森山大道(1938–)は大阪府池田町(現・池田市)生まれ。商業デザインを経て写真へ進み、1961年に上京して細江英公の助手を務め、1964年に独立した。『にっぽん劇場写真帖』『PROVOKE』『写真よさようなら』『記録』を軸に、東京や日本各地の路上、広告、テレビ、印刷物を、小型カメラによる粗粒子・ブレ・高コントラストの像へ変換してきた。撮影、移動、雑誌、写真集、複製を一続きの実践として扱った点が、戦後日本のストリート写真と写真集文化の双方に大きな影響を与えている。
1960年代の日本では、報道写真や商業写真に明瞭さ・再現性・説明力が強く求められていた。森山は『PROVOKE』以後、粗粒子、ブレ、ピンぼけ、傾いた構図、印刷による像の荒れを排除すべき失敗ではなく、都市を歩く身体と不安定な知覚を伝える要素として使い続けた。「よく写っていること」を中心にした写真の価値基準へ、写りの不確定さ、撮影者の移動、既存イメージの複製までを持ち込み、評価軸そのものを組み替えたことが具体的な転換である。さらに雑誌や写真集で像を反復・再編集したことで、一枚の完成作だけでなく、ページの連なりや印刷の質まで作品の意味に含めた。この転換が重要なのは、後のストリート写真やフォトブックに、技術的完成度ではなく知覚・編集・複製の過程から都市を捉える強い先例を残したからである。
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森山大道の経歴と1960年代東京
森山大道は1938年、大阪府池田町(現・池田市)に生まれた。商業デザインを学んだのち岩宮武二のスタジオで写真に触れ、1961年に東京へ移った。写真家集団VIVOへの参加を望んだ時にはすでに解散へ向かっており、細江英公の助手となって『薔薇刑』の制作期にも立ち会った。1964年に独立し、米軍基地周辺や劇場、街路を写真雑誌の仕事として撮り始める。森山大道写真財団の年譜は、この時期に中平卓馬との交流が始まったことも記している。*3
1968年、寺山修司の文章と組んだ最初の写真集『にっぽん劇場写真帖』を刊行し、同年『PROVOKE』第2号から参加した。1970年には「まずたしかならしさの世界をすてろ」を発表し、1972年には『写真よさようなら』『狩人』を刊行、同年7月には私家版の雑誌『記録』を創刊して1973年までに5号を出した。展覧会より先に、雑誌、写真集、移動しながらの撮影、再撮影と印刷によって方法が形成された点は、森山を「街を撮る写真家」だけでなく、写真が流通する形式そのものを扱った作家として理解するうえで重要である。*22
初期の視覚形成には、岩宮や細江だけでなく、VIVOを通じた東松照明、中平卓馬、さらにウィリアム・クラインやロバート・フランクの写真集が重なっていた。Fondation Cartierは、森山が小型カメラを身体の延長のように用い、都市を移動しながら撮る方法を発展させたと整理している。こうした系譜を踏まえると、「アレ・ブレ・ボケ」は一つの流行様式から突然生まれたのではなく、戦後のドキュメンタリー、写真集、路上のスナップを横断しながら形成されたと捉えられる。*24
森山の1960年代後半を、後年確立した「森山大道らしい画面」から逆算すると、初期の試行錯誤が見えにくくなる。Philip Charrierは1966〜72年の形成期を、寺山修司との協働、『アクシデント』『何かへの旅』などの雑誌連載、初期写真集の制作過程から検討し、森山の写真に、冷たく真正な記録としての写真と、外界との接触を感情的に再現する像との緊張があったと論じている。*27 この緊張を押さえると、粗粒子やブレは最初から完成した署名ではなく、報道的な「事実」と身体的な経験の双方を写真に残そうとする過程で形成されたものとして読める。
Jan-Frederik Rustの博士論文は1965〜78年の写真集と雑誌仕事を、個々の写真だけでなく、編集、ページ順、印刷、協働、既発表写真の再利用まで含めて分析している。*26 『にっぽん劇場写真帖』『写真よさようなら』『狩人』を展覧会用プリントの容器としてではなく、それぞれ異なる編集論理を持つ作品として扱うこの研究は、森山にとって写真集が二次的な発表形式ではなく、写真の意味を組み替える制作現場だったことを裏づける。
『PROVOKE』と写真固有の言語
森山大道はプロヴォークと深く結びつけられるが、それだけで説明すると、雑誌、写真集、路上、複製メディアへ広がる仕事の射程が狭くなる。プロヴォークは1968年に中平卓馬、高梨豊、多木浩二、岡田隆彦らによって創刊された実験的な写真誌で、副題に「思想のための挑発的資料」を掲げ、森山は第2号から参加した。*4 プロヴォークが求めた「写真固有の言語」は、難解な理念というより、言葉で説明しきれない時代の感覚を、写真の物質的な要素によって直接読ませる試みだった。粒子が荒れる、画面が傾く、焦点が外れる、紙面で隣の写真と衝突する、複製で像が劣化する。こうした現象が意味を運ぶとき、写真は文章の挿絵ではなく、写真として考えるための媒体になる。Apertureのインタビューでサイモン・ベイカーは、プロヴォークの写真を、客観的に説明する媒体ではなく、1960年代末から1970年代初頭の東京で生きられた経験を示す、主観的で表現的な媒体として説明している。*5 森山自身も『Accident』をめぐる文章で、写真は真実を記録する一方で嘘でもあり、その矛盾を抱えたまま言語を超えて「ひとつの言語」になると述べている。*6
『PROVOKE』の理論的背景も、単純な反体制運動として整理するだけでは足りない。Philip Charrierは多木浩二の1967〜68年の議論を、構造主義や記号論を取り込みながら、都市環境に埋め込まれた権力と知の関係を、既存の言語コードに回収されにくい写真によって露呈させようとする試みとして分析している。*29 この方法には逆説もあった。カメラを意図的に「誤用」して読みやすいコードを壊そうとしたアレ・ブレ・ボケは、普及するほどそれ自体が新しい様式として認識されるようになった。森山を理解するには、その見た目を模倣可能なスタイルとして評価するだけでなく、スタイル化そのものと衝突していた運動として読む必要がある。
Gyewon Kimは1960年代日本の前衛写真を、撮影された都市だけでなく、紙、印刷、誌面という写真の物質的条件から検討し、『PROVOKE』が従来の報道写真と素朴なリアリズムを退けながら、前衛的実験とドキュメンタリーを社会批評の方法として接続しようとしたと論じている。*30 森山の写真で粒子、黒つぶれ、ページをまたぐ連なりが重要なのは、都市を写した「内容」に加えて、都市の速度や断片性を印刷物の物質として再構成しているからである。
高度成長期の視覚文化と『PROVOKE』
プロヴォークの挑発が必要だったのは、戦後復興から高度成長へ向かう日本で、写真が報道の分かりやすさや広告の消費イメージに吸収されやすくなっていたからである。MoMAは、プロヴォークのアレ、ブレ、ボケが、当時の公共イメージと鋭く対立し、欧州風の堅実なフォトジャーナリズムや直截的な商業写真に寄りがちだった日本の写真文化を揺さぶろうとしたと説明している。*4 つまり、粗い粒子や不安定な構図は、ただ乱暴に撮った結果ではなく、広告や雑誌が作る分かりやすく整理された消費イメージに対して、路上で感じる不安、欲望、偶然、政治的緊張を押し戻すための方法だった。The Photographers’ Galleryも、森山の60年以上の仕事を「写真を見る方法を問い、写真そのものの性質を問い直した」実践として紹介している。*7
森山自身の回想も、この時代背景を政治的スローガンへ単純化しないために重要である。SFMOMAのインタビューで森山は、ベトナム戦争期の横須賀から1970年頃まで、日本の若い表現者の間に自分のジャンル、世界、政治への反抗や批判の感覚が共有されていた一方、自身は直接的な政治メッセージを表すより、日常の中から生じる反抗と批判の感覚に動かされたと語っている。*31 したがって森山の粗い像を政治状況の図解とみなすより、政治化した社会を身体で通過したときの不安定な知覚が写真の形式へ入り込んだものとして考える方が、本人の説明にも近い。
アレ・ブレ・ボケと都市の知覚
森山の粗い粒子、強いコントラスト、傾いた構図、手ブレやピンぼけは、都市をきれいに整理して見せる技法ではなく、街で出会う対象との近い距離や、撮影時の動きを画面に残す方法だった。Fondation Cartierは、森山が小型カメラを手に、走りながら、あるいは動く車の中から撮り、粒子が粗く、ぼやけ、傾いたイメージによって日本の大都市の街路や路地の不穏な面を写し出したと説明している。*8 森山の写真が現実に触れるというのは、抽象的な比喩だけではない。街を撮るとき、建物や人だけでなく、看板、テレビ画面、ポスター、映画スクリーン、車のフロントガラスまでが同じ画面の材料になる。SFMOMAのインタビューで森山は、都市、車、人、テレビ画面、ポスター、映画スクリーンをすべて同じ視点の対象として扱うと語っている。*9 森山の都市では、現実は生の風景としてだけではなく、印刷物、映像、ポスター、スクリーンのような既存イメージとしても現れる。そうした対象を同じ画面に取り込むため、画面は近く、断片的で、強いコントラストを帯びる。
『路上』と移動のスナップ
森山がジャック・ケルアックの『路上』から受け取ったのは、単なる旅の自由さではなく、目的地よりも、移動の途中に現れる道、人、都市、時間の断片に反応していく感覚だった。Penguin Random Houseは同書を、クロスカントリーの旅を通じて意味や「本物の経験」を求める物語として紹介している。*10 C/O Berlinに掲載された森山自身の文章では、若いころに『路上』を読み、サル・パラダイスの「道を見る眼」に魅了され、友人の古いトヨタを手に入れて日本各地の道を移動し始めたことが語られている。*11 SFMOMAも、森山が日本各地をヒッチハイクし、高速道路を昼夜移動し、さびれたカフェに立ち寄り、車窓から撮影したこと、そうした写真が1968年から『カメラ毎日』に連載されたことを記している。*2 森山自身は、《Stray Dog, Misawa》の犬について、三沢の街を歩いているときに向かいから現れ、瞬間的に撮影した存在として語っている。*9 森山のスナップショットは、予定した主題を順番に記録する方法ではない。車に乗る、歩く、曲がる、窓越しに見る、振り返る。その途中で看板、犬、通行人、光、車道、店先が突然目に入り、判断より先にシャッターが押される。都市を上から整理する視点ではなく、街の断片に身体が反応していく視線である。
写真集・雑誌・複製メディア
森山の重要性は、一枚の名作だけでなく、写真が雑誌や写真集の中でどのように並び、複製され、劣化し、別の意味を帯びるかを問い続けた点にある。『写真よさようなら』で作者性やスタイルを弱めようとする姿勢も、唐突な自己否定ではなく、写真がすでにコピーとして流通する時代への反応として現れる。Apertureは同書について、写真、切り取られたネガ、他の作家の作品までを含む写真集であり、作者性やスタイルを否定しようとした過程を示す本だと説明している。*12 森山は写真を「自分が美しく撮った一枚」として完結させるのではなく、失敗したネガ、他人の像、印刷の荒れ、ページの連なりを混ぜることで、写真が誰のものか、どこから作品になるのかを不安定にした。この発想は、同時代に森山が強く惹かれたウォーホルの複製イメージとも接続する。SFMOMAは『Accident』を、新聞や雑誌の切り抜き、再撮影を通じて既存イメージを作り替える、ウォーホルを思わせるシリーズとして説明している。*2 森山にとってウォーホルが重要だったのは、ポップな表面よりも、事故などの既存写真が新聞、雑誌、テレビを通じて何度もコピーされるうちに、出来事そのものとは別の強度を帯びる点だった。SFMOMAのインタビューで森山は、写真の本質をコピーや複製に見ており、ウォーホルの方法に強く共感したと述べている。*9
1972年に始めた私家版『記録』は、完成した代表作だけを選ぶ写真集とは異なり、その時々に撮った写真を小さな冊子として継続的に外へ出す形式だった。最初の5号は1972年から1973年に刊行され、『写真よさようなら』『狩人』と同じ時期に、作品の完成度を一冊へ閉じず、撮影と発表を近い距離で反復する別の回路を作った。公式の出版年譜に『記録』が独立した出版活動として置かれていることからも、森山の仕事では撮影方法と同じ程度に「どう印刷し、どう連ね、どう配るか」が重要だったことが確認できる。*22
『記録』について森山は後年、それを自分の「パーソナルなメディア」と呼び、テーマをまとめた通常の写真集とは違う位置に置いている。また最初の刊行が1973年で止まった理由として、オイルショックによる印刷費の高騰を具体的に挙げている。*32 ここからは、森山の写真実践が美学だけでなく印刷費、発行規模、配布という物質的条件にも左右されていたことが分かる。「撮ること」と「印刷して他者へ渡すこと」を近づけようとした『記録』は、写真を展示作品だけで考えない森山の姿勢を最も直接的に示す媒体の一つである。
代表作と画面構成
『にっぽん劇場写真帖』では、演劇、見世物、路上の人物、大衆文化が混じり合い、戦後日本の都市が演劇的な場として提示される。SFMOMAの「Japan Theater」解説は、写された人物が実在の俳優であると同時に、1960年代の不確かな近代性を帯びた比喩的な存在でもあると読み解いている。*2 《ON THE ROAD》は、SFMOMAの所蔵情報で1969年のゼラチン・シルバー・プリントとして確認できる。*13 この作品名も、森山が移動しながら撮る経験を写真集や雑誌の連なりへ展開していたことを示す手がかりになる。また《Grand Level, Yubari》について、The Metは、森山が戦後日本の生活を記録し、前衛的な日本写真とウィリアム・クラインの傾いたドキュメンタリー的アプローチから影響を受けたと説明している。*14 そのドキュメンタリー性は、社会や街を対象にするという点では記録写真に近い。しかし、水平垂直を整えた客観的な報告ではなく、近すぎる距離、傾いた画面、強い黒白、動きの途中の像によって、都市の混乱を身体感覚として見せる方向へ変形されている。
アレ・ブレ・ボケの語義と英訳
「アレ・ブレ・ボケ」はローマ字では are-bure-boke と書かれ、MoMAは “grainy, blurry, and out-of-focus” と説明している。「アレ」は粗い粒子や荒れた印刷面、「ブレ」はカメラや被写体の運動による像の揺れ、「ボケ」は焦点が外れた状態を指す。三語は同じ不鮮明さの言い換えではなく、粒子・運動・焦点という別々の層で写真の明瞭さを崩す語である。*4 Art Institute of Chicagoも、粗い粒子、ブレ、焦点外れを『PROVOKE』の写真言語を特徴づける要素として整理している。*18
MoMAの解説では、この呼称は1960年代末の『PROVOKE』周辺で広まった表現として扱われている。*4 Art Institute of Chicagoの資料も特定の一人を命名者として示していない。資料上、語源は「荒れ・ブレ・ボケ」に求められるが、単独の命名者は確認できない。*18
中平卓馬との違い
中平卓馬は『PROVOKE』の理論的中心の一人だったが、1970年代初頭にはアレ・ブレ・ボケが作家固有の様式として定着していくことを自己批判し、より即物的な記録へ向かった。SFMOMAの年譜は中平のその後の急激な方向転換を含む活動を位置づけている。*19 これに対して森山は、『PROVOKE』終了後も粗粒子、強いコントラスト、ブレ、焦点外れを路上の知覚と結びつけて持続させた。MoMAの中平論と並べると、二人を同じ画調の写真家としてまとめるより、中平がその様式化から離れようとしたのに対し、森山は不確定な像を街頭の身体経験として引き受け続けた、と分ける方が違いが明確になる。*20
「アレ・ブレ・ボケ」で固定しない
森山の国際的な知名度が高まるほど、「アレ・ブレ・ボケ」が作家全体を説明する便利なラベルにもなった。Apertureの2022年の批評は、暗く粗い写真を戦後日本の社会状況の鏡として読むだけでは森山の問題設定の表面しか捉えられず、核心には「写真とは何か」という媒体そのものへの問いがあると論じている。*12 《写真よさようなら》で作者性や完成したスタイルを壊そうとしたことを踏まえると、アレ・ブレ・ボケを森山の完成様式として固定する読みは、本人が1970年代初頭に行った自己否定と矛盾する。森山の継続性は同じ画調の反復ではなく、路上、再撮影、雑誌、写真集、カラー、デジタルを横断しながら、像がどこから写真になるかを問い続けた点にある。
写真史の内部から見ると、森山の転換はさらに具体的になる。深川雅文は、森山が戦後日本で強かったリアリズムや「組写真」、名取洋之助や土門拳に代表される写真観、さらに近代写真の規範そのものへ挑戦したと論じている。*28 重要なのは「きれいな写真を粗い写真へ変えた」ことではなく、写真家が世界を正しく把握し、それを秩序立てて観客へ説明できるという前提を揺さぶった点にある。『写真よさようなら』の自己破壊的な編集は、この写真史的な対立を最も極端な形で可視化した。
国際評価と写真史上の位置
森山の国際的な受容では、1974年にMoMAで開かれた「New Japanese Photography」が重要な節目になった。森山大道写真財団の年譜にも、この展覧会がMoMAからSFMOMAなどへ巡回したことが記録されている。*3 1999年から巡回したSFMOMAの「Daido Moriyama: Stray Dog」は、約200点の白黒作品と大型ポラロイド作品によって、戦後日本社会と西洋、とりわけアメリカの影響との関係を検討した展覧会だった。*15 ここで問題になるのは、アメリカ文化への単純な憧れでも、単純な反発でもない。米軍基地、ジャズ、酒場、輸入品、アメリカ的な豊かさへの欲望は、安保体制や占領後の記憶、急速な消費社会化への違和感と切り離せない形で、戦後の都市の風景の中に入り込んでいた。SFMOMAの出版物解説も、森山の写真がアメリカ的理想の受容に対する深い曖昧さを示し、戦後日本が孤立主義的でファシズム的な社会から国際的で資本主義的な社会へ急変する文化的ジレンマを体現したと説明している。*16 日本の写真界での「変革」も、単に粗い写真が流行したという意味ではない。東京都写真美術館は、1960〜70年代の高コントラストで粗い粒子の作品が当初は粗い、ブレている、ぼけていると批判されながら、日本の写真界に変革をもたらしたと説明している。*17 具体的には、明快な報道写真や商業写真を中心にした見方から、写真集、雑誌、再撮影、主観的なスナップショットを通して、写真の真実性、複製性、身体性を問う方向へ評価軸が移った。*5 ハッセルブラッド財団は2019年の授賞理由で、プロヴォークを、伝統から写真を解放し、写真媒体そのものを問い直した運動として評価し、森山をその中から現れた最も重要な作家の一人に位置づけている。*1 森山の写真は、現実を写した記録でありながら、同時に雑誌、テレビ、広告から来たコピーでもある。オリジナルと複製、記録と表現、街の経験とマスメディアのイメージのあいだを往復するこの性格が、近年の回顧展やコレクション解説でも繰り返し取り上げられている。*7
写真集文化への影響
森山の国際的評価では、プリントだけでなく写真集そのものが繰り返し参照されてきた。ICPは森山の写真集を戦後写真のランドマークとして位置づけ、路上での迅速な撮影と印刷物での編集を切り離さずに評価している。*23 東京都写真美術館の回顧展資料でも、1968年から1972年の『PROVOKE』期に『写真よさようなら』『狩人』『記録』1〜5号が集中しており、撮影・出版・批評が短期間に連動していたことが確認できる。*21 このため森山の影響は「アレ・ブレ・ボケの画調」に限定できず、写真を本、雑誌、連作として編集し、複製物として観客へ届ける日本のフォトブック文化にも及んでいる。
National Gallery of Artの作家資料にも森山作品が収蔵されており、日本国内の前衛写真という限定された文脈を越えて、国際的な写真史コレクションの中で継続的に位置づけられている。*25
- 中平卓馬 ― 本文で、《プロヴォーク》創刊メンバーとして森山と問題意識を共有し、写真と言語の関係を問う存在として登場する。
- ウィリアム・クライン ― 本文で、都市の速度と粗いイメージの先行例として森山の路上写真と接続される。
- 細江英公 ― 本文で、森山が写真界へ入る契機となった周辺人物として言及される。
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
資料の収集と本文の執筆はAIが行い、構成と編集は管理人が行っています。事実関係は管理人がAIを用いて最終チェックしていますが、誤りが残っている可能性があります。正確さが必要な場合は、各ページ §SRC の一次資料をご確認ください。