高梨豊(1935–)は東京生まれの写真家で、日本大学で写真を学びながら、広告・デザインの仕事と作家活動を並行した。1968年に中平卓馬、多木浩二、岡田隆彦らと『PROVOKE』を創刊し、1974年に写真集『都市へ』を刊行。1970年代後半からは『町』で4×5カメラとカラーへ転じ、東京を異なる速度と機材で撮り続けた。
高梨豊は、東京の変化に合わせて撮影方法そのものを組み替えた。《東京人》では広告写真で培った精密な構図を使い、1968年の『PROVOKE』では35mmで移動する街路へ反射的に応答する。1974年の『都市へ』では粗粒子の大判本に《東京人》の小冊子を入れ子にし、1970年代後半の『町』では4×5カメラ、三脚、カラー、最長約20分の露光へ移った。高梨の一貫性は、都市の状態ごとに撮影速度、機材、写真集の構造を選び直す態度にある。35mmの速写は流動する街路へ身体で反応し、4×5の長時間露光は立ち止まって街区の細部を拾う。戦後東京は、成長、停滞、消失が入れ替わる複数の時間として写し分けられた。PROVOKE、『都市へ』、『町』の方法差そのものが、高梨の都市認識を構成している。
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目次 · Table of Contents
広告写真と《東京人》——PROVOKE以前の精密な設計
高梨豊は1935年東京生まれ。日本大学で写真を学び、広告・デザインの仕事と並行して都市へレンズを向けた。その歩みをFondation Henri Cartier-Bressonの回顧展は、《東京人》から『町』へ連なる制作史として捉える。*1 Taka Ishii Galleryの経歴資料では、広告写真、作家活動、東京造形大学での教育が長く並走する。*15 PROVOKE以前の《東京人》では、人物、街路、店舗を比較的明晰な画面で捉え、東京という都市を生活者の集合として見ていた。東京都写真美術館所蔵の《東京人》には、後年の粗粒子写真と対照的な、高梨の精密な構成が見える。*4 国立美術館所蔵の《浅草寺、東京人》は、場所を特定できる都市の断面を精密に捉える。*8 商業写真で培った統制と設計の技術は、PROVOKE期の偶発性と鋭い対照をなす。 1966年には東京国立近代美術館「現代写真の10人」に《Otsukaresama》《東京人》を出品。同年1月号の『カメラ毎日』では、《東京人》が36ページを占めた。*26 PROVOKE以前から、美術館展示と長い雑誌ページの双方で東京をシリーズとして構成していたのである。広告で被写体と印刷結果を統制していた高梨にとって、PROVOKEで受け入れたブレ、粗粒子、切断は、撮影者の計画から像がこぼれる経験だった。《東京人》の明晰な画面と並べると、その転換が具体的に見える。
PROVOKE——都市の速度に反応するカメラ
1968年、高梨は中平卓馬、多木浩二、岡田隆彦と『PROVOKE』を創刊し、森山大道が第2号から参加した。 高梨はその前に約7年間、商業写真家として成功しており、PROVOKEの反抗的な出版環境へ参加したこと自体が大きな方法転換だった。*24 従来は鮮明さと細部描写が写真の基準とされた。東京都写真美術館は、アレ・ブレ・ボケがこの規範を揺さぶったと論じている。*25 MoMAは副題「思想のための挑発的資料」を、写真と言葉の既存関係を揺さぶる出版実践として読む。*10 研究図録『Provoke: Between Protest and Performance』は、雑誌3号を当時の出版文化へ置き直す。抗議写真、前衛美術、批評理論、パフォーマンスが交差する状況まで射程に入る。*29 高梨のアレ・ブレ・ボケは、既存のドキュメンタリーと言語の関係を出版物のページ上で揺さぶる、一時的な方法として働いた。 高梨は創刊メンバーとして、移動中に切断される像を誌面へ持ち込み、都市を断片の連続として捉えた。Japan-photo.infoのインタビューで、高梨はPROVOKE以前の考えを振り返る。当時は写真を言葉で解釈し、自ら制御できると考えていたが、PROVOKEを経ることで、写真にはその制御からこぼれる断片があると捉え直した。*12 その認識が、ピント、粒子、水平を整える広告写真とは逆に、ブレた輪郭や粗い粒子、切れたフレームを誌面へ残すPROVOKE期の画面へつながった。
「ハンター」と「スクラップ・ピッカー」——速度を切り替える二つの撮影態度
高梨は自らの撮影態度を「hunter(狩る者)」と「scrap picker(拾う者)」に分けた。Fondation Henri Cartier-Bressonも、この二つを制作史の軸に据える。*2 自動車や徒歩で移動しながら瞬間へ反応する撮影と、場所へ留まり、すでにそこにあるものを拾い上げる撮影では、機材に加えて都市への接し方そのものが異なる。高梨にとって東京は、建設、解体、広告、交通、群衆によって表面が絶えず書き換えられる環境だった。 東京の人口は1962年に1,000万人を超え、1964年には東海道新幹線と首都高速道路の整備が東京オリンピックと重なった。*27 1970年代には公害と騒音、1973年の石油危機が都市の成長像へ別の輪郭を与える。高梨が撮影速度を変えていく背景には、都市そのものの更新速度の変化がある。SFMOMAの作家資料も、戦後東京の急速な変化を長期的に撮った仕事を作家紹介の中心に置いている。*3 近づく、遠ざかる、車窓から見る、立ち止まるといった複数の身体位置が、変化し続ける都市を捉えるための方法となった。Photographers’ Galleryでの吉増剛造との対話では、写真を「光の断片」として受け取る姿勢が語られる。都市での遭遇そのものが、作品の出発点となる。*14 「狩る」と「拾う」は、都市の時間に応じて撮影者の反応速度を変える二つの態度を表している。
PROVOKE以後——画調を捨てても残った断片の思考
PROVOKE後、高梨は撮影速度と画面の精度を大きく変え、粗粒子やブレを署名的な様式として反復せずに別の方法を選んでいく。その転換をJapan-photo.infoの連載は、インタビューと出版物から追っている。*11 《東京駅》のような後年作品では、駅と周辺都市が比較的静止した構図で捉えられ、PROVOKEの外見から大きく離れる。*5 画調が変わった後も、断片同士を関係づけながら都市を組み立てる姿勢は続いた。1978–83年の《東京人》作品にも、異なる時間と距離の人物や場所を並べる方法が見える。*6 《東京駅》の静止した構図や1978–83年の《東京人》では粗粒子とブレが後退しても、異なる場所・時間の断片をシリーズや写真集で隣り合わせる編集は残った。
『都市へ / Toshi-e』——二つの東京を一冊で対置する
1974年の写真集『都市へ(Toshi-e)』は、高梨の代表作であり、PROVOKE以後の都市写真を写真集の構造として完成させた。Christie’sの書誌・出品資料は、初版の装丁とページ構成を伝える。*18 ARTBOOKの復刻紹介も、日本写真集史の重要作としてその編集を扱っている。*19 『都市へ』は、粗く暗い都市の写真を収めた大判本に、より早い時期の《東京人》を収めた小冊子を組み合わせた二重構造を持つ。 この二重構造は、高梨とデザイナー杉浦康平の編集上の折衝から生まれた。高梨は《東京人》を黒くつぶして『都市へ』へ入れる案を考え、杉浦の提案を受けて別冊として残した。*28 さらに冒頭では同じ像を露光過多の白から徐々に見える状態へ変え、都市像が現れる過程そのものをページで組み立てている。Plac’Artの日本写真集資料も、大判本と小冊子による二重構造を同書の中心的な特徴として挙げている。*20 2010年の『Yutaka Takanashi: Photography 1965–74』は、《東京人》と『都市へ』を二つの方法として並べる。『都市へ』はPROVOKE期の頂点であり、その後へ向かう転換点でもある。*30 場所を明示する《東京人》と、方向感覚を断つ『都市へ』の差に、高梨の柔軟な方法転換が現れる。 名前や場所を持つ東京と、断片化して方向を失う「都市」が物理的に別冊となり、読者は二つの視覚経験を行き来する。サイズ、印刷、見開き、冊子の入れ子までが作品の意味を担い、同じ東京が視点によって異なる都市像へ変わることをページの構造として体験させる。アレ・ブレ・ボケの画面と写真集の物理的な設計が結びつくことで、『都市へ』固有の読み方が生まれている。 金子隆一とアイヴァン・ヴァルタニアンは、当時の日本で写真集が主要な作品流通の形式へ成長した過程を論じる。デザイン、印刷、紙まで含む本の構造が、写真作品の成立に深く関わった。*31 『都市へ』の判型、別冊、見開きは、写真がどの順序と物質性で成立したかを示す作品本体の要素である。
『町 / Machi』——4×5カラーと長時間露光への転換
1970年代後半、高梨は戦前から残る東京の街区や店舗を《町》として撮り始め、35mmの移動撮影から4×5カメラ、三脚、カラーへ方法を変えた。Japan-photo.infoは、被写体によっては20分ほどの露光を行い、「scrap picker」の態度で消えゆく町を確かめながら記録したことを紹介する。*13 Zucker Art Booksは、『町』を大判カメラと長時間露光による精密な色彩記録として扱う。*21 『町』への転換は、対象となる都市の時間に合わせて撮影方法を選び直した結果だった。高速で変形する都市を車から反射的に撮るときと、取り壊される前の古い建物を正面から残すときでは、必要なカメラの速度が違う。IBASHOの『Machi』紹介は、カラーの建築・街路写真が1970年代東京の消えつつある層を記録したことを強調している。*22 東京都写真美術館の《伊勢丹地下》では、商業空間を細部まで見える画面で記録している。*7 国立美術館所蔵の《ゴールデン街、Text of City: Shinjuku》は、のちの都市断片のシリーズへ方法が続くことを示す。*9 高梨は、被写体に応じて撮影の速度と精度を選び直すこと自体を制作の原則としていた。
中平卓馬との比較——方法を自己批判する二人
『PROVOKE』を創刊した中平卓馬と高梨豊は、既成の写真言語で都市を捉える方法そのものを問い直した。その後、中平は『なぜ、植物図鑑か』でアレ・ブレ・ボケを自己批判し、対象ごとの差の記録へ向かう。一方、高梨は35mmの「ハンター」と4×5の「スクラップ・ピッカー」を併存させ、撮影速度そのものを対象に応じて切り替えた。高梨の場合、広告・商業写真で得た精密な設計能力とPROVOKEの偶発性が、その後も一つの制作の中で併存した。Fondation Henri Cartier-Bressonは、この両極を二組の対概念で読む。「poetry and realism」と「mirror and window」である。*1 Le Mondeの2012年展評も、高梨の都市写真を、複数のシリーズを通して東京を見続けた長期的な仕事として紹介した。*23 近年の再評価は、PROVOKE参加後に撮影方法を変え続けた制作史へ重心を移している。 フェルディナント・ブリュッゲマンの『Towards the City』論は、『都市へ』から『町』、新宿のバーを撮った未刊行シリーズまでを追う。PROVOKE後の方法転換が制作史の中心に置かれる。*32 高梨はPROVOKEの語法を一つの到達点としながら、都市の変化に応じて撮影方法を再設計し続けた。
森山大道、東松照明との比較——都市写真の異なる速度
森山大道が粗粒子と路上の反射的撮影を作風として定着させたのに対し、高梨は同じPROVOKE経験から出発しながら、後年は撮影速度を大きく落としていく。東松照明は占領、基地、長崎、沖縄など戦後社会の断片を先行して撮り、複数の像から都市や社会を捉える方法を展開した。その文脈を受けた高梨は、写真集の二重構造と撮影方法の切り替えを制作の中心に据える。2009年の東京国立近代美術館「光のフィールドノート」展は、PROVOKEからその後のシリーズまでを長期的なフィールドワークとして再構成した。CiNii Booksには同展図録の書誌が残る。*16 筑波大学のポスター資料にも、展覧会の構成が記録されている。*17 高梨は、身体の速度、カメラの大きさ、露光時間、ページ編集を都市の状態に応じて変えた。方法を選び直す行為そのものが、都市を理解する手段となっている。
- 中平卓馬 ― 『PROVOKE』創刊を共有。中平が対象ごとの差の記録へ向かったのに対し、高梨は複数の撮影速度を往復した
- 森山大道 ― 『PROVOKE』第2号から参加。粗粒子の路上写真を持続した森山に対し、高梨は大判・カラーへ方法を切り替えた
- 東松照明 ― 戦後社会の断片を先行して撮った世代。高梨はその都市感覚を受けつつ、写真集構造と機材変更を制作の核にした
- PROVOKE ― 写真を既成の説明から解放し、「思想のための挑発的資料」として印刷物に置いた雑誌。高梨の方法転換の起点となった
- 高度経済成長期の東京 ― 建設、解体、交通、広告が都市表面を高速で更新した。その速度が35mmの反射的撮影と4×5の停滞を使い分ける背景となった
- 日本の写真集文化 ― 『都市へ』では大型本と小冊子の判型差、見開き、ページ順が意味を担う。単写真と同じ重さで本の構造を扱う文脈
大判の『都市へ』と《東京人》の小冊子を入れ子にし、二つの東京像を判型とページ構造そのもので対置した代表作。
4×5カメラ、三脚、カラー、長時間露光へ切り替え、消えつつある街区に撮影速度を合わせたシリーズ。PROVOKE後の方法転換を最も明瞭に示す。
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
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