大石芳野は、ベトナム、カンボジア、アウシュヴィッツ、アフガニスタン、コソボ、広島、長崎、沖縄などで、戦闘そのものより「戦争が終わった後」を生きる人びとを長期撮影してきた写真家。《無告の民》《夜と霧は今》《ベトナム 凛と》《戦禍の記憶》では、まず相手の経験を聞き、その記憶を背負った現在の顔と生活を撮る。写真集では、取材相手の証言と、何年も後の現在の顔や暮らしを同じページの流れに置く。その組み合わせが大石の制作の核にある。
大石の仕事が戦争写真に加えた重要な視点は、戦争後の時間を一つの国や一つの事件に閉じず、数年、数十年後にも身体と生活に残り続ける経験を、証言と再訪によって国境を越えて追うことにある。取材相手の言葉を聞き、同じ土地へ戻り、現在の肖像と過去の記憶を組み合わせることで、「終戦」で区切られるニュースの時間と、生存者が生きる時間のずれを見せた。自分が戦闘を目撃していない土地では、撮影前に本人から経験を聞き、再訪して現在の顔を撮り、証言と写真を組み合わせる方法を選んだ。
本サイトでは作品画像を掲載していません。下記の公式アーカイブで作品をご覧ください。
目次 · Table of Contents
大石芳野は1944年東京生まれで、日本大学藝術学部写真学科を卒業した。文化庁Art Platform Japanの作家典拠は生年月日を1944年5月28日、出生地を東京と記録している。*21 学生時代はベトナム戦争の最中で、戦争を起こした国に生まれながら自分自身は戦争を知らないという距離が、後の取材の根に残った。
Canonのプロフィールは、学生時代のベトナム訪問に強い衝撃を受け、卒業後に単身で各地を取材するドキュメンタリー写真家になった経歴を記している。*3 サライのインタビューで大石は、戦地へ向かう理由を「知りたい」からだと説明し、知ったことを伝えるためにカメラがあると語っている。*4 大石にとってカメラは、まず取材相手の経験を聞いたうえで、その人が現在どこでどう生きているかを別の場所の読者へ示すための手段になった。
「知らないままでいいのか」――戦後世代としての出発点
大石が戦闘中の前線より、戦争後の生活へ向かう理由は、ニュースが「終わった」と告げた後にも傷が続くことへの関心にある。季刊『道』のインタビューは、戦争の被害に遭った人の現在を知り、知った以上は伝えずにいられないという姿勢を「戦争は終わっていない」という言葉でまとめている。*5 《戦禍の記憶》の出版資料も、ベトナム、カンボジア、ラオス、アフガニスタン、コソボ、スーダン、ホロコースト、広島、長崎、沖縄を「後遺症」という時間で横断している。*6
撮る前に聞く――カメラを会話の入口にする
大石の肖像は、遠くから匿名の被害者を撮る報道写真とは方法が異なる。本人は、相手に戦時中どこで何をしていたのかを尋ね、なぜ撮るのか説明してからカメラを向けると語っている。*4 そのため顔の表情だけでなく、写真集ではキャプションや証言が重要になる。撮影者が悲劇を「発見」したのではなく、写された人が自分の記憶を語り、それを写真が保持する構造である。
この「聞いてから撮る」方法は、後年の外部評価でも大石の画面の成立条件として説明されている。立教大学は広島、長崎、沖縄、東京大空襲の写真を「被写体となった人々との対話の結実」と位置づけている。*22 写真家が相手の人生を代表して語るのではなく、対話の後に残る現在の表情を写真が引き受けるため、証言と肖像を分離しにくいのである。
《ベトナム 凛と》――二十年かけて見る「終わらない戦争」
大石は1981年からベトナムを繰り返し訪れ、枯葉剤被害、戦争孤児、家族を失った女性、戦後社会を生きる人びとを撮った。《ベトナム 凛と》は2001年、第20回土門拳賞を受賞した。毎日新聞社の歴代受賞資料が受賞作と回次を確認している。*7 国立新美術館アートコモンズの展覧会記録は、同作を1981年から20年間にわたる市井の人びとのドキュメントとして紹介する。*8
《無告の民》《夜と霧は今》――地域を越える後遺症
《無告の民》ではアジア各地の人びと、《夜と霧は今》ではナチ強制収容所を生き延びた人びとを撮影し、異なる戦争を「被害者」という一般語で均一化せず、それぞれの顔、名前、生活へ戻した。東京都写真美術館所蔵の《僧侶》は1981年の《無告の民》に属する。*9 同じシリーズの《赤ん坊》は1979年の作品である。*10 同館所蔵の《カロリーナ》は《夜と霧は今》に属し、1988年に生存者を撮った作品である。*11
広島・長崎を「被爆の日」から離して撮る
大石は広島、長崎でも1945年当日の資料写真を再現するのではなく、何十年も後に被爆体験を抱えて生きる人物と場所へ向かった。藤原書店の著者略歴には、1995年の写真集《HIROSHIMA 半世紀の肖像》が主要著作として記録されている。*12 Canonの「長崎の痕」展は、被爆時に子どもや若者だった高齢者の言葉、表情、遺構を組み合わせ、74年後の記憶として展示した。*13
2019年の東京都写真美術館「戦禍の記憶」は、約40年にわたる活動をメコン、民族・宗教紛争、アジア・太平洋戦争の残像という三つのまとまりから提示した。*14 クレヴィス刊の同名写真集は160点を収録し、複数の地域を「戦争後も続く時間」で編集している。*6
また、大石の作品ではカラーとモノクロの選択を一つの様式的特徴として固定しにくい。初期のパプアや《無告の民》にはカラー作品とモノクロ作品があり、東京都写真美術館の所蔵情報は1979年のカラー作品も記録している。*1 カラーかモノクロかを一つの作家様式に固定せず、取材地と掲載媒体に応じて使い分けながら、どちらでも人物の現在の表情と生活環境を画面の中心に置いた。《戦禍の記憶》が160点のモノクロ写真で長い活動を横断する編集を採ったことは、地域や年代の違いを一つの時間軸で比較させる効果を持つ。*6 写真集では、政治的理由の異なる戦争を同一視せず、地域ごとの証言と肖像を章ごとに保ちながら、ページをまたいで「終結後にも残る傷」を比較できるようにしている。
写真・証言・キャプション――シャッター前後の時間を作品にする
写真評論家の飯沢耕太郎は、大石の撮影方法を、シャッターを押す瞬間だけでなく「前後の時間」を写真へ組み込むものとして論じている。*27 ベトとドクを1982年から2009年まで繰り返し撮った仕事では、肖像の外側に、撮影前に話を聞く時間、撮影後に続く人生、再訪時の変化が積み重なる。同評がキャプションの重要性も指摘するように、文章は写真の不足を埋める説明ではなく、画面に写らない過去と現在の表情を結ぶ記録層になる。
大石が撮るのは多くの場合、戦闘の瞬間ではなく、その出来事を経験した人が何年も後に暮らしている場所である。カメラだけでは過去の出来事そのものは写らないため、撮影前の聞き取りと写真集の言葉が制作に組み込まれる。サライのインタビューで大石が「撮る前に聞く」ことを繰り返し説明しているのも、この方法に関わる。*4 《ベトナム 凛と》が二十年の取材として成立したことは、一枚の肖像では戦争後の時間を示し切れないという問題と結びつく。*8 同じ土地を再訪し、以前会った人の現在を撮ることで、傷が残る場所と生活が変わった場所の両方がシリーズに蓄積される。広島や長崎でも、被爆当日のイメージを反復する代わりに、高齢になった被爆者の顔、言葉、遺構を現在の時間として撮っている。*13 写真が保持する現在の表情と、画面に写らない過去を語る証言の間にある距離を、再訪とキャプションでつなぐことが長期取材の形式になっている。
上智大学の「人間の安全保障と平和構築」で大石は、戦争が残す心の傷は時間とともに消えるとは限らず、年月を経て悪夢として強まる場合があると述べ、ベトナムの枯葉剤、ラオスの不発弾、カンボジアの虐殺後の記憶を例示している。*24 この認識があるからこそ、撮影時点を事件の直後に限定せず、十年、二十年後の生活へ戻る形式が必要になる。国立国会図書館の書誌は、写真集『戦争は終わっても終わらない』を、四十年にわたる活動から日本の戦争が残した傷痕に焦点を当てた作品集として記録している。*25
松重美人、土門拳、土田ヒロミとの比較――「戦後を撮る」ことの位置
大石以前の日本写真にも、戦闘や爆発の瞬間だけでなく、その後を生きる人びとへ向かった重要な仕事がある。1945年8月6日に広島を撮った松重美人は、被災者を前に30分以上シャッターを切れず、それでも五枚を残した。広島平和記念資料館は、その写真を原爆当日の「歴史の証人」と位置づけている。*18 松重の場合、写真家自身が出来事の現場に居合わせ、撮ること自体の倫理的葛藤が記録の条件になった。
大石の出発点には、広島・長崎以前からニューギニアなど異なる土地で人の暮らしへ入って撮るドキュメンタリーがあった。清里フォトアートミュージアムは1973年の《ニューギニア:タロイモ畑の母子》を「戦後の日本写真」の展示に含め、森山大道や岩合光昭らの作品とともに1970年代以後の表現の多様性の中へ置いている。*26 戦争の後遺症へ集中する以前から、異なる土地で暮らす人の生活へ入り、人物と環境を結ぶドキュメンタリーが基盤にあったことを確認できる。
土門拳の写真集『ヒロシマ』(1958年)は、1957年に広島へ入り、被爆者、病院、孤児院、治療費を払えない人びとなどを撮り、原爆の長期的影響を扱っている。*19 したがって「戦争の後遺症へ視線を向けた」こと自体を大石の最初の革新とすることはできない。土田ヒロミも1970年代から《ヒロシマ 1945-1979》で被爆者や都市、遺物を体系的に撮影し、東京都写真美術館には1976年撮影の中沢啓治像などが残る。*20
大石の固有性は、広島・長崎だけでなく、ベトナム、カンボジア、ラオス、アフガニスタン、ホロコーストなど異なる戦争と地域を、「戦後を生きる時間」という問題のもとで長期に往復した点にある。彼女自身がその場の戦闘を目撃していない場合、写真だけでは過去を証明できない。だから撮影前の聞き取り、再訪、キャプションや証言が制作の一部になる。松重が原爆当日を目撃し、土門が1950年代の被爆者の生活を撮り、土田が被爆者・都市・遺物を体系化したのに対し、大石はベトナム、カンボジア、広島、長崎、アウシュヴィッツなどを何度も訪れ、それぞれの生存者の証言と現在の肖像を同じ長期取材の方法で積み重ねた。
国外の比較対象には、W・ユージン・スミスとアイリーン・M・スミスの水俣取材がある。京都国立近代美術館は、スミスが『LIFE』のフォトエッセイを代表し、1971年から水俣に暮らして公害と被害を長期に撮った仕事を重要な局面として紹介している。*2 スミス夫妻が一地域に暮らしながら被害の続く生活を写真と文章で伝えたのに対し、大石はベトナム、カンボジア、広島、長崎、ホロコーストなどを往復し、それぞれの生存者の証言から「戦争後」の持続を追った。
ヒューマニズムと証言写真の緊張
大石の写真には、傷ついた人びとの尊厳を強調するヒューマニズムがある。一方で、苦しむ他者を「凛と生きる人」として美しくまとめれば、政治的な原因や固有の歴史が薄くなる危険もある。大石がそれを避けるために重視するのが、被写体の言葉を聞き、場所を再訪し、長期に関係を持つことである。Canonの2008年展資料は、世界各地の取材と並行して、日本の黒川能のような地域文化も長期撮影していたことを示す。*3 JPSの名誉会員資料は、フォトジャーナリズムと写真文化双方で長く活動してきた制度的な位置を確認できる。*15
大石自身もこの仕事をフォトジャーナリズムの制度史から考えている。日本写真家協会が掲載するプロフィールでは、現在の研究課題として「フォトジャーナリズムの変遷と動向」と「フォトジャーナリズムから見た戦争と平和における民衆」を挙げている。*23 長期取材は、戦闘や停戦を区切りに次の事件へ移る報道の時間では落ちてしまう、数年後・数十年後の後遺症と生活を撮り続けるための方法でもあった。
大石の長期取材は、ニュースが事件の終結で区切る時間とは異なる時間軸を持つ。クレヴィスの展覧会紹介は、戦争の犠牲者を約40年にわたり追い、声なき民の記憶へレンズを向けたことを強調する。*16 名古屋市図書館の《戦禍の記憶》書誌も、160点のモノクロ写真を「戦争犠牲者」の写真集として記録している。*17 決定的な一枚で戦争を代表するのではなく、同じ人に何度も会い、証言と現在の身体を結ぶことで、忘却が進む時間そのものを記録の対象にした。
- 松重美人 ― 原爆投下直後の広島を記録した写真家。大石はその「当日」ではなく数十年後の生存者の時間へ向かう。
- 土田ヒロミ ― 広島を反復撮影し、記憶と現在のずれを扱った比較対象。
- フォトジャーナリズム ― 大石は速報性より長期取材と証言を重視する位置からこの伝統を更新した。
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
資料の収集と本文の執筆はAIが行い、構成と編集は管理人が行っています。事実関係は管理人がAIを用いて最終チェックしていますが、誤りが残っている可能性があります。正確さが必要な場合は、各ページ §SRC の一次資料をご確認ください。