ヘルムート・ニュートン(1920–2004)、ドイツ・ベルリン生まれ。1936年からファッション写真家Yvaのスタジオで修業し、ナチ政権下の迫害を逃れて1938年にドイツを離れ、シンガポールを経てオーストラリアへ移住した。戦後はメルボルンでスタジオを構え、1961年にパリへ移った後、French Vogueをはじめとする国際誌を中心に活動した。
ニュートンの写真史における重要性は、すでに作者性を獲得していたファッション写真を、ジェンダー、欲望、階級、見る権力が衝突する舞台へ変えた点にある。 Irving PennやRichard Avedonを含め、彼以前にも雑誌の依頼仕事から強い作家性を築いた写真家はいた。 ニュートンの差分は、1960〜70年代に女性の服装、身体、仕事、性をめぐる社会規範が変化するなかで、ファッション誌を「服をどう見せるか」だけでなく、「誰が身体を演じ、誰が見る側に立ち、欲望と権力がどう結びつくか」を露出させる舞台にしたことにある。 V&Aは1970年代のファッション写真について、女性性とセクシュアリティをめぐる態度の変化の中で、写真家たちが許容されるイメージの限界を試し、ニュートンが自信に満ちた女性像と覗き見的な場面を併置したと整理している。 ホテル、夜の街、邸宅、車、鏡に置かれた女性たちは、衣服の説明役であると同時に、支配する者/見られる者/見返す者という複数の役を演じる。 だから彼の作品は女性の自己決定を強く見せる写真としても、男性の視線が身体をフェティッシュ化する写真としても読まれてきた。 フェミニズムと精神分析を用いた研究も、その二重性を「新しい女性の自己意識」と「欲望の対象化」が同時に成立する構造として論じている。 ニュートンの作品では、この矛盾そのものが消えずに残る。 商業誌の内部でファッション写真をジェンダー、欲望、階級、見る権力が争われる場にしたため、魅力と問題性が現在まで同じ画面から立ち上がり続けている。
本サイトでは作品画像を掲載していません。下記の公式アーカイブで作品をご覧ください。
目次 · Table of Contents
ベルリン、Yva、亡命――ファッションへ入る背景
ニュートンは1920年ベルリンのユダヤ系家庭に生まれ、少年期から写真に関心を持った。1936年からはファッション写真家Yvaのスタジオで徒弟として働き、照明、モデルのポーズ、雑誌写真の制作工程を学んだ。*1 ナチ体制下で迫害が強まると1938年にドイツを離れ、シンガポールを経てオーストラリアへ渡った。Jewish Museum of Australiaは、この亡命経験とベルリンでの修業を、後年の国際的な経歴を理解する基礎として位置づけている。*15
戦後はメルボルンでスタジオを構え、1947年に女優June Browneと出会い翌年結婚した。*1 1950年代末には、同じく欧州から移住したHenry TalbotとFlinders Laneで共同スタジオを運営し、SportscraftやAustralian Wool Boardなどの仕事を手がけたことをNational Gallery of Victoriaが記録している。*19 1961年に夫妻はパリへ移り、ニュートンはFrench Vogueを中心に国際的なファッション誌で仕事を始める。Helmut Newton Foundationの年譜は、パリ移住を彼の様式が本格的に形成される転機として記録し、その後のBritish Vogue、Queen、Harper’s Bazaarなどへの展開を示している。*1
Yvaのスタジオでの修業は、ニュートンがベルリンの近代的な雑誌文化を制作現場から学んだ経験でもあった。ベルリン国立美術館群のファッション写真史は、1920年代末から1930年代のベルリンで新聞、週刊誌、女性誌、広告が急速に拡大し、モード写真が近代都市の消費文化を形づくる主要な画像産業になったことを示している。*8 Yvaはその中心的な写真家の一人で、照明、影、身体のポーズを商品説明以上の演出へ変えていた。ニュートンが後に「ファッションを着た人物の物語」を作るようになる背景には、この商業写真がすでに印刷媒体、都市生活、女性像を結ぶ仕事だったというベルリンでの経験がある。一方、その文化圏はナチ体制によって破壊され、ユダヤ系だったニュートン自身も1938年にドイツを離れた。*13 亡命経験を後年の性的表現へ直接結びつけることはできないが、彼の写真家としての出発点が、近代的な雑誌文化の繁栄と、その暴力的な断絶の双方にまたがっていたことは重要である。
1970年代――ファッション写真と女性像の変化
パリへ移った1960年代から70年代は、ファッション写真そのものの役割が変わっていた。V&Aの通史は、1970年代に女性性とセクシュアリティをめぐる社会的態度が変化し、写真家が宗教、暴力、覗き見を含む従来より強い主題をファッション誌へ持ち込んだとする。ニュートンの写真も、衣服の説明より、モデルの自信、性的な緊張、作為的な場面を前面に出す仕事として位置づけられている。*25 この時代背景を置くと、彼のヌードや支配的なポーズが、個人的な嗜好と同時に、女性像を作る雑誌文化への応答だったことが見えてくる。実際には女性解放運動、性規範の変化、ファッション産業の拡大という外部の変化と接しながら、雑誌が女性像を作る装置であることを極端な形で可視化した。
ニュートンの成熟期は、1970年代のファッション写真全体が変化した流れの中に置くと輪郭が明確になる。V&Aはこの時期、女性解放運動、セクシュアリティをめぐる態度の変化、雑誌文化の実験が重なり、Guy Bourdin、Deborah Turbeville、Sarah Moonらがそれぞれ異なる方法でファッション写真の許容範囲を広げたと整理している。*25 ニュートンの女性像はその中でも、身体を自信と威圧感のある主体として演出しながら、同時に覗き見、フェティッシュ、危険、上流階級の室内といった男性的欲望の装置を残した点に特徴がある。「強い女性」という像は、女性の社会的な自立が語られる時代に、ファッション誌がその自由をどのような性的幻想へ変換するのかを極端な形で可視化し、そこに批評的な緊張を生んだ。
スタジオを離れ、写真を場面へ変える
ニュートンのファッション写真では、服そのものより、モデルがどこに立ち、何をしているかが画面を支配する。ホテルの廊下、夜の路上、邸宅、プール、車、鏡は、人物の権力関係や役柄を示す舞台として使われた。Vogueの回顧記事は、彼がファッション写真へ映画的な緊張と性的な暗示を持ち込み、雑誌のページを短いフィクションのように構成した点を強調している。*4 Getty所蔵の《Violetta》では、モデルの身体と衣服が強い照明の中で切り出され、ファッション写真のポーズが肖像と演技の両方として機能している。*16
1975年の《Rue Aubriot》は、この方法が衣服そのものを越えて働く例である。夜のパリの街路でYves Saint Laurentの「Le Smoking」を着た女性を撮った写真では、タキシードという男性服のコード、街路の暗さ、モデルの直立した身体が結びつき、衣服は女性を装飾する小道具より権力を演じる制服に近づく。British Vogueはこの写真を、ニュートンが好んだ粒子のある暗い都市空間と、性的・社会的な両義性が交差する代表例として扱っている。*21 University of Michigan Museum of Artの所蔵資料でも、この作品は衣服、ジェンダーコード、夜の街路を結ぶ代表作として確認できる。*23 同じ夜にヌード版も制作され、Foundationはこの対置が後の「Naked and Dressed」や《Sie Kommen》へつながったと説明する。*2 二つの像を並べると、衣服を着た身体も裸体も、同じようにポーズと視線によって作られた像であることがはっきりする。
衣服とヌードを同じ演技の連続として扱う
1970年代以降、服を着たモデルと裸体のモデルは別々のジャンルとして扱われず、同じポーズ、同じ場所、同じ視線の連続として現れる。Foundationの《White Women》《Sleepless Nights》《Big Nudes》展は、最初の三冊の写真集を通して、ファッションとヌードの境界が意図的に交差していったことを示している。*2 《Sleepless Nights》では街路やホテルが舞台となり、《Big Nudes》では巨大な正面像へと画面が簡潔になっていく。*3 この変化によって、依頼された服の情報から独立したイメージが増え、雑誌写真の技法がギャラリーと美術館の大型作品へ接続された。
硬いフラッシュ、深い黒、鏡、反復ポーズは、身体の「自然さ」よりも、撮影という演出の存在を前景化する。Gettyの《Sylvia in My Studio》でも、スタジオ、ポーズ、視線が露出し、被写体は私的な瞬間というより撮影の場を演じる人物として現れる。*17
フェティッシュ、雑誌編集、作者性
ニュートンの画面に頻出する鏡、ハイヒール、義肢を思わせる装具、マネキン、鞍、ホテルのベッドは、ファッション産業が身体を部位や表面へ分解する仕組みと結びついている。Federica Muzzarelliの研究は、ファッション写真における覗き見とエロティックなステレオタイプの歴史をたどり、ニュートンが既存の性的コードを過剰なほど露出させることで、見る側自身の欲望の仕組みまで前景化させる可能性を論じている。*12 商品としての靴や衣服、身体を支える器具、人体に似たマネキンが同じ画面に置かれると、どこまでが人間でどこからが商品なのかという境界が不安定になる。彼のフェティシズムは対象への執着であると同時に、ファッション産業そのものが身体を部位、表面、所有可能なイメージへ分解する仕組みを露出させてもいる。
雑誌での作者性も、現在の「有名写真家が自由に作品を撮る」というイメージより複雑だった。《Fired》に残る本人の回想では、1964年にQueen誌でCourrègesの特集を撮ったことをめぐりFrench Vogueと衝突し、一度仕事を失った後、1969年に編集体制が変わって復帰している。*11 この経緯から、ニュートンの様式が競合誌、ファッション編集者、デザイナー、誌面構成との交渉によって形成されたことが分かる。商業媒体の制約の内部で、どこまで自分のイメージを通せるかを長年試した経験が、依頼仕事にも強い物語性を与えた。
三冊の写真集と《Big Nudes》
1976年の『White Women』、1978年の『Sleepless Nights』、1981年の『Big Nudes』は、ニュートンの仕事を雑誌の切り抜きから作者の写真集へ再編集した中心的な三冊である。Foundationはこれらを、女性像、ファッション、ヌード、都市空間が段階的に結びつく初期の集大成として扱っている。*2 Museum of Fine Arts, Houstonは2011年、この三冊に収められた205点をまとめた展覧会を米国で初めて開催し、雑誌掲載から切り離された大判プリントと写真集を一つの作品群として検証した。*22 Staatliche Museen zu Berlinも、1970年代半ばには「服を着た/脱いだ」モデルを対にする発想が形成され、《Sleepless Nights》ではファッション、肖像、犯罪現場を思わせる演出が交差したと解説している。*20 National Gallery of Victoria所蔵の《Big Nude IV: Henrietta, Paris》は、等身大を大きく超えるスケールと正面性によって、ファッションポーズを警察の指名写真に近い緊張へ変えている。*18 NGVは《Big Nudes》の発想源の一つとして、当時掲示されていたRAFメンバーの指名手配ポスターとの関連も紹介している。*18
《Big Nudes》のスケール変更は、雑誌のページで成立していた視線を、展示空間で身体と対峙する経験へ変えた。NGVは、その発想源にドイツ警察署で見たRAF(赤軍派)の等身大指名写真があったことを紹介している。*18 身元確認のための正面写真という国家的な視覚形式を、裸のファッションモデルへ転用すると、鑑賞者は「見る側」に安定して留まりにくくなる。二メートル近い身体が正面から見返すためである。ただし、政治犯の写真形式を高級ファッションの裸体へ変換する操作には、暴力的な歴史をスタイルとして消費する危うさも残る。作品の力は、威圧的な女性像を生んだことだけでなく、警察写真、広告、ポルノグラフィックな視線、美術館の大型プリントという異なる画像制度を、一枚の身体へ衝突させたところにある。
PolaroidとJune Newtonの役割
完成作品の強い統制感とは対照的に、撮影現場ではPolaroidが構図、照明、モデルの位置を確かめるスケッチとして使われた。Foundationの「Polaroids」展は、テストプリントが本番前の判断を記録する資料であると同時に、ニュートンの即興的な試行を見せる独立した作品群にもなったことを示している。*5
June Newtonは妻、被写体、同行者に加え、Alice Springs名義の写真家、編集・アートディレクションの協働者でもあった。1970年からAlice Springs名義で写真家として活動し、ニュートンの出版物ではアートディレクションや編集にも深く関わった。*10 Staatliche Museen zu BerlinのAlice Springs展は、彼女自身の肖像写真を独立した制作として位置づけている。*7 二人を並べた「Us and Them」は、互いを撮った私的写真と職業的な肖像を同じ展示に置き、ニュートンの作者像を夫妻の長期的な視覚的対話の中へ戻している。*6
肖像写真に現れる権力
ファッション以外の肖像写真を見ると、権力への関心がさらに明確になる。National Portrait Galleryは1988年の回顧で、ニュートンの著名人肖像を、被写体自身が誇張された役柄を演じる場として位置づけた。*24 政治家、俳優、富裕層、ファッション関係者は、邸宅、プール、鏡、身体の姿勢を通して、自らの権威を演じ直す。NPGの同時代批評には、ニュートンの肖像でセックスがより大きな「権力」への執着の一部として働くという評価も残る。*24 この視点をファッション作品へ戻すと、裸体は目的そのものというより、誰が見る側に立ち、誰が命令し、誰が所有し、誰が見返すのかという力の配置を露出させる装置として理解できる。
「強い女性」か男性的視線か――評価の分岐
ニュートンの女性像には、力強い主体と男性的欲望の対象という二つの読みが同時に生じる。V&Aは、1970年代のファッション写真が女性性とセクシュアリティをめぐる社会変化に反応し、ニュートンの作品では自信に満ちた女性と覗き見的な演出が同居したと整理している。*25 一方、Katarina Pantovićの研究は、フェミニズム批評と精神分析の観点から、裸体をフェティッシュな欲望の対象として構成する側面と、新しい女性の自己意識や自由を肯定する側面が同じ作品群に共存すると論じる。*26 《Sie Kommen》《Big Nudes》で女性が正面からカメラを見返す姿勢は主体性を強く示す一方、その身体を撮影し、編集し、雑誌へ流通させる権限は撮影者と出版制度の側にあった。画面内の主体性と制作制度の権力差を同時に捉えることで、「解放的」「女性蔑視的」という単一のラベルを超えた読みが可能になる。
この対立は同時代から存在した。1979年、Susan Sontagはニュートンが自作の女性を「強い」と説明することに対し、支配する側が被支配者を愛すると語ることは解放の証明にならないという趣旨で強く批判した。後年の回顧でも、この発言はニュートンをめぐるフェミニズム批評の重要な参照点として繰り返し扱われている。*9 Sontagの批判は、正面を見返すモデルの態度と、衣服や裸体の選択、ポーズの指示、雑誌流通を担う制作制度とを分けて考える必要を突きつけた。画面内部の自信と、制作過程に残る権力差は別の層にある。
近年の研究は、男性視線の批判を踏まえつつ、ニュートンの画面に生じる役割交換にも注目している。Muzzarelliは、覗き見や性的ステレオタイプを過剰に演じることで、そのコード自体を不安定にする側面を指摘する。*12 さらにジェンダーとマゾヒズムを扱う研究は、支配する女性、フェティッシュな装具、受動/能動が反転する身体表現に、異性愛的な男性視線を越える役割交換を読み取っている。*14 ファッション写真が女性の自由を商品化しながら、従来の女性像を逸脱する身体も大量流通させた。その矛盾が、ニュートンの画面に残る批評的な緊張である。
ニュートンの写真史における重要性は、「ファッション写真を美術にした」という説明より、複数の画像制度を一つの視覚言語へ衝突させた点にある。PennやAvedonらによって、ファッション写真と美術館・ギャラリーの往復はすでに進んでいた。ニュートンの固有性は、雑誌の依頼、性的ファンタジー、犯罪写真や映画を思わせる演出、そして巨大プリントを一つの視覚言語へつなぎ、商品写真の内部にジェンダーと権力の不穏さを残したことにある。Foundationの《Fired》展がQueen、Elle、Nova、Vogueなど異なる雑誌の仕事を横断して示すように、彼の様式は、編集部、モデル、衣服、読者を含む出版環境との交渉の中で形成された。*11 商業イメージそのものが社会の女性像と欲望を作る場所であることを、極端な演出によって可視化した点に彼の批評性がある。
階級の問題も、この作品群を読むうえで大きな軸になる。British Vogueが指摘する「bourgeois glamour」は、ニュートンのホテル、邸宅、リムジン、高級服、宝飾品の世界をよく表している。*21 彼の写真は女性の性的自由を演出する一方、その自由を高級消費、痩身の身体、白人中心のファッション産業と結びつけて提示することが多い。ここで示される「強さ」は、特定の階級的・人種的・身体的規範に支えられたファンタジーでもある。この限定を含めて読むと、ニュートンの作品は1970〜80年代のファッション誌が欲望と社会的上昇をどう視覚化したかを示す資料にもなる。
写真史における重要性は、商業媒体の内部にある矛盾を巨大化し、美術館の展示空間へ持ち込んだ点にある。Queen、Elle、Nova、Vogueなどの依頼仕事を振り返る《Fired》は、編集部との衝突や採用/不採用を含め、作者性が雑誌制度との交渉から生まれたことを示している。*11 一方、《Big Nudes》や写真集は同じイメージを雑誌の消費速度から切り離し、美術館で長時間対面する身体へ変えた。広告、ファッション、犯罪写真、性的ファンタジー、美術作品という本来別の制度に属する画像を往復させたことで、ニュートンは「ファッション写真とは何を売る画像なのか」という問いを、衣服だけでは答えられないところまで押し出したのである。
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
資料の収集と本文の執筆はAIが行い、構成と編集は管理人が行っています。事実関係は管理人がAIを用いて最終チェックしていますが、誤りが残っている可能性があります。正確さが必要な場合は、各ページ §SRC の一次資料をご確認ください。