ウィリアム・レイク・プライスは、1850年代から1860年代初頭に写真家・著述家として活動した英国の水彩画家出身の写真家。建築画の訓練を背景に、《Don Quixote in His Study》など文学や歴史を演じ直すタブロー、芸術家肖像、ロンドン都市景観、美術複製と写真製版を手がけた。撮影前の演技と構図、撮影後の印刷・出版までを制作工程として捉え、写真に「構図」をどう導入するかを実作と文章の双方で論じた人物である。
1850年代の長い露光では、多人数や複雑な物語場面を自然な一瞬として安定して撮ることは難しかった。プライスはその制約に対して、文学的人物を演じるモデル、衣装、家具、小道具、光を撮影前に設計し、印刷・複製工程まで含めて完成画面を作る方法を選んだ。実在するモデルと小道具を使うため、セルバンテスの虚構を描いた場面にも、「その身体と物が撮影時にカメラの前にあった」という写真特有の具体性が加わった。さらに1860年の「On Composition and Chiar-Oscuro」で、絵画の構図理論を写真家向けの具体的な判断として論じた。この議論は後にヘンリー・ピーチ・ロビンソンの構図論が明示的に振り返る先行例となり、撮影前から完成像を計画することを写真表現の問題として言語化した。
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建築画・水彩画から、構成する写真へ
Getty ULANは、プライスが建築家オーガスタス・チャールズ・ピュージンのスタジオで建築・地誌的な画家として訓練を受け、Old Watercolour Societyで1837年から1852年に42点を展示したと記録する。写真を始める前から、透視図法、室内配置、歴史的様式を一つの画面へ整理する訓練を積んでいた*1。写真へ移った後も、この構成能力を、実在する身体や物から像を作る新しい媒体の中で使い続けた。
1850年代の写真は露光時間が長く、複数人物が動く物語場面を一度の露光で自然に撮ることが難しかった。プライスは、モデルを俳優のように静止させ、衣装、家具、武器、本などを先に選び、完成画面を撮影前から設計した。Harry Ransom CenterのLake Price Albumには、彼自身の作品だけでなくレイランダー、フェントン、ヒル&アダムソン、ロビンソンらの写真が収められ、1855–60年頃の英国で、芸術写真、肖像、風景、複製がまだ一つの写真文化の中で交換されていたことを示す*2。虚構の人物を描く代わりに写真で演じさせると、衣装も身体も室内も実際にカメラの前に存在したという写真特有の説得力が生じる。その結果として、歴史画や文学挿絵のように計画された場面でありながら、観客には「実際に演じられた出来事」の痕跡として見える像になった。
《Don Quixote in His Study》と、写真で物語を作る方法
《Don Quixote in His Study》では、モデルを椅子に座らせ、本、武器、甲冑、巻物を周囲に積み上げ、虚構の人物像を室内の具体物から作る。NGAは、1855年に撮影され、1857年にPhoto-Galvano-Graphic Companyがフォトグラヴュールとして印刷した作品として記録している*4。Getty所蔵の同作品も、撮影と印刷を別工程として扱った制作を確認できる*16。ここでは、写真の具体性が実在人物の肖像ではなく、セルバンテスの虚構を実在する身体と物で再演した場面に使われている。
《Don Quixote》の構成は、人物と小道具を撮影前に制御する段階と、得られた像を写真製版によって複製・流通させる段階の両方で作られている。1857年の『Photographic Art Treasures』に同作が写真製版で収録されたことから、演出写真が展覧会の一品に終わらず、出版物を通じて別の観客へ届けられたことが確認できる*12。巨大な複数ネガ合成をプライスの中心技法として扱うより、撮影前の演出と撮影後の複製を一続きの画面制作として扱った点を押さえる方が、現存資料に即している。
文学、肖像、美術複製、都市――用途ごとに写真の基準を変える
プライスはRoyal Academiciansを含む芸術家肖像も制作した。Getty Museum Journalに記録された画家Augustus Leopold Eggの肖像には「Photographed from Life by Lake Price」と印刷され、文学的タブローとは逆に「実在する本人を撮った」ことが商品の価値になっていた*11。NGAの《Horse-drawn Carriage and Female Rider》でも、屋外の人物、馬、馬車という実際の場面を扱っており、プライスの写真が演出された室内だけに限られなかったことが分かる*5。
1859年にはPrince Albertのラファエロ資料収集計画のためローマで絵画撮影を担当した。Royal Archivesには、ローマで個人所蔵作品を撮影するための許可交渉をプライス自身が報告した書簡が残る*9。別の書簡では、作品へ接近できる条件や現地での撮影実務について経過を伝えている*10。この仕事では文学的な演出より、離れた場所にある作品を比較研究できる複製として持ち帰る精度が優先された。撮影対象リストはラファエロ作品と建築図面を体系的な写真資料にしようとした計画を示す*15。同じ写真家が虚構の場面と正確な美術複製を手がけたことは、初期写真を「芸術か記録か」の二択で分けるより、用途ごとに構成と精度の基準を変える媒体として理解する必要を示している。
近年のプラド美術館の写真複製史研究によれば、プライスは1857年11月にReal Museo de Pinturas y Esculturas(現在のプラド美術館)でベラスケス作品12点を撮影した。研究は、美術館側がこの時期に写真複製を、作品の内部記録だけでなく、国外での研究と普及を可能にする手段として認識し始めていたことを示す*21。ここではカメラは創作タブローを作る装置とは反対に、移動できない絵画を別の場所へ運ぶ知識媒体として働いた。
ただしプライス自身は、美術複製を「カメラなら正確にコピーできる」という単純な仕事とは考えていなかった。1868年の『A Manual of Photographic Manipulation』を検討した研究は、油彩画では原画の色が白黒写真で予想外の明暗へ変換され、厚塗りの絵具や反射も原画とは異なる強さで現れるため、良質な複製が特に難しいと彼が論じていたことを指摘する*22。文学的タブローで構図を作る場合にも、美術複製で原画を移し替える場合にも、写真は対象を自動的に写す透明な媒体ではなく、色、光、材料を別の階調へ翻訳する工程だった。
《Fleet Street and Ludgate Hill》では、通りの奥のセント・ポール大聖堂へ視線が収束し、馬車と歩行者の流れが街路の奥行きを作る。Royal Collectionは1858年にヴィクトリア女王がプライスから写真を購入した記録を残す*6。Royal CollectionのRamsgate写真は、海辺の都市景観も彼の撮影対象だったことを示す*7。同じコレクションのOsborne House室内写真では、家具と建築空間を整理して見せる別の用途が確認できる*17。文学的タブローで小道具を完全に制御する方法と、都市で偶然通過する人や馬車を受け入れる方法を使い分けていたため、彼の核心を一つの「絵画的スタイル」にまとめることはできない。
「On Composition and Chiar-Oscuro」――写真の構図を理論化する
プライスの歴史的重要性は、「芸術写真の最初の人物」という称号より、写真の構図を撮影者が学び、判断できる問題として文章化した点にある。1860年のPhotographic News連載「On Composition and Chiar-Oscuro」は、ジョシュア・レノルズなどの美術理論を写真へ適用し、画面の統一、明暗、人物や物の配置をどう判断するかを論じた*14。1868年にヘンリー・ピーチ・ロビンソンの「Pictorial Effect in Photography」連載が始まる際、編集部はプライスの先行連載を明示的に振り返り、写真家への応用をさらに具体化する必要があると説明した*14。後続への接続が単なる様式の似ている/似ていないではなく、写真誌上の理論的な参照として確認できる点が重要である。
実作でも、写真を「見つけたものを切り取る」だけの媒体として扱っていない。《Don Quixote in His Study》は、人物、椅子、本、武器、甲冑、巻物を一つの性格描写へまとめ*4、《Robinson Crusoe》では人物、洞窟、犬、鳥、羊を使ってデフォーの物語を写真として再演した。Princeton University Art Museumは同作を1857年マンチェスターのArt Treasures展にも出品された演出写真として記録している*19。文学の登場人物を実在するモデルと物で作る方法が複数作品に反復されていたため、《Don Quixote》だけの奇抜な実験ではなく、写真で物語を構成する継続的な課題だったことが分かる。
撮影から印刷・出版までを一つの制作工程として考える
《Don Quixote》は1855年に撮影され、1857年にPhoto-Galvano-Graphic Companyによってフォトガルヴァノグラフとして印刷された。NGAは写真家と印刷会社を共同で作品情報に記し、像がカメラ内で完結せず、印刷技術を経て流通したことを示す*13。Photographic Art Treasuresへの掲載も、演出写真が展覧会の一品ではなく、複製出版を通じて別の観客へ届いたことを示す*12。Museum of Fine Arts, Houston所蔵《A Brace of Birds》も1857年の写真製版として記録され、文学的タブローだけでなく静物写真も印刷工程へ展開されていたことが分かる*20。感光材料、ネガ、印画、修整、印刷が連続していた初期写真では、「加工されているから写真ではない」という後世の単純な基準は当てはまりにくい。
National Gallery of Artの作家記録は、プライスを水彩画家から写真へ進み、肖像、静物、都市景観を横断した人物として整理する*3。Royal Archivesのラファエロ複製事業では、現地の所蔵者が過去の撮影で作品が損傷した経験を理由に許可をためらった記録もあり、写真複製が文化財へのアクセスや保存の問題と結びついていた*8。つまり彼にとって写真の制作は、撮影前の構図だけでなく、作品へのアクセス、ネガ、印刷法、出版、顧客まで含む工程だった。
構図論・複製・アーカイブから見る後年の評価
プライスはレイランダーほど一つの大作で記憶されず、画家、写真家、複製事業者、技術著述家という役割が分散して見えやすい。Harry Ransom Centerのアルバムは、その分散を一冊の中で確認できる資料であり、本人の作品と同時代写真家の作品が並ぶことで、彼が制作だけでなく写真を収集・比較する側でもあったことを示す*2。エミリー・タルボットの研究はプライスの構図論を、後のロビンソンへ続く英国のart photography言説の重要な先行例として位置づける*14。
写真史家Steve Edwardsは、プライスの1868年の技術書を、1860年代の英国で写真の用途が「際限なく」拡張できると考えられていた言説の一例として分析している*23。その技術書には肖像や美術複製だけでなく、写真が同時代の人物、出来事、記念物を将来へ伝える記録媒体になるという展望も含まれており、アーカイブ研究でもその歴史意識が取り上げられている*24。プライスにとって「構図」は芸術写真だけの問題ではなく、何をどのような情報として残し、複製し、後の閲覧者へ渡すかという写真全体の設計に関わっていた。
一方、19世紀後半にはピーター・ヘンリー・エマーソンが、プライス、レイランダー、ロビンソンらの演出型High Art photographyを、自然主義写真が対抗すべき人工的な方法として扱った。The Metの解説はこの対立を明示している*18。つまりプライスの方法は後世にそのまま受け継がれたというより、「写真はどこまで構成・演出してよいのか」という論争の参照点になった。創作タブロー、肖像、都市、正確な美術複製を同じ人物が用途ごとに撮り分けた事実を合わせると、彼の重要性は写真を絵画化したことだけではない。写真が自動的な記録でありながら、撮影前の演技、画面構成、複製工程、用途によって意味を変えられる媒体だと、実作と理論の双方で示した点にある。
- オスカー・レイランダー ― 組合せ印画を大規模な寓意画へ発展させた同時代の写真家。
- ヘンリー・ピーチ・ロビンソン ― 演出と組合せ印画を理論化した後続の代表者。
- ロジャー・フェントン ― Lake Price Albumにも含まれ、同時代の芸術・風景写真の制度形成を担った。
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
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