となったことを、RPSと後続機関の記録が示している。

ジョンストンの活動では、写真制作、プリントの選択、作品と技術資料の保存、組織史の執筆が一つの経歴の中で連続した。20世紀前半の英国写真文化で、作品制作と保存制度がどのように結びついたかを具体的に示す人物である。収集と制度運営も、写真表現を後世へ残す条件として作用した。

一方、保存されたものだけから写真史を作る危険も残る。RPSの研究案内は、協会記録、会議録、雑誌、コレクションを組み合わせた組織史研究を提示している*20。ジョンストンが何を集めたかと同時に、何を集めなかったか、同時代の報道・商業・植民地写真がどの程度収蔵対象になったかを問うことで、コレクションは、1920〜50年代の価値判断を残す史料でもある。

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本文執筆 — AI

構成・編集 — 写真の座標 管理人

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