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PHOTOGRAPHERS/LOUIS DÉSIRÉ BLANQUART-EVRARD ·発明・技術 ·UPDATED 2026.09
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§ 315 — Photographer Index — 発明・技術

ルイ・デジレ・ブランカール=エヴラール

Louis Désiré Blanquart-Evrard 1802–1872
Countryフランス Period1839–1860s Channel写真史の論点 · 発明・技術
Abstract

ルイ・デジレ・ブランカール=エヴラールは、リールを拠点に紙ネガ・ポジ法を改良し、1847年にフランス科学アカデミーへ工程を発表した写真技術者・出版者。1850年にはアルブミン紙の印画法を公表し、1851年にイムプリムリー・フォトグラフィック(Imprimerie photographique)を開設した。自身の撮影に加え、シャルル・マルヴィル、マキシム・デュ・カンらのネガを多数印画し、建築、美術複製、旅行写真をアルバムや分冊として流通させた。写真を撮影後の印画、編集、出版まで含む生産工程として組織した人物である。

この写真家が変えたこと

ブランカール=エヴラールが取り組んだのは、紙ネガが複製可能であっても、陽画を一枚ずつ日光で焼き付ける工程が遅く、濃度も揃いにくいという出版上のボトルネックだった。紙を感光液へ浸して均一化し、化学現像で短時間に像を出す方法を改良したうえで、1851年には印画を分業するイムプリムリー・フォトグラフィックを開いた。ネガから複数の像を作れるという写真の性質を、数百部を反復して印画・編集・販売できる生産工程へ変えたことが、彼の仕事を写真技法と写真出版の双方にまたがらせている。

Keywords Imprimerie photographique calotype albumen print 写真出版 写真印刷 写真集
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目次 · Table of Contents
§ 01 / 04 背景と時代

ブランカール=エヴラールはリールで布商として働き、象牙や磁器の細密画を経験しながら化学を学んだ。Gettyによれば、タルボットの弟子だった薬剤師からカロタイプを学び、紙上の像を化学的に制御する研究へ入った。1847年にはフランスで紙ネガから陽画を得る工程を公表し、その後、他の写真家のネガを印画・出版する仕事へ活動を集中させた*1。The Metも、1850年代フランスで紙写真が急速に広がる背景として、現像による印画を導入して処理時間とコストを下げたブランカール=エヴラールの改良を挙げている*2

1850年に公表したアルブミン紙は、卵白を紙表面に用いて感光物質を紙繊維の内部へ沈み込ませにくくし、従来の塩化銀紙より滑らかな細部を得やすくした。V&Aはこの方法を、19世紀後半まで広く使われたアルブミン・プリントの出発点として説明している*3。その技術研究の重点は、陽画を速く、均質に、多数作るための紙、薬品、現像、表面処理へ移っていった。

1851年9月、リール郊外のロワンにImprimerie photographiqueを開設した。The Metは、この工房が四年間に数千枚の印画を作り、二十数種以上のポートフォリオやアルバムを刊行したと記している*2。写真はここで、撮影者が暗室で一枚ずつ仕上げるものから、ネガを受け取り、別の場所で印画し、台紙へ貼り、番号と題名を付け、まとまった出版物として販売する生産物へ変化した。

§ 02 / 04 表現の核心

紙ネガ・ポジ法

紙ネガは銀板のダゲレオタイプほど微細な輪郭を持たない一方、一枚のネガから複数の陽画を作れる。Imprimerie photographiqueで印画された《Nature morte au lièvre》は、紙ネガから塩化銀紙へ印画した作例で、The Metは工房が工業的な規模で写真を生産しようとした事業の一部として説明している*4。複製可能性は作品を一点物からシリーズへ変え、同じ像を複数の購入者へ届ける出版の前提になった。 LACMAは、1847年の改良で紙へ感光液を塗る代わりに浸漬することで濃度を均一にし、感度と階調を改善したこと、さらに潜像を薬品で現像する方法によって日光下での工程を数秒規模まで短縮したと説明している*23。彼は紙写真の柔らかな描写に加え、同じ品質を繰り返し作れる印画工程を求めた。

アルブミン紙

紙の表面を滑らかにし、細部と濃度を得やすくするアルブミン紙は、印画を一つの専門工程として成立させるうえで重要だった。Getty所蔵の《Bas-relief in Marble on Garden Wall》は、ブランカール=エヴラール名義を含む1853年頃のアルブミン・シルバー・プリントで、彫刻表面の凹凸と石壁の細部が一枚の紙面へ整理されている*15。技法の選択は、複製部数だけでなく、建築や美術作品の細部をどの程度再現できるかという出版上の品質に直結した。

イムプリムリー・フォトグラフィック

The Metの《Le Port de Boulogne》は工房による塩化銀紙プリントで、同館はブランカール=エヴラールの工程が化学的な安定性を改善したことを記している*8。また《Homme allongé au pied d’un châtaignier》はシャルル・マルヴィルのネガを同工房が印画した作品で、出版者が百点を超えるマルヴィル作品を複数のポートフォリオへ組み込んだことが分かる*5。工房はネガの選択、印画の調子、台紙、シリーズ構成を管理し、異なる撮影者の像を出版物として一定の見え方へ揃えた。 LACMAの解説によれば、印画所は最盛期に一日約5,000枚を生産し、最大40人ほどが工程別に働く分業体制を取った*23。1851年のロンドン万国博覧会では、雨天でも一つのネガから一日に200〜300枚を作れるという説明を添えて自身の新工程を展示している*1。撮影より印画速度を競うこの発想が、写真を出版物へ変える事業の前提になった。

撮影者と印画者の分業

ブランカール=エヴラール自身が撮影した《Joueurs de vielle》も、彼の工房で印画された塩化銀紙プリントとして残る*7。一方、《Album Photographique. Choix de Vingt Sujets Divers》にはマルヴィル、アーネスト・ベネッケ、アンリ・ヴィクトル・ルニョーなど複数の撮影者が同じ出版物へ集められている*6。撮影者名と印画者・出版者名が別々に記録される構造は、ネガ制作とプリント制作を独立した専門行為として社会化した。

§ 03 / 04 代表作・方法・媒体

『Album photographique』

『Album photographique de l’artiste et de l’amateur』は、建築、絵画複製、人物、風景を一定の台紙と番号でまとめた連続刊行物だった。BnF所蔵の《Abside de l’église de Notre-Dame à Paris》は1851年の第8図版で、印画所名、シリーズ名、番号が台紙に組み込まれている*9。シャルル・マルヴィルの《Palais de l’École des Beaux-Arts à Paris》も1852年の同シリーズに属し、撮影者とブランカール=エヴラールの編集・印画が一枚の記録上で分けて記載される*10。『Paris photographique』の《Vue prise du quai de l’École》では、都市景観が同じ印画所と出版者名の下でシリーズ化されている*11

デュ・カンの旅行写真集

マキシム・デュ・カンの『Égypte, Nubie, Palestine et Syrie』は、1849〜51年のエジプト・中東旅行で撮影した写真を、1852年にブランカール=エヴラールの工房で印画して刊行した。The Metのアブ・シンベル像は、同書第106図版として工房名を明記した塩化銀紙プリントである*17。同館は、125点の写真を収めたこの出版物を、実写真を全面的に用いた初期の旅行書として位置づけている*18。シウトの墓地を写した作例も同じ旅行のネガに基づき、印画の暖色調と紙面の統一がシリーズ全体の見え方を整えている*19。BnFは1852年にこのアルバムを収蔵しており、写真が考古学・建築の視覚資料として図書館コレクションへ入った早い例にもなった*13

建築・美術・人物のシリーズ

Imprimerie photographiqueの出版対象は特定のジャンルに限定されない。BnFには《Famille paysanne jouant aux cartes》のような風俗場面がブランカール=エヴラールの出版作品として残る*20。屋外の《Vieux paysan assis sur un tronc d’arbre》も同じ編集体系の中に保存されている*21。絵画や版画の複製では《Les Musiciens ambulants》のように原作品を写真化した図版が刊行され、作品名、版元、印画所を台紙上で明示した*22。写真工房は、現地撮影、人物像、美術複製を同じ印画・出版の形式へ揃えることで、異なる画像を一つの市場へ流通させた。

工房閉鎖と生産コスト

大量印画の技術が成立しても、写真出版が直ちに安価な印刷物になったわけではない。《Nature morte au lièvre》の解説でThe Metは、工房が五年間に550点を超える画像を刊行した一方、写真は競合するリトグラフより高価で、1855年に工房が閉鎖したと説明している*4。感光紙、薬品、水洗、手作業による貼付と製本を必要とする工程は、印画速度を高めても出版価格を押し下げるうえで制約を残した。

§ 04 / 04 批評と写真史上の位置

写真出版と美術複製

1850年代には写真が美術作品や建築を複製する新しい流通手段として期待された。Musée d’Orsayは、ブランカール=エヴラールの印画所が建築と美術作品の写真複製を芸術家や愛好家へ販売した初期の商業例として位置づけている*14。版画が原作品を線へ翻訳するのに対し、写真は光による濃淡と細部を別の紙面へ移す。その精密さを多部数へ変換する印画所は、美術作品の鑑賞と研究を原物の所在地から切り離す役割を担った。

印画の標準化

BnFに残る1853〜54年の大判写真群は、ブランカール=エヴラールが編集・出版した72点を一つのまとまりとして記録している*12。個々のネガの作者や題材が異なっても、紙質、印画、台紙、番号、シリーズ名を揃えることで、一冊または一組の出版物として統一された。イムプリムリー・フォトグラフィックは、異なるネガを同じ出版物へ組み込めるよう、印画品質、紙、台紙、番号、物理形式を一定の規格へ揃えた。

色写真への関心

ブランカール=エヴラールの技術関心は1855年の工房閉鎖で終わらない。The Met所蔵の1871年刊『Les couleurs en photographie: causerie』は、デュコ・デュ・オーロンらの三色写真法が発表された後、彼が色写真の実用化と印刷に関心を持ち続けていたことを示す*16。写真を一枚撮ることより、像をどのような材料で再現し、複数部へ変えられるかという問題が、活動の後期まで一貫していた。

印画者・出版者という作者

Gettyの人物記録には、ブランカール=エヴラールが撮影者だけでなく、数百点の作品でPrinterとして登録されている*1。写真の最終像はネガの作者だけで決まらず、露光時間、感光紙、現像、定着、色調、台紙、シリーズ編集によって変化する。イムプリムリー・フォトグラフィックでは印画工程を撮影と分けた専門業務として運営し、作品記録にも撮影者と印画者・出版者が別々に残る。写真集、ポートフォリオ、美術複製の成立には、カメラの後に続く印画と編集が制作工程として組み込まれていた。

§ REL 関連する写真家・運動
Photographers
  • ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット ― 紙ネガから複数の陽画を得るカロタイプを開発し、ブランカール=エヴラールの改良の技術的な起点となった。
  • マクシム・デュ・カン ― エジプト・中東旅行のネガをImprimerie photographiqueで印画し、125点の実写真を収める旅行写真集を刊行した。
  • シャルル・マルヴィル ― 建築・風景写真の多数のネガがブランカール=エヴラールによって印画・出版され、撮影者と印画者の分業を示す。
  • Imprimerie photographique ― 1851-1855年にリール郊外で稼働した写真印画所。写真をアルバム、ポートフォリオ、分冊として流通させた。
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§ SRC 出典

出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)

本文執筆 — AI

構成・編集 — 写真の座標 管理人

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