1870年ロッテルダム生まれのリヒャルト・ポラックは、1910年代前半に17世紀オランダ絵画を思わせる室内を実際に組み、古い衣装の人物を演出して撮影した写真家である。代表作群《Photographs from Life in Old Dutch Costume》では、家具、衣装、モデル、北向きの光、プリントまでを一つの制作工程として統制した。短い制作期を手がかりに、オランダ・ピクトリアリズムが絵画の模倣から「撮る前に現実を作る」写真へ踏み込んだ地点を考える。
20世紀初頭のオランダ・ピクトリアリズムでは、17世紀絵画の主題や構図を借り、特殊印画法や柔らかな階調によって写真を美術へ近づける試みが広がっていた。ポラックはその流れの内部で、プリントだけで古画らしさを作るのではなく、家具、衣装、人物、北向きの光をそろえ、「古いオランダ」の生活空間そのものを撮影前に組み立てた。その重要性は、写真の記録らしさを架空の過去へ与えたことに加え、彼が写した17世紀が歴史そのものではなく、19世紀以降の美術史や文化が作り上げた「家庭的で市民的な黄金時代」のイメージでもあった点にある。《Old Dutch》は、写真が過去を保存する媒体であると同時に、現在が欲する過去の像を現実らしく作る媒体にもなり得ることを示す。後代のステージド写真への直接的影響は確認できないが、オランダの芸術写真が絵画の模倣から、撮影される現実と歴史イメージそのものの制作へ踏み込んだ例として位置づけられる。
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写真を見る経験が制作より先にあった
ポラックは裕福な商業家の家庭に生まれ、写真家として活動する以前から旅先で写真を集めていた。ライデン大学の研究は、1900年に喘息療養で滞在したサンレモで折り畳み式コダックを購入したことを、本人の写真実践の早い契機として記している。 経歴上、ポラックは自作を本格化する以前から写真を収集し、展示していた。写真を撮影作品だけでなく、土地や美術を比較し整理する視覚資料として扱っていたことが確認できる。*1
Rijksmuseumに残るエジプト、シリアの61点のまとまりは、ポラック自身の撮影だけで構成された作品集ではなく、旅先で入手した写真を集めたコレクションである。これらは1890年代からロッテルダムやアムステルダムの会場で展示され、彼が制作以前に写真を「集め、並べ、公に見せる」文化へ関わっていたことを示す。*2
ギリシャの写真と写真機械印刷をまとめた74点の群にも同じ性格があり、写真は旅行の証明、景観の所有、古代遺物の知識を持ち帰る媒体として機能していた。*3
ハウス・マルセイユの展覧会は、19世紀末から20世紀初頭のオランダ人旅行者がエジプトで写真を購入し、旅行経験をアルバムへ構成した文化の一例としてポラックのコレクションを位置づけている。*4
1910年代のオランダで「芸術写真」を作る
オランダのピクトリアリズムは、写真を機械的記録から美術的表現として認めさせようとし、絵画に由来する構図、柔らかな階調、手仕事を伴うプリントを積極的に用いた。ハーグ写真美術館は、17世紀の風俗画やハーグ派絵画がその重要な参照源だったと整理している。 当時のサロンでは、写真家は撮影技術だけでなく、どの印画法を選び、どの展覧会へ送り、どのような額装や複製で見せるかまで含めて「美術としての写真」を組み立てていた。*5
国立美術館の研究書『In Atmospheric Light』も、1890~1925年のオランダ写真におけるピクトリアリズムを、写真家団体、展覧会、印画法、絵画との関係から再検討している。ポラックの制作は、この「写真を美術の制度へ接続する」時代の内部に置く必要がある。*6
「黄金時代」はすでに近代に作り直された過去だった
ポラックが参照したフェルメール、デ・ホーホ、ハルスらの17世紀絵画は、1900年前後の鑑賞者にとって中立的な過去ではなかった。19世紀の美術批評には、17世紀オランダ絵画を「市民的」「プロテスタント的」「写実的」「日常生活の芸術」として整理する、いわゆるHollandismの解釈が蓄積していた。後世の研究は、この「黄金時代」の像自体が19世紀に形成された文化的な枠組みだったことを検証している。*16
《Old Dutch》を17世紀生活の直接的な復元として扱うと、作品が作られた1910年代の文化状況が消えてしまう。1900年前後のオランダでは、工業化や都市化が進む一方、美術やデザインの領域で「真正さ」、伝統的な技術、過去の形式を再評価する動きが生じていた。*17 これはポラック個人の思想を証明する資料ではないが、彼が古画、骨董、衣装を集めて「古いオランダ」の部屋を作った時代に、伝統そのものが近代社会の中で選び直されていたことは確認できる。《Old Dutch》に写る過去は17世紀からそのまま保存された生活ではなく、20世紀初頭の美術史、収集、展示を通して再構成された過去として読む必要がある。
健康上の離職と、撮影のための部屋
1911年、健康上の理由で事業から退いたポラックは、写真へ本格的に時間を向けるようになった。1913年、ロッテルダムのハウトトゥインに北向きの光が入る古い部屋を見つけ、古道具を買い集めて17世紀風の室内へ作り直した。*7
ポラックは古典絵画の雰囲気を、印画紙上のぼかしだけに頼らず作った。家具、衣服、人物の立ち位置、窓からの光までをカメラの前で構成し、写真に写る現実そのものを先に造形した。クリスティーズの作品解説も、この連作のためにロッテルダムのスタジオを17世紀の部屋として再構築したことを確認している。*8
カール・シェンカーから学んだ肖像の仕上げ
1913年9月、ポラックはベルリンの肖像写真家カール・シェンカーのもとで約6週間学び、ネガの修整やスタジオ肖像の実務を吸収した。作品の成立にはオランダ絵画への趣味に加え、国際的なスタジオ写真の技術とサロン文化を直接経験したことが関わる。 PhotoLexiconは、シェンカーのもとでネガ修整を含むスタジオ肖像の技術を学んだことを記している。この修業は《Old Dutch》の制作初期と重なり、古装束の演出に国際的な肖像写真の仕上げ技術が加わった時期として位置づけられる。*9
彼が用いた技法にはブロマイド、ブロモイル、プラチナ・プリントなどが記録されている。階調と紙面の質感を選べる複数の印画法は、セットを撮る行為と最終的な「絵としての写真」の見え方をつなぐ工程だった。*10
《The Letter》をはじめとする初期作は1913年に英国の写真展へ受け入れられ、その後ロンドン・サロンとの関係を強めた。撮影室で作った「古いオランダ」は、ロッテルダムだけの私的趣味ではなく、国際サロンで共有されるピクトリアリズムの言語へ翻訳されたのである。*10
英国のステージド写真と、オランダでの異例性
ポラックの英国での評価は偶然ではない。PhotoLexiconは、英国にはオスカー・レイランダーやヘンリー・ピーチ・ロビンソン以来、複数の人物や場面を組み立てて「写真の前に物語を作る」伝統があり、そのため《Old Dutch》がオランダ国内より受け入れられやすかったと整理している。*19
同じ時期にはF・ホランド・デイがキリスト受難を演じ、グイド・レイが古典絵画を再現し、J・C・ストラウスがフランス・ハルス風の肖像を作っていた。ポラックの特殊性は歴史場面を撮ったこと自体より、オランダの芸術写真では多くの作家が特殊印画法で絵画性を作ろうとした時期に、被写体、衣装、室内、光を先に構築する方法へ比重を置いた点にある。*19
現在V&Aが保管するRoyal Photographic Society旧蔵資料には、ポラックのプリントをまとめた箱と《Photographs from Life in Old Dutch Costume》のポートフォリオが別々に残る。国際サロンで流通した一点作品と、後年に体系化された連作の双方が写真史資料として保存されたことは、彼の仕事が「古画風の一枚」に還元されないことを示している。*20
一枚の写真より、反復される役柄と室内
1913~15年の「Old Dutch」作品では、同じ部屋、同じ時代感を保ちながら人物の役割と場面を変えた。画家とモデル、手紙を読む人物、家庭内の出来事といった題材は、フェルメール、デ・ホーホ、ハルスらの絵画を思わせるが、厳密な再現より「過去らしく見える写真」を連続して作ることに力点がある。*11
ライデン大学の研究は、約75~80点の17世紀風作品のうち65点が、1923年の自費出版ポートフォリオ《Photographs from Life in Old Dutch Costume》に収録されたとする。出版社は美術複製で知られるハンフシュテングルで、F・J・モーティマーが序文を書いた。 この刊行形態では、各写真は単独のサロン作品として競うより、同じ室内、衣装、光を反復する連続画像として読まれる。撮影時の演出と出版時の配列が結びつき、過去の生活を一冊の視覚的な世界として提示する構造になった。*20
クリスティーズに記録された現存ポートフォリオでは、65点はいずれもフォトグラヴュールとして厚紙にマウントされている。写真を一点物のサロン・プリントから、統一した形式で所有・閲覧できる複製作品へ展開した点も、このポートフォリオの役割だった。*12
サロン、写真雑誌、写真クラブを通じた流通
1915年にはロンドンの『The Amateur Photographer』リトル・ギャラリーで個展を開き、展示作の販売収益を英国赤十字へ寄付した。戦時下の慈善活動とサロン展示が接続していたことは、作品の社会的な流通経路を示している。*10
1923年12月にはスミソニアンの写真部門でも《Old Dutch Costume》のプリントが展示され、館内記録はポラックの構図と照明を評価している。英国サロンだけでなく米国の写真機関にも作品が届いていたことが、同時代資料から確認できる。*22
1924年にはニューヨークのカメラ・クラブやロイヤル・フォトグラフィック・ソサエティのギャラリーでも個展歴が記録される。彼の評価は、美術館制度が写真を本格的に収集する以前の、写真クラブ、年次サロン、専門誌のネットワークに支えられていた。*10
オランダ・ピクトリアリズムにおける演出写真の位置
ポラックは1915~16年に健康上の理由でスイスへ移り、ロッテルダムの「Old Dutch」スタジオは解体された。その後も旅行写真や展覧会への参加は続いたが、写真史上もっとも継続して論じられてきたのは短期間に制作された17世紀風作品である。*10
ライデン大学の研究は、彼の歴史場面に図像上の誤読や時代考証の不整合があることも具体的に指摘している。つまり現在の評価は、17世紀生活の正確な復元記録としてではなく、20世紀初頭の写真家が「オランダらしい過去」をどう作ったかという問題へ向かう。 その不整合は失敗として切り捨てるより、同時代の鑑賞者が何を「17世紀オランダらしい」と受け取ったかを検討する手掛かりになる。歴史的正確さより、絵画、骨董、衣装、写真技法を通じて過去のイメージを再構成した点に、この連作の批評的な読みどころがある。*13
ハーグ写真美術館の「Photography Becomes Art」は、ポラックを単独の英雄として扱わず、オランダで写真が芸術として制度化され、新しい写真へ移行していく長い過程の中へ置いている。この見方は、短い制作期間に過剰な影響力を与えずに彼の重要性を測るうえで有効である。*14
国立美術館が写真史資料として旅行写真コレクションまで保存していることも、ポラックを「作品を撮った人」だけに限定しない。写真を収集し、展示し、自作を国際サロンへ送り、複製ポートフォリオに編集した一連の行為から、20世紀初頭の写真文化が美術、旅行、コレクション、出版を横断していた構造が具体的に見える。 制作以前の収集と、制作後の展覧会・出版を同じ経歴の中で見ると、ポラックの短い写真活動は、写真が「撮るもの」「集めるもの」「複製して流通させるもの」の三つを往復していた時代を凝縮している。*15
歴史再現の正確さより、「過去らしさ」がどう作られたか
ライデン大学が指摘する衣装や図像の時代的不整合は、この連作を歴史資料として弱くする一方、写真史的には重要な別の問題を示す。後世の研究が「黄金時代」の記憶そのものを文化的構築物として検討していることを踏まえると、ポラックの写真は17世紀を保存した像というより、20世紀初頭が17世紀に期待した秩序、室内、身振りを写真の現前感で固定した像になる。*18 ここに、古画に似ているという表面的な評価を越えた批評的な位置がある。
新即物主義以後の批判とステージド写真からの再評価
新即物主義やニュー・フォトグラフィーが、レンズの鮮明さ、機械的視覚、現代の素材を写真固有の価値として押し出すようになると、ポラックの古装束と演出は「写真に本来必要のない絵画模倣」と見なされやすくなった。PhotoLexiconは、戦後の写真史家ヘルムート・ガーンズハイムがこうした作例を趣味の逸脱として厳しく退けたことまで記録している。*21
しかし後世にステージド写真や画像操作が主要な制作方法として定着すると、同じ人工性は別の問題を持つようになった。ポラックを現代的ステージド写真の直接的な祖とする根拠はないが、写真の「現実を写したように見える力」が、実際には撮影前の設計によって作られ得ることを早い段階で露出した例として再評価できる。*21
- アンリ・ベルセンブルッヘ
- カール・シェンカー
- ハインリヒ・キューン
- ピクトリアリズム
- ロンドン・サロン・オブ・フォトグラフィー
- オランダのアマチュア写真文化
- 17世紀オランダ風俗画
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
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