岩宮武二は、佐渡、京都、奈良の石仏、庭園、建築、工芸、民具を長期撮影し、『佐渡』『京』『かたち 日本の伝承』などの写真集へまとめた写真家。丹平写真倶楽部と戦後大阪の広告・デザイン文化を背景に、伝統を郷愁の対象として扱わず、石、木、紙、土、線、面、反復、余白という写真の構造として見直した。古建築と無名の日用品を同じ紙面で並べ、用途を越えて線、面、素材を比較させる写真集形式は、その問いへの具体的な答えだった。
岩宮が《かたち》で示したのは、寺社や工芸を全景と由緒で説明する代わりに、格子、縄、石、木組み、紙の折れといった断片を同じ尺度の写真として並べ、日本の造形を比較して見る方法だった。広告写真で培った明晰さと丹平写真倶楽部のモダニズムを背景に、伝統的な対象を写真集の連鎖の中で再編集した。保存と紹介に傾きやすい文化財写真を、戦後の現在から日本文化の根を検証する視覚的な方法へ近づけた。
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岩宮武二は1920年、鳥取県米子市に生まれ、のち大阪を活動拠点とした。FUJIFILM SQUAREのプロフィールは、米子から大阪へ移り、関西写真界で活動を始めた経歴を示している。*1 1940年に丹平写真倶楽部へ入り、戦後は大阪で広告写真と個人制作を並行した。The Third Gallery Ayaは、戦後の《佐渡》から《京》《かたち》へ進む仕事を、京都や古建築の形を手がかりに日本文化の根を探る継続的な探究として整理している。*2
丹平写真倶楽部は1930年代の関西で、新即物主義、構成主義、シュルレアリスムなど海外のモダニズムを吸収し、強い陰影や異化された断片を試した写真集団だった。丸川コレクションの解説は、安井仲治らを含むこの場が、ピクトリアリズムから離れた実験の拠点だったことを示している。*3 大阪府の文化アーカイブも、岩宮の初期作品に抽象性や象徴性があり、戦後関西のモダニズムとリアリズムが交差する場所にいたことを記している。*4
戦後の岩宮は、伝統文化へ一直線に向かったわけではない。The Third Gallery Ayaの略歴は、1951年に瑛九らのデモクラート美術家協会へ参加した経歴を記しており、丹平写真倶楽部に続いて、版画、抽象、実験美術が交差する戦後の前衛的ネットワークにも身を置いていたことがわかる。*2 《かたち》で古い意匠へ向かう選択には、モダニズムと戦後美術を経験した視覚が持ち込まれており、前近代への回帰とは異なる。
丹平写真倶楽部と大阪――伝統を見る前にあったモダニズム
岩宮が寺社や庭を撮るとき、画面には「古さ」を演出する霞や情緒的な人物配置より、柱と影、石と砂、紙と木の境界が前面に出る。東京都写真美術館の《鏡》には、被写体を機能説明から切り離し、面と濃度として見る態度が確認できる。*5 《砂丘》でも同じ造形的な切断が続く。*6 丹平写真倶楽部で培った大胆な切断と強い明暗、広告写真で求められた輪郭の明晰さは、寺社や工芸へ対象が変わっても画面に残っている。
この形成は関西内部だけで完結していない。飯沢耕太郎は岩宮が1954年、オットー・シュタイナートが組織した「Subjektive Fotografie 2」に参加したことを指摘している。*21 シュタイナートの「主観的写真」は、戦後ドイツでバウハウス以来の実験技法を引き継ぎながら、記録の中立性より写真家の個人的な視覚を押し出した国際的な運動だった。*22 また1961年の「現代写真展1960」には、岩宮とともに石元泰博、植田正治、木村伊兵衛、東松照明、土門拳、奈良原一高、細江英公らが出品している。*20 岩宮が後に古建築や工芸へ向かったとき、その眼は「伝統写真」の閉じた領域から始まったのではなく、戦前関西のモダニズムと戦後の国際的な実験写真を通過していた。
なぜ「日本文化のルーツ」を写真で確かめたのか
《かたち》の展覧会で紹介された本人の言葉によれば、岩宮には日本文化の「ルーツ」を写真によって確かめなければならないという切実さがあった。*2 そのため彼の対象は国宝級の建築だけに限定されず、建具、紋様、包装、道具、石、庭の配置などへ広がった。写真は対象の由緒を説明する代わりに、同じ時代を生きる眼が何を「日本の形」として選び直すかを検証する。The Third Gallery Aya英語版も、《Katachi》を古建築から日常物まで形の根を追う仕事として説明している。*7
京都も一度発見して固定した対象ではなかった。FUJIFILM SQUAREの「京のいろとかたち」は、戦後に京都と出会って以後、三十年以上にわたり撮影を重ね、色と形の両面から都市を見続けた仕事として整理している。*17 三十年以上にわたる反復撮影によって、「ルーツの確認」は失われた原型を一度探し当てる作業ではなく、変化する京都の中で継承された色や形を繰り返し確かめる方法になった。
《かたち》――全体像より断片を選ぶ
《かたち》では建築全景を示す写真より、格子、縄、器、紙、木組み、表面の傷や反復が大きく切り取られる。国立国会図書館の書誌は、同シリーズを「日本の伝承」を形の連続として構成した出版物として記録している。*8 英語版《Katachi: Classic Japanese Design》も国立国会図書館に書誌が残り、日本の線、面、素材をデザインの観点から読む出版物として海外へ流通したことが確認できる。*19 CiNii Booksに残る書誌も、この仕事が単発の展覧会作品ではなく出版文化の中で継続して流通したことを示している。*9
広告写真の明晰さと写真集の編集
1955年に岩宮写真事務所を設立し広告写真を手がけた経験は、対象の輪郭を短時間で読ませる明晰さと無関係ではない。FUJIFILMの英語版回顧展は、岩宮を関西の広告写真とファインアートの双方で大きな影響を与えた存在として位置づけ、1954年のカラー作品《Mannequins》なども紹介している。*10 東京都写真美術館所蔵の《マネキン》は、後年の伝統文化だけでは捉えきれない彼の都市的・造形的関心を示す。*11
《かたち》は岩宮一人の本ではない――写真・文章・レイアウト
1962年の初版《かたち》は、岩宮の写真だけで意味が完結する本ではなかった。The Third Gallery Ayaの展覧会資料は、岩宮が約八年をかけて撮影し、古建築から古典芸能、日用品へ対象を広げたことに加え、早川良雄が装丁を担ったことを記している。*2 写真集では岩宮の写真と高階秀爾の文章が組み合わされ、格子、縄、器、石、木組みが互いに似た「かたち」として結ばれる。撮影時の切り取りに加え、どの写真を隣に置き、どこでページを切り替え、文章をどう差し込むかという編集によって、用途も格も異なる物が視覚的な類似と差異の中で読み直される。
《佐渡》《京》《大和の石仏》――土地から形態へ
初期の《佐渡》では人びとの生活、労働、土地の表情がまだ強く、ToMuCoの「行商」には島の社会的な時間が写る。*12 その後《京》《大和の石仏》《宮廷の庭》では、場所の説明より、建築や石像、庭が持つ反復と間隔へ関心が集中する。Art Platform Japanの所蔵情報は、岩宮作品が戦後日本の写真コレクションの中で文化形態とモダニズムをつなぐ資料として位置づけられていることを示す。*13 Canonの「結界の美」展は、庭や建築の境界、奥行き、区切りに焦点を当てて後期作品を再提示した。*14
岩宮の写真は、戦後の「日本紹介」という国際的な文脈にも流通した。高度成長期には、建築、工芸、庭園がデザイン雑誌や海外向け出版物を通じて近代日本の文化資源として再編集された。国立国会図書館には英語版《Katachi: Classic Japanese Design》の書誌が残り、写真集が国内の古美術鑑賞だけに閉じず、英語圏で「日本のデザイン」を見る入口にもなったことが確認できる。*19 細部の明晰さは形の比較を容易にする一方、由来や生活文脈を画面外へ切る。その両面が、近代的な印刷写真が伝統を選択し、新しい「日本像」を作る過程を示している。
石元泰博、土門拳との比較――モダニズムと文化財写真の間
寺社・仏像を撮った点では土門拳、建築を抽象的な線と面として見る点では石元泰博と接点がある。しかし飯沢耕太郎は京都を撮った岩宮と石元を比較し、ニュー・バウハウスで学んだ石元の厳格なフォルムに対して、岩宮の写真には日本の環境の湿り気や感覚的な気配が残ると論じている。*21 岩宮の画面では、モダニズムの切断や反復の中にも、紙、木、石、苔、光の表面に残る素材感が保たれている。土門拳の仏像写真が対象の歴史的・宗教的重みを強く提示するのに対し、岩宮では用途も格も異なる断片を写真集上で並べることによって、「日本」のまとまりそのものが比較の途中で作られていく。
後年の回顧でも、岩宮の仕事は《かたち》だけに限定されていない。光村推古書院の作品集『美とかたち 岩宮武二の仕事』は、大阪、佐渡、《かたち》、京都、宮廷の庭、日本海、アジアの仏教彫刻まで421点で構成し、都市、生活、建築、工芸、宗教空間を横断する視線として再編集している。*18 この広がりから見ると、岩宮の「日本」は閉じた民族的様式というより、土地と素材を移動しながら比較するための出発点だった。
岩宮が撮った「日本」は、戦後の文化再編と切り離せない。近代化と高度成長の中で、伝統は観光、デザイン、輸出文化として大量に再編集されていた。岩宮はその流れの内部に広告写真家として立ちながら、写真の切断と編集によって伝統を再検査した。The Third Gallery Ayaが《かたち》を古建築から日常物まで「形の根」を追う仕事として再提示していることは、文化財の保存記録だけでは収まらないこの方法を示している。*2
1950年代の「伝統論」と《かたち》――戦後の現在から日本を選び直す
《かたち》が構想された1950年代から60年代初頭には、美術、建築、デザインの各領域で「伝統」を戦後の現在からどう読み直すかが大きな論点になっていた。加治屋健司は1950年代の伝統論を、西洋化の過程で克服すべきもの、近代の中で戻るべき根、そして日本の感性を示すものという複数の意味がせめぎ合う議論として整理している。*16 戦後復興と高度成長の入口では、伝統は保存対象であると同時に、現代の造形へ変換される資源でもあった。
同時期、印刷博物館が示すように、1950年代の日本では広告、包装、書籍など印刷物が急増し、伝統工芸から工業製品まで「デザイン」が経済と視覚文化の重要な言語になっていた。*15 岩宮が広告写真に携わった同じ時代、印刷物では製品や文字を明晰に切り分ける視覚設計が広がっていた。《かたち》では、その切断、拡大、反復が、用途も格も異なる物を同じページ幅へ置き、ページをめくるたびに線、面、反復を比較させる形式として現れた。
写真集という単位――一枚の「名作」より形の連鎖
《かたち》の意味は、一枚ごとの完成度だけでなく、写真同士の配列によって形成される。写真集では、器の縁、格子、縄、石、木組みのように由来の異なる対象が、ページをめくるたびに形の類似や差異で連結される。国立国会図書館の書誌は、それが「日本の伝承」を出版物として組む企画だったことを示す。*8 ページ上では名称や用途より先に、円弧、直線、編み目、反復の類似と差異が連続する。広告写真で培った明晰な切り取りと、印刷面で写真同士を組む感覚もこの配列に作用している。FUJIFILMの回顧展は広告と美術写真の双方を岩宮の仕事として扱っている。*10 《佐渡》から《京》《かたち》への変化は、生活の現実を捨てて抽象へ逃れたのではなく、生活の中の形を小さな単位へ掘り下げた過程を示している。*12
英語版《Katachi: Classic Japanese Design》として流通したことで、これらの断片写真は海外では古美術の図版だけでなく、日本の線・面・素材を読むデザイン資料としても受け取られた。国立国会図書館は1999年の英語版をKazuya Takaokaとの『Katachi: Classic Japanese Design』として記録している。*19 後年の海外版カタログでは、紙、木、竹、繊維、土、金属、石など素材ごとに多数の対象を配置する構成が前面に出されている。*19 これは1960年代の制作意図そのものと同一視できないが、岩宮の断片的な写真が、文化財図版を越えて「日本のデザイン」を比較する視覚資料として読み継がれた受容史を示している。
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
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