芳賀日出男は、日本各地の祭礼、年中行事、農村の暮らし、神事を七十年近く撮影した写真家。折口信夫の民俗学に影響を受け、1955〜57年度の奄美群島学術調査を転機に、祭りの華やかな場面だけでなく、準備、身体動作、道具、家々を巡る儀礼まで継続して記録した。約30万点規模の写真を地域、祭礼、行為、年代で分類した芳賀ライブラリーまで含め、一枚の名場面より、後から衣装や祭具、手順を照合できる写真群を残すことを仕事にした。
芳賀が変えたのは、祭り写真を祝祭の名場面や郷土美の紹介に限定せず、反復される儀礼を地域ごと、年代ごとに比較できる写真資料として蓄積したことだ。撮影前に由来を調べ、人びととの関係を作り、祭りの前後まで追う。さらに写真を分類・検索できる形で保存したことで、撮影行為とアーカイブ形成を一続きの仕事にした。近代化で変化する民俗を「昔の日本」として固定せず、変化そのものを記録できる方法を示した。
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芳賀日出男は1921年に大連で生まれ、カメラ好きの父のもとで小学生の頃から写真を撮り、慶應義塾大学ではカメラクラブに入って撮影へ没頭した。*15 慶應で折口信夫の講義を聞いたとき、「村の祭りの日に神の姿の者が訪れる」という話から、それなら写真に撮れるかもしれないと考えたことを本人が回想している。*1 戦後、勤めていた通信社が解散した後に福島の農村へ撮影に出かけ、稲作儀礼の中に折口のいう「訪れ神」を現実の出来事として見いだした。*1 その写真を見た恩師の奥野信太郎から、民俗写真という分野はこれまでなかったかもしれないと告げられたことが、祭りと民俗を生涯の主題に定める直接の契機になった。*1
高度成長期には農村人口の移動、道路整備、観光化、衣服や道具の変化によって、祭りも同じ形では続かなくなった。Canonの「日本の民俗」展は、1950年代以降の近代化の中で失われたり姿を変えたりする生活文化を、芳賀が全国で追ったことを展覧会の中心に置いている。*2 同じ祭りを別の年代にも撮った写真を並べれば、衣装の素材、道具、参加者の人数、道路や家屋、観光客の入り方まで、儀礼のどこが変わり、どこが残ったかを確かめられる。
折口信夫と「訪れ神」――祭りを見るための民俗学
芳賀にとって、民俗学は写真の外から後付けされた解説ではなかった。写真そのものへの関心は父のカメラから始まり、折口信夫の「まれびと」「訪れ神」は、目に見えない信仰の構造が具体的な衣装、動作、道具、訪問の順序として現れる瞬間をカメラで確かめられるのではないか、という問いを与えた。*1 だから彼が選んだ写真は、民俗学の文章を図解する挿絵ではなく、後から別の研究者や地域の人が、衣服、手の位置、家屋、祭具、参加者の配置まで見直せる記録媒体だった。芳賀自身が民俗写真を「人々の人生の記録」と捉え、分類可能な写真群として残したことは、その考えが一枚の作品よりアーカイブへ向かった理由を示している。*1
1950年代に芳賀の写真技術と民俗学の調査対象が重なり、衣装、動作、道具、儀礼の順序を連続写真として残す「民俗写真」の方法が形づくられた。折口信夫の「訪れ神」という概念を、福島や奄美の具体的な行事の中で確かめた経験によって、写真は見世物的な一場面を集める手段から、儀礼がどの順序で進み、誰が何を担うかを後から検証できる記録へ変わった。
1955〜57年奄美調査――写真家がフィールドへ入る
1955〜57年度の九学会連合による奄美群島調査は、芳賀の方法をフィールドワークとして確立させた。nippon.comの調査史は、民俗学者の関敬吾が写真家の参加を発案し、芳賀が三年間で計182日滞在したことを確認している。*3 研究者と島へ入り、ノロやユタを含む宗教実践や暮らしを継続して撮ったことで、写真は珍しい風俗を持ち帰る旅行記から、調査の前後関係までたどれる視覚資料へ変わった。Amami Horizonも、当時の大量の写真が戦後間もない奄美の生活を伝える記録として再利用されていることを紹介している。*4
奄美では大量に撮るだけで終わらず、HRAFの分類法を参考に、村、行為、道具を後から引き直せるよう写真を整理した。調査史によれば芳賀はHRAF(Human Relations Area Files)の分類法を参考に写真を整理し、1959年の報告書『奄美』では770点の掲載写真のうち562点を担当した。*3 菊地の研究も、この共同調査を「民俗写真家」としての方法が固まる重要な段階として検討している。*16 写真は一枚ずつ鑑賞する作品であると同時に、異なる村、行為、道具を後から比較できる分類資料になった。
祭りの「見せ場」より反復と準備を撮る
JCIIの『日本の祭り』展は、派手な祭列だけでなく、静かな祈り、準備、儀式を行う人びとの所作まで含む約110点で構成された。*5 ToMuCo所蔵の《せいどの衆》や《湯立て》を見ると、衣装や人物の表情と同じくらい、身体の配置、道具、囲む観客の距離が記録されている。*6
飯沢耕太郎による作品紹介では、芳賀のネガの連続コマまで示され、祭りの「決定的な一枚」だけでなく、その直前と直後に人がどう動いたかを残すことが資料性と表現性の両方につながると論じられている。*21 一枚だけなら象徴的な姿勢に見える所作も、前後のコマでは、誰が近づき、何を受け渡し、次にどこへ動いたかという行為の文法として記録される。芳賀にとって連写や大量撮影は名場面を当てるためだけの保険ではなく、儀礼を時間の順序として後から読み直すための記録方法だった。
能登の「あえのこと」――型より暮らしの中の実践を見る
能登の波並地区で芳賀が注目したのは、教科書的に整った型より、家々の暮らしの中で実際に続けられている手順だった。nippon.comの飯沢耕太郎による紹介は、芳賀が〈あえのこと〉を繰り返し撮影し、地域ごとの違いと変化を含めて記録したことを示している。*9
祭りを一枚で終わらせない――写真集と連続写真
芳賀の写真集では、最も派手な瞬間だけがシリーズ全体を代表せず、準備、訪問、奉納、直会までが同じ流れの中に置かれる。Canonの「日本の民俗」展も、祭礼の華やかな場面だけでなく、土地ごとの信仰や生活の形を長年にわたって記録した仕事として構成している。*2
大阪万博「お祭り広場」――記録する祭りから演出する祭りへ
1970年大阪万博で、芳賀は「お祭り広場」のプロデューサーを務め、日本各地と海外の祭りを巨大な会場へ集める側にも回った。本人インタビューでは、日本の祭りを二百以上、海外を百か国規模で調べ、出演者や演目の調整に関わった経験を振り返っている。*1 同年には芳賀自身が「あなたと私のまつり―万国博・お祭り広場」という論考も発表している。*20 普段の撮影では土地へ通い、祭りが暮らしの中で行われる条件を待った写真家が、万博では祭りを土地から切り離し、舞台上で比較可能な「文化」として提示した。この転換は芳賀個人の矛盾というより、高度成長期の民俗が、生活実践から記録・保存・観光・国際展示の対象へ変わっていく過程をその仕事の内部に抱えていたことを示す。
30万点を分類する――芳賀ライブラリーの意味
芳賀は撮影した写真を単に保管せず、地域、祭礼、行為、年代ごとに整理した。本人インタビューでは、1985年に芳賀ライブラリーを設立し、膨大な写真を後世が検索し比較できる形へ整えること自体を仕事として重視している。*1 Theatre for Allは、震災後の地域文化や継承を考える際にも、芳賀ライブラリーの写真が過去の祭りを照合する資料として機能することを紹介している。*7 CiNiiの著者情報に多数の祭礼・民俗写真集が蓄積されていることからも、写真集出版とアーカイブが並行していたことがわかる。*8
さらに、芳賀の写真は撮影地へ戻ったときに新しい意味を持つ。かつて外部者が記録した祭礼写真が、現在の担い手にとって衣装、道具、順序を確認する資料になり、記憶のない世代が過去の実践を具体的に見る手がかりになる。奄美や東北で行われている再公開は、アーカイブが「保存庫」ではなく地域側から読み直される場所になり得ることを示している。*11
民俗写真は保存か、変化の記録か
芳賀の写真は民俗学資料として高い価値を持つ一方、「消えゆく日本」を美化する危険もある。芳賀は同じ地域を何度も撮り、変化そのものを記録へ含めた。nippon.comのいわきの資料は、1952年頃の年中行事との出会いが長期的な祭礼撮影の原点になり、後年その写真が地域へ戻されていることを紹介している。*10 Wake Forest UniversityのLam Museumも、東北の祭礼写真を日本文化の固定的な典型ではなく、地域社会の継承と変化を知る資料として展示した。*11
この問題は民俗学の内部でも検討されている。菊地暁の博士論文は芳賀を一章の中心に置き、「写真家の〈民俗〉」と「民俗学者の〈写真〉」が一致しないこと、さらに近代の調査・文化財制度が何を「民俗」として対象化するのかを問うている。*19 写真は失われる慣習を受動的に保存するだけではなく、何を伝統として切り出し、名前を付け、比較可能な資料にするかという分類にも参加する。芳賀の大量撮影と整理は、資料数を増やすだけでなく、その分類によって戦後の民俗像を形づくる作用も持った。
大阪万博の仕事はこの問題をさらに露出させる。土地の暮らしから切り離した祭礼を「日本の祭り」「世界の祭り」として同じ舞台へ載せれば、観客は差異を比較しやすくなる一方、誰のための儀礼で、どの季節・場所・共同体に結びついていたかは薄くなりやすい。フィールドで文脈を撮ろうとした芳賀と、万博で祭りを構成した芳賀は切断されているのではなく、戦後日本が民俗を保存しながら同時に展示可能な文化へ作り替えた二つの局面を示している。
この仕事には同時代から批判もあった。菊地の研究は、1971年のフランク・ホーフによる英語版写真集の書評が、「伝統と現代の調和」を強く打ち出す編集によって、祭りが近代社会と衝突する側面や葛藤が弱く見える危険を指摘したことを紹介している。*16 この批判は、芳賀の写真が「失われる美しい日本」の証明へ回収される危険を示している。一方、画面とアーカイブには継承、観光化、制度化、生活の変化も残されており、それらを追跡できる点に現在の資料価値がある。
JPSの回顧展は、芳賀を100か国以上の祭りと民俗を撮影した写真家として位置づける。*12 CiNiiに残る展覧会図録は、その仕事が美術写真だけでなく民俗学・地域研究の領域でも受容されてきたことを示す。*13 Canonフォトコレクションのプロフィールも、1950年代からの民俗撮影と芳賀ライブラリーを一つの経歴として扱っている。*14 芳賀の仕事では、神輿が最も高く上がる瞬間だけが代表作になるのではない。準備、祈り、家々への訪問、直会まで撮り、それを地域・祭礼・年代で引けるよう残したことが、祭り写真を研究と継承に使える資料群へ変えた。
外部者として祭りを撮る――民俗写真の倫理と限界
芳賀は1955〜57年度の奄美調査で学術調査団の一員として地域の外から入り、生活や宗教実践を知りながら撮影範囲を広げた。*3 この位置は、地域の内部者と同じではない。どの儀礼を記録し、どの場面を公開するかは撮影者が選ぶため、民俗写真には記録と同時に外部からの分類が含まれる。
さらに芳賀の比較対象は日本国内だけにとどまらなかった。1985年には文化庁監修『月刊文化財』に「アジアの祭り」を発表しており、祭礼をアジアへ広げて見る関心が確認できる。*17 2017年の集成『写真民俗学―東西の神々』も、世界各地の祭礼を四百点超の写真で比較する構成を採っている。*18 この広がりによって、芳賀の仕事は固定的な「日本人の本質」の探索だけでは収まらず、異なる地域で神、季節、共同体が取る身体的形式を比較する写真民俗学へ展開した。
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
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