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PHOTOGRAPHERS/PHILIPPE TERRIER-HERMANN ·コンセプチュアルアート ·UPDATED 2026.08
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§ 239 — Photographer Index — コンセプチュアルアート

フィリップ・テリエ=エルマン

Philippe Terrier-Hermann 1970–
Countryフランス Period1990–2000s Channelイメージを疑う · CONCEPTUAL
Abstract

フィリップ・テリエ=エルマンは、俳優、旅、観光地、ホテル、広告面、マーケティング調査を使い、映画や広告が現実の見え方を先回りして形づくる状況を写真と映像で扱う作家。Intercontinental、《106 beautés japonaises》《The American Tetralogy》《La trilogie française》を通して、欲望、国民イメージ、土地の記憶と写真のフィクションを検討する。

この写真家が変えたこと

1990年代以後の演出写真では、映画の照明や構図を取り込み、一枚の写真を映画のようなタブローにする方法が広がった。テリエ=エルマンがそこへ加えたのは、映画や広告を「見た目の引用」として使うより、人が美、成功、権力、場所を判断するための既成の脚本として扱う視点である。彼は写真を、現実をそのまま記録する媒体ではなく、何を画面に入れ、何を画面外へ残すかによって観客に物語を作らせる断片だと考えた。以前が「映画のような写真」だとすれば、彼の中心には、私たちの現実の見方自体がすでに映画、聖像、広告、ブランドによって演出されているという問題がある。

Keywords Intercontinental 106 beautés japonaises La trilogie française 映画と写真 ステージド写真 社会的コード
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目次 · Table of Contents
§ 01 / 04 背景と時代

絵画から写真へ――「表象」を自分の時代の速度で扱う

テリエ=エルマンは1970年フランス生まれで、ルーアンの美術学校、School of the Art Institute of Chicagoを経て、Rijksakademie van Beeldende Kunstenで《Intercontinental》(1996–2000)を制作した*24。本人によれば、青年期から絵画とファッションを通して「表象」を考えていたが、現代の現実に似た像を絵画で作ることに行き詰まり、写真なら自分の時代とより直接つながれると考えた*25。1980〜90年代のフランスでは写真界と現代美術界の分離が強かった一方、北米ではジェフ・ウォールやアンドレス・セラーノの大型写真が現代美術として展示されており、それを理解することも渡米の理由だった*25。Villa Mediciの略歴は、その後ローマ、パリ、東京など複数都市で制作した経歴を示す*3。Fondation Pernod Ricardの展覧会歴からは、2000年代以降も写真と映像を横断して発表を続けたことが確認できる*4。pointligneplanの記録でも、写真シリーズと映画制作は同じ実践の中に置かれている*5。写真の選択は、絵画で考えていた「人は像をどう信じるか」という問題を、同時代の画像環境で扱うための転換だった。

ジェフ・ウォール、アンドレス・セラーノ、ルネサンス絵画――構成された現実

本人が同時代の写真家として明確に挙げる参照点はジェフ・ウォールとアンドレス・セラーノであり、とりわけウォールについては、絵画、版画、映画までを横断する「イメージの文化」を持つ作家として評価している*25。一方、画面構成の根にはルネサンス絵画があり、カラヴァッジョ、グリューネヴァルト、クラナッハ、デューラー、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールなど、人物配置、明暗、聖と俗の混在に強く惹かれてきたと語る*25。彼自身の定義では、写真は「現実の断片」であると同時に、その断片をフレーミング、光、被写界深度、画面外によって作り直す「現実の演出」でもある*25。この理解によって、ドキュメントと演出は対立しない。現実を写した写真にもすでに選択と構成があり、その選択がどんな文化的コードを呼び出すかを作品の材料にできるからである。

1990年代以後の「写真タブロー」と、グローバルに流通する場所のイメージ

CNAPは、映画やテレビの俳優を撮影現場のスチルのように演出し、存在しない映画のイメージを広告用掲示面へ返す仕事として彼の写真を説明している*1。Gallifet Art Centerも、映画、テレビ、広告が作る権力、美、成功の典型と制作を結びつける*2。Hilde Van Gelderは2001年の《Internationales》所収論文で、その写真と映像を「photographic and video tableaux」の問題として論じており、1990年代以降に写真と映画的タブローが接近した文脈を示す*22。Masha Tupitsynは《The American Tetralogy》を、映画、写真、広告から身振りや欲望を学び、現実生活がスクリーン上の像を反復する状況として読む*21。Centre Pompidouも、写真と映像に共通する関心を、社会に流通する「典型」への魅惑と条件づけに置いている*23。背景にあるのはステージド写真と映画の接近に加え、都市、観光地、人物像が広告やライフスタイルの既成イメージとして国境を越えて消費される環境だった。

§ 02 / 04 表現の核心

Intercontinental――映画、広告、ホテルが作る「望ましい現実」

1996年頃からのIntercontinental/Internationalesでは、国際都市、ホテル、近代建築、洗練された人物像が、映画や広告のような既視感を伴って配置される。Fundació Mies van der Roheでの《Internationale》は、ミース・ファン・デル・ローエ・パヴィリオンを写真作品のショーケースとして使い、建築のモダニズムと商品展示の美学を重ねた*6。このシリーズでは、豪華な場所を批判的に暴くこと以上に、見る側が「成功」「美」「国際性」をどのような画面から学んできたかが問われる。Centre Pompidouも後年の紹介で、彼の制作を魅惑と条件づけ、映画・テレビ・広告の典型的イメージとの関係から説明する*7

聖像からブランド、広告へ――「価値が宿る画像」を追う

映画や広告への関心には、それ以前から続く「聖像」の問題がある。美術学校時代、テリエ=エルマンは東欧で聖母像などを撮り、その写真を安価な宗教グッズのように販売したところ、同じ画像が信仰対象、観光土産、若い作家の作品という異なる価値を帯びたと語っている*25。そこから作者名、ブランド、購入場所が物の価値を変える現代社会と、宗教画像が信仰によって価値を得る仕組みを連続して考えるようになった*25。《Intercontinental》が写真から家具、衣服、香水、陶器へ展開し、作家名を生産ブランドのように機能させたことは2001年の同時代評にも記されている*26。ホテル、俳優、高級消費、映画は別々の題材ではなく、制度、作者名、場所、既視感が画像や対象へ価値を与える仕組みを調べる連続した実験だった。

映画は題材ではなく、観客が物語を補うための既成の脚本になる

FRAC Franche-Comtéは、彼の仕事における映画を、モデルやセレブリティを生産し、グローバル化した欲望を方向づける装置として位置づける*8。本人は写真をシリーズで並べる理由を、画像と画像の「あいだ」を観客が埋め、数枚のスチルから見ていない映画の物語まで作れる点に求めている*25。初めてカリフォルニアへ降り立った際、映画画像の蓄積によって街も人の身振りも撮影セットのように見えたという経験も《The American Tetralogy》の背景にある*25。Masha Tupitsynも、現実生活が映画、写真、広告から学んだ身振りや欲望を反復する構造として同作を論じている*21。「映画的」とは照明や画角だけでなく、観客が画像の隙間へ既知の物語を補ってしまう働きまで含む。

《106 beautés japonaises》――「日本の美」を市場調査の手続きで作る

《106 beautés japonaises》では、パリにいる日本関係者約100人へ「日本の美」を代表する場所や概念を尋ね、その回答をもとに撮影対象を決めた。CNAPはこの工程を一種の意識調査、マーケティング調査のフィルターを通した美的な宝探しとして説明し、19世紀の写真旅行を現代の社会・経済状況へ更新する試みと位置づけている*9。Paris Artに掲載された作家の説明も、個人的な直感で「日本らしさ」を選ぶのではなく、他者の推薦によって国民的イメージが組み上がる方法を示す*10。ここでは撮影技法より、誰が何を「美」と認定するのかという選択の制度が写真の前段に置かれている。

§ 03 / 04 代表作・方法・媒体

《Romans / Fascination》――ローマの男性像、聖性、権力

Villa Medici滞在期の《Romans / Fascination》は、ローマの男性肖像を中心に構成された。本人は、美術館や都市空間で男性の裸身、筋肉、権力の象徴が前景化されていることに気づき、現代の男性像を歴史的表象と照合するために撮影したと説明している*25。俳優、映画関係者、聖職者、政治家らがカメラの前で自発的に「最もよく見える姿」を演じたことから、権力や魅力を持つ人自身が自己演出のコードを身につけている状況も作品へ入った*25。本人はさらに、ローマ、カトリックの聖性、ファシズムの身体崇拝を「人を惹きつけるイメージ」の問題として関連づけている*25。CiNii Booksは同書を男性肖像を主題とする展覧会カタログとして記録する*11。Van Abbemuseumは《106 beautés japonaises》関連刊行物を所蔵している*12。ARTBOOKの《93 Beautés Hollandaises》の書誌からは、人物・場所・文化的典型を別地域でも比較したことが確認できる*13

《La trilogie française》――現実の風景へ映画の記憶を挿入する

2013年の公共写真委嘱《La trilogie française》では、映画やテレビの俳優をフランス各地の風景へ置き、撮影現場のスチルのような写真を大型広告面やポストカードで流通させた。CNAPの「En situations」は、公共空間に掲出される写真としてこの仕事を紹介する*14。Paris Artは、展示が撮影地から生まれた写真を再び都市空間へ戻し、写真の制作・掲示・流通を一つの工程として扱ったことを記録している*15。MAC VALの解説は、映画によって記憶されたフランスの土地に俳優、演技、フレーミング、自然光を組み合わせ、実在の場所へフィクションを注入する構造を明確にしている*16

本と公共空間――写真を「シリーズ」として社会へ流す

Les presses du réelの作家ページは、《106 beautés japonaises》《The American Tetralogy》《La Trilogie française》など、写真集と映画・プロジェクトが同じ制作史の中で連続していることを示す*17。一方、《La trilogie française》は四メートル×三メートル級の掲示面やポストカードで都市に現れた。つまりテリエ=エルマンは、ギャラリーの壁だけで意味が完結する写真を作るより、旅行写真集、広告面、映画上映、公共空間といった既存の流通形式を利用し、その形式が写真の読み方をどう先回りするかを作品にしている。書籍と屋外掲示で同じ写真を見ると、写真そのものが変わらなくても、観光案内、広告、映画宣伝、作品という制度的な読みが入れ替わる。

§ 04 / 04 批評と写真史上の位置

「演出写真」だけでは捉えにくい、制度としてのフィクション

《La Trilogie française》の刊行物は、公共委嘱で制作された写真を本へ戻し、撮影地、俳優、映画的な参照を再び一つの連続として読ませる*18。《The American Tetralogy》の書籍化も、カリフォルニアをめぐる映画的クリシェと現実の風景を、映画上映だけでなくページの配列によって検討する形式になっている*19。写真集と映画の往復から見えるのは、現実が中立な素材としてカメラの前にあるという想定より、現実を見るためのモデルが社会に先に流通しているという認識である。テリエ=エルマンにとってシリーズとは、同じ主題を増やすための単位ではなく、場所と人物が既成のイメージへ吸着していく過程を比較するための単位だった。

写真史上の位置――「映画のような写真」から、画像が人を条件づける問題へ

2007年の国際的な写真動向をまとめた『Photo Art: Photography in the 21st Century』にもテリエ=エルマンは収録されており、写真と現代美術が混じり合う時代の作家として位置づけられている*20。彼の作品をジェフ・ウォール以後のシネマティックな演出写真の一例だけで終わらせると、重要な点が抜ける。テリエ=エルマンは、映画の構図を写真へ輸入しただけでなく、映画、広告、観光、マーケティングが「美しい場所」「成功した人」「その国らしいもの」をあらかじめ分類している状況を制作工程へ入れた。だから写真は現実とフィクションの中間にあるのではなく、現実がフィクションの型に沿って知覚される過程を検査する装置になる。

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