土田ヒロミは、浅草の《自閉空間》、地方の祭礼と人々を撮った《俗神》、都市の群衆を追った《砂を数える》、被爆者・場所・遺品を数十年かけて記録するヒロシマ三部作を手がけてきた。ブレやピント外れで自分の見方を強く出した初期から、被爆者を普通のポートレートのように撮る方法、広角で群衆全体を写す方法、遺品写真と文章を組み合わせる方法まで、題材が変わるたび撮り方も大きく変えた。作品を通して繰り返し確かめているのは、目で見たつもりの現実と、カメラに写ったものが同じではないという問題である。
土田ヒロミは、高度成長で地方の生活や過去が急速に切り捨てられていく1970年代に、重森弘淹のもとで写真を学び、《自閉空間》《俗神》では自分の「見方」を写真へ強く残すところから出発した。《自閉空間》《俗神》ではブレやピント外れを使ったが、やがてその「自分らしさ」が対象そのものを覆ってしまうと考え、撮り方を反転させる。《俗神》ではカメラを向けられて演じ返す人を残し、《砂を数える》では逆に誰もカメラを見なくなるまで群衆を撮り、ヒロシマでは自分の画調を抑えて現在の人、場所、遺品を明晰に記録した。さらに「写真は現在しか写せない」として、写真に写らない1945年の出来事は文章に受け持たせた。同じ撮り方を作家のスタイルとして押し通さず、対象に合わせて、撮影者を画面に感じさせるのか、退かせるのか、写真だけでは足りない部分を文字へ渡すのかまで変えた。この使い分けが、《俗神》《砂を数える》《ヒロシマ》を別々の題材ではなく、一つの写真観の変化としてつないでいる。
本サイトでは作品画像を掲載していません。下記の公式アーカイブで作品をご覧ください。
目次 · Table of Contents
工学部から写真へ
土田ヒロミは福井大学工学部を卒業後、ポーラ化粧品の研究所に勤務しながら東京綜合写真専門学校の夜間課程で写真を学び、1971年に会社を辞めて専業写真家になった。*12 本人は、絵画に比べて写真はシャッターを押せばひとまず像が得られるため、表現媒体として入りやすかったと率直に振り返っている。*11 しかし写真を続ける理由は、その手軽さとは逆のところに生まれた。撮った写真が自分の考えや見た通りには戻ってこず、そのずれによって「自分がいかに見ていないか」を発見させられることが面白かったと語っている。*11 自分が見たつもりのものと、実際に写真へ写ったものを見比べることが、土田にとって写真を続ける理由になった。
高度成長と《俗神》
土田が写真家として立ち上がった1970年代は、本人の言葉では「政治的な時代」であると同時に、経済が激しく変わり、日本社会全体が「過去を切り捨てる」方向へ進んだ時期だった。*1 高度成長によって都市の資本と生活様式が地方へ広がり、都市と農村の違いが急速に薄れていくなかで、土田はその流れにあえて逆らい、自分を形づくった文化や生まれ育った環境を考え直すために各地の祭礼や人々へ向かった。SFMOMAの研究も、《俗神》を都市から流れ込む資本によってまだ均質化されきっていない生活を探した仕事として位置づけ、観光産業が都市/地方の差を平らにしていく兆候まで写真に含まれていると指摘している。*13 土田が「古い日本」へカメラを向けたのは、失われる風俗を懐かしむためだけではない。急速に新しくなる日本の中で、自分たちが何を捨てつつあるのかを、まだ残っている身体、服装、祭礼、身振りから確かめるためだった。
《自閉空間》と「失敗写真」
1971年に太陽賞を受けた《自閉空間》では、浅草を撮った多数のネガから、土田は意識的に「失敗した」と感じる写真を選んでいたという。きちんと写る写真の記録性に苛立ち、自分の解釈を像へ残すためだった。*11 この方向は《俗神》へ続くが、本人は後に、ピント外れやブレを強めていくうちに、自分のイメージという「網」を対象へかけ、対象そのものの現実を消してしまったと振り返っている。*11 その行き詰まりと並行して始まったヒロシマでは、逆に自分のテイストを抑え、カメラの記録性を優先する方法へ「180度」変えた。*11 後のヒロシマで物や人を正面からきちんと写す方法は、最初から「客観的な写真」を信じていたから生まれたのではない。ブレやピント外れで自分らしさを強く出しすぎた結果、対象そのものが見えなくなったという反省から選び直した撮り方だった。
重森弘淹とPROVOKE
土田は東京綜合写真専門学校で批評家の重森弘淹から教育を受け、重森が『PROVOKE』を明確に批判していたため、自分たちはすでにそれを「乗り越えた」という意識を持っていたと回想している。*11 ただし、60〜70年代は政治でも写真でも既成の表現や制度が問い直され、土田自身も『PROVOKE』周辺と「同質的な土俵」にいたことは認めている。*11 1974年MoMA「New Japanese Photography」には、土田と森山大道、東松照明、川田喜久治、内藤正敏らが同時に選ばれた。*15 しかし土田がその後選んだ方法は、荒れた画面の強さをさらに押し進めることではなかった。《自閉空間》《俗神》でブレやピント外れを使い、自分の見方を像へ刻み込んだ結果、本人はかえって対象そのものを覆ってしまったと感じる。ヒロシマではそこから反転し、被写体を正面から明晰に写し、必要な過去は文字で補う方法へ進んだ。《自閉空間》《俗神》で強めた自分の画調を、ヒロシマでは抑える側へ切り替えた。
《俗神》
《俗神》は1968年から各地で撮影されたが、祭礼や民間信仰の型を集める民俗学的な図鑑ではない。*10 土田自身は当初儀礼を撮るつもりだったものの、次第に参加者の側へ関心が移ったと説明している。*1 カメラを向けると人は笑い、ポーズを取り、時に過剰に演じる。その反応を消さずに残したため、祭りの古い型だけでなく、「いまカメラを向けられて笑う、身構える、演じる人」まで一枚に写った。Smithsonian所蔵の《Entertainer, Asakusa, from Zokushin》でも、人物の身振りは民俗の標本として静止せず、撮影行為への応答として前へ出てくる。*4
《砂を数える》
《俗神》ではカメラを向けられて演じ返す人を残した土田が、《砂を数える》では逆に、群衆の誰もカメラを見なくなるまで撮り続けた。本人によれば、広角レンズを使い、一人の顔や一つの出来事だけへ視線を固定せず、フレーム全体を「点」ではなく「面」として見て、自分が意識していないものまでカメラに記録させることが方法だった。*7 群れが崩れるまでシャッターを切り、撮影者の存在が無視された写真を選ぶことで、「自分が見たもの」を写すより、自分の視野では一度に把握できない人の配置を写真に任せた。SFMOMAは写真集の構成を、少人数のばらばらな人物から画面を埋める大群衆へと人の数が増え、1989年の昭和天皇死去時に皇居前へ集まった人々へ至る流れとして説明している。*2 《俗神》でカメラへの反応を撮った方法と、《砂を数える》でカメラを忘れた状態まで待つ方法は、同じ土田の中で正反対に近い。
ヒロシマへ向かう
土田が広島へ向かった時点で、原爆写真には土門拳の被爆者中心の記録、東松照明が『〈11時02分〉NAGASAKI』で示した私的で象徴的な表現、石黒健治『広島 HIROSHIMA NOW』の「現在から過去へ近づく」方法がすでにあった。東京都写真美術館の研究紀要は、土田が学生時代に東松の表現へ強く動かされながら、自分がヒロシマへ向かう段階では自己表現を前面に出す方法は適切でないと判断し、石黒からも方法上の示唆を受けたと整理している。*20 本人も、原爆被害は人類史上それまで経験のない出来事であり、日本で活動するドキュメンタリストとして向き合わないことは受け入れられなかったと述べている。*25 土田が選んだのは、先行作家より悲惨な顔や強い傷痕を探すことではなかった。被爆者は本人が望む現在の姿で撮る、場所は同じ地点へ戻って撮る、遺品は一点ずつ正面から撮って来歴を添える。人、場所、物に同じ撮り方を押しつけず、それぞれに別の記録方法を与えた。
被爆者を撮る
《ヒロシマ 1945–1979》で土田は107人の被爆者を撮影したが、悲劇性を顔に集中させることを避けた。Art21のインタビューでは、被写体が職場や庭、踊っている姿など「こう撮ってほしい」と希望した場所や行為をできるだけ受け入れ、日常生活の中の現在として写したと説明している。*25 撮影を拒んだ人については無理に肖像を得ず、その周囲の風景や物を撮り、「撮影を拒否された」という事実自体を報告した例もあった。*11 土田は「撮れなかった人」を欠番として隠さなかった。撮影拒否そのものを記録に残し、写真家が望めば誰でも撮れるという前提を作品の中で崩した。
《ヒロシマ・コレクション》
土田は《ヒロシマ・コレクション》について、「写真は現在しか写せない」という前提を明確にしている。*21 1982年にカメラが写せるのは、焼け焦げたワンピースや溶けた瓶がその時点でどんな形をしているかまでである。1945年8月6日に誰がそれを持ち、その後どうなったかは、現在の物の表面だけからは分からない。そこで土田は、遺品の写真と所有者の体験を記した文章を同じ作品の中で同じ重さに置いた。*25 観客は物を見て、文章を読み、もう一度物へ戻る。さらに土田は、遺品を一方的に悲惨な姿へ演出せず、日常品としてまず目を向けてもらうため「美しく撮る」必要も感じていたと述べている。*25 写真に1945年を演技させるのではなく、写真は現在の物、文章はその物が1945年に経験したことを受け持つようにした。
ここでテキストは既存キャプションの転記でもない。土田は寄贈時の聞き取りや資料を読み、長い記録から写真と同時に読める分量へ、自分で何を残し、何を削り、どの順序にするかを編集している。*21 寄贈者と寄贈年まで読むと、その物を遺族が何十年持ち続けたのか、本人がいつ資料館へ託したのかも分かる。写真には現在の遺品、本文には1945年の出来事、寄贈情報には遺品が資料館へ託されるまでの時間が並ぶ。
《俗神》1968–75年
《俗神》では祭礼、宴席、盛り場を記録しながら、参加者がカメラへ向ける身振りや表情を残した。土田は、被写体が撮られることで表現的になり、写真家はその反応を受け取ることが重要だったと振り返っている。*1 民俗を外から分類する写真では撮影者の存在を消しがちだが、《俗神》では撮影行為によって現場が変わること自体が画面へ入る。《俗神》では、撮る人がいることで相手の身振りが変わる。その変化まで撮った点が、後に撮影者の癖をできるだけ抑えたヒロシマとは大きく違う。
《砂を数える》1975–89年
《砂を数える》は異なる都市や出来事の群衆を一冊へ集め、人数の少ない画面から大群衆へ進むように並べた。Smithsonian所蔵の《Tokyo, 1981, from Counting Grains of Sand》も、その一枚だけを名場面として独立させるのではなく、他の群衆写真と続けて見るための一枚である。*5 本は最終的に1989年の昭和天皇死去後、皇居前へ集まった巨大な群衆へ至り、最初には追えた一人ひとりの顔が最後には見分けにくくなる。*2 後続作《新・砂を数える》では、土田はさらに、現場ではカメラの後ろにいたはずの自分自身を群衆写真の中へデジタル合成した。本人はこの矛盾を、写真に写っているものをそのまま「現場にあった事実」と受け取りやすい写真の性質を示すための方法だったと説明している。*7
《Hiroshima》と《Monument》
ヒロシマ三部作のうち、人を扱う《Hiroshima 1945–1979》は1970年代に撮った被爆者を2005年に再訪し、同じ人物を約30年後にもう一度撮影した。横浜美術館は撮影拒否を意味する《Declined, from Hiroshima 1945–1979/2005》も作品として収蔵している。*22 《Hiroshima Monument》では被爆建造物や樹木など都市に残る場所へおよそ十年単位で戻り、同じ地点を再撮影した。人の顔には老いが現れ、建物には保存や改修が入り、その周囲では街が建て替わる。同じ被爆から始まった対象でも、人、建物、都市は同じ速さでは変わらない。土田は前後の写真を並べ、その違いを説明文ではなく二枚の差として見せた。
《ヒロシマ・コレクション》1982年〜
《ヒロシマ・コレクション》は1982年から広島平和記念資料館の被爆資料を撮影し、四十年以上にわたり約400点へ拡張してきた。*8 東京都写真美術館は《ワンピース》を所蔵している。*16 同館では《万年筆》も公開されている。*17 《溶けた酒瓶》も、日用品を一点ずつ正面から記録する同じシリーズに含まれる。*18 土田が添える文章は資料館の短いキャプションをそのまま転載したものではなく、寄贈時の聞き取りや資料を読み、写真と同時に読める長さへ自分で編集したものだ。本人はテキスト制作にも写真と同程度の時間を使うと説明している。*21 新しい遺品が加われば写真を撮り、持ち主や寄贈の経緯を調べれば文章を書き直す。四十年以上続くこの仕事では、撮影だけでなく「どの過去を文章に残すか」を選ぶ作業までが作品になっている。
ヒロシマの国際的再評価
土田のヒロシマ三部作は、原爆投下の瞬間や直後を撮った写真ではない。被爆から約30年後の人、1979年以後の場所、1982年以後の遺品を撮った仕事である。2014–15年の国際展「Conflict, Time, Photography」は、戦争写真を国や戦争名ではなく「出来事から何分、何年、何十年後に撮られたか」で並べ、土門拳、東松照明、川田喜久治、土田と、Don McCullin、Susan Meiselas、Sophie Ristelhueber、Taryn Simonらを同じ時間軸へ置いた。*23 ここで土田は、1945年を目撃した写真家としてではなく、数十年後に残る人、場所、物から戦争を撮った写真家として位置づけられた。この展示では、土田の仕事が「戦争の瞬間を撮った写真」ではなく、「戦争から数十年後に残るものを撮った写真」として読まれた。 その前段階となる2007–08年の東京都写真美術館回顧展は、《俗神》《砂を数える》《ヒロシマ三部作》などを一堂に置き、土田の仕事を「自己表現」と「徹底的な記録」の両方からたどった。*3
1974年MoMAから1979年ICPへ
1974年MoMA「New Japanese Photography」の受容を検証した甲斐義明の研究は、土田と内藤正敏が地方の民俗や伝統宗教と結びつく作家群として配置されたことを指摘している。*24 《俗神》は高度成長が地方文化を均質化する過程への問いから生まれたが、海外では逆に「残存する伝統的な日本」の証拠として読まれる余地もあった。五年後のICP「Japan: A Self-Portrait」では、土田は被爆者を撮影・聞き取りした《Children of Hiroshima: 33 Years Later》で紹介された。*9 同じ土田が、1974年のMoMAでは「日本の祭礼や民俗を撮る写真家」、1979年のICPでは「原爆から33年後の被爆者を撮る写真家」として見せられた。海外の展覧会が、同じ作家から別々の「日本」を切り出していたことが分かる。
1987年の米国展評
土田の抑制的な方法は、常に強いと評価されたわけではない。1987年に米国で開かれた「Hiroshima」展を評した『Los Angeles Times』は、会場で同時上映された原爆被害の生々しい映像が土田の静かな写真を圧倒し、展示全体のメッセージが分裂したと批判した。*14 その一方で、資料館の遺品を正面から精密に撮り、それぞれの来歴を文章で添えた部分は展覧会の中でも特に強いと評価している。*14 悲惨さを強く見せない同じ撮り方が、動画の横では弱く見え、遺品と一人分の来歴を時間をかけて見る場では強く働いた。この両面が同時代の米国評にすでに現れている。
石内都との違い
2007年以後に被爆者の衣服や遺品を撮った石内都は、東松照明や土田の先行作を認識した上で別の方法を選んだことがGettyの展覧会資料に記されている。*19 塚田修一の研究は両者の時間の扱いを対照し、土田《ヒロシマ・コレクション》を、人や街が変貌するなかで遺品と来歴情報を記録して記憶の風化に抗う方法として整理する一方、石内《ひろしま》は経年変化した衣服を「いま存在する物」として撮り、詳細な情報を大きく減らす実践として論じている。*6 同じ資料館の遺品を撮っても、土田は「誰の物で、1945年に何が起きたか」を文章で残す。一方、石内は年月で変色し、傷んだ衣服そのものを現在の姿で見せる。
カーネギー・インターナショナル
2022年の第58回カーネギー・インターナショナルでは《ヒロシマ・コレクション》29点が、米国の美術館ではそれまでで最大規模となる形で展示された。東京都写真美術館の研究紀要は、同シリーズが展覧会で重要な役割を担い、各メディアのレビューでも見どころの一つとして繰り返し言及されたと記録している。*20 29点の遺品写真と文章がまとまって並んだことで、一点の代表作ではなく、同じ方法で撮影と記録を積み重ねてきたシリーズの量そのものが海外で見られる機会になった。
- 東松照明 ― 『〈11時02分〉NAGASAKI』の私的で象徴的な原爆表現は、土田が学生時代に強く動かされた先行例。土田はヒロシマでは自己表現を抑える方向を選んだ。
- 石黒健治 ― 『広島 HIROSHIMA NOW』で「現在から過去へ近づく」認識を示し、土田のヒロシマ三部作の方法形成に具体的な示唆を与えた。
- 石内都 ― 2007年以後に同じ広島平和記念資料館の遺品を撮影。Gettyの資料は石内が土田らの先行作を認識し、異なる方法を選んだことを記録している。
- 森山大道 ― 1974年MoMA展で同時に紹介された同時代作家。森山の断片的・自伝的な都市写真と、土田の民俗、群衆、系列化は1970年代日本写真の異なる方向を示す。
- 北島敬三 ― 同じ1970年代以後の日本社会を扱った作家。北島が撮った月に写真を出し、街頭で近距離フラッシュを使ったのに対し、土田は同じ人や場所を何年も隔てて撮り直した。
- 東京都写真美術館 — 土田ヒロミ展 ↗
- ZEN FOTO GALLERY — Hiromi Tsuchida ↗
- 土田ヒロミ 公式サイト
- KYOTOGRAPHIE 2025 - Hiromi Tsuchida and others
- MOMENT - 不可視への眼差し / Rays out of Sight
- Vincent Lavoie - "Les Aveuglements de la photographie : Hiromi Tsuchida et Hiroshima"
- 土田ヒロミ - 公式note プロフィール
- 土田ヒロミ - 「ヒロシマ・コレクション(1986-)② モノクロとカラー」
- ふげん社 - Hiromi Tsuchida
- Art Platform Japan - ニュー・ジャパニーズ・フォトグラフィー
- 東京都写真美術館 - 《伊勢》「俗神」
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
資料の収集と本文の執筆はAIが行い、構成と編集は管理人が行っています。事実関係は管理人がAIを用いて最終チェックしていますが、誤りが残っている可能性があります。正確さが必要な場合は、各ページ §SRC の一次資料をご確認ください。