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PHOTOGRAPHERS/MAXIME DU CAMP ·旅写真 ·UPDATED 2026.09
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§ 316 — Photographer Index — 旅写真

マクシム・デュ・カン

Maxime Du Camp 1822–1894
Countryフランス Period1839–1860s Channel写真史の論点 · 旅写真
Abstract

ギュスターヴ・フローベールと1849–51年にエジプト、ヌビア、パレスチナを旅し、200点を超える紙ネガで遺跡を撮影した作家。正面性、真昼の光、人物による尺度表示を使い、遺跡の形と大きさを比較しやすい写真にした。1852年の写真集『Égypte, Nubie, Palestine et Syrie』では125点を同じ出版形式で提示したが、その画面は現地の生活より古代遺跡を優先し、19世紀フランスの考古学とオリエンタリズムの視線も伝えている。

この写真家が変えたこと

デュ・カンが旅の直前に写真を学んだ背景には、エジプトと聖地の遺跡を現地で繰り返し記録し、帰国後に複数部を印刷して調査成果として示すという目的があった。正面に近い構図と強い日中光を選び、必要に応じて人物を入れたため、読者は彫像や建築の形と大きさを写真同士で比較できた。さらに紙ネガは一つのネガから複数の紙焼きを作れるため、125点をブランカール=エヴラールの印刷所で写真集として刊行できた。この方法は遠隔地の遺跡をヨーロッパで研究・閲覧しやすくした一方、画面から同時代の生活を減らし、古代遺跡を西欧の考古学が調査する対象として整理する傾向も強めた。

Keywords Égypte Nubie Palestine et Syrie calotype salted paper print Flaubert archaeological mission Orientalism
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目次 · Table of Contents
§ 01 / 04 背景と時代

写真を覚えてから旅へ出る

デュ・カンはもともと文学者・ジャーナリストで、1849年の旅行直前にギュスターヴ・ル・グレイから紙ネガ写真を学んだ。The Metは、写真経験の乏しい状態から出発した彼が、アブ・シンベルへ着く頃には正面性と真昼の光を使う明快な撮影法を身につけていたと説明する。*3 BnFによれば、この旅で200点を超えるカロタイプを一年足らずで制作し、写真家としての主要な仕事はほぼこの旅と一冊の本に集中している。*1 写真活動がこの旅に集中した経歴からは、長距離旅行で多数の遺跡を同じ方法で記録する必要が、短期間で写真技術を習得する直接の理由になったことが分かる。

国家考古学調査とフローベール

1849–51年の旅では、デュ・カンはフランス公共教育省から考古学的な撮影任務を受け、私的な旅行と並行して遺跡の記録を行った。BnFは、古代エジプトと聖地への欧州の関心を背景に、デュ・カンがナイル流域とパレスチナの遺跡へ撮影を集中させたことを記している。*20 同行したフローベールは旅の日記や書簡を残し、同じ土地を文学的経験として記録した。The Metの作品解説では、デュ・カンがカメラを「新しい支配者」のように扱う観光者の態度と、フローベールの倦怠や違和感が対照的に示される。*3 両者の記録を比べると、フローベールが旅の感情や倦怠を書き残したのに対し、デュ・カンの写真は地点名を付した遺跡像を同じ形式で蓄積する役割を担っていた。

1840年代には、探検や考古学の記録へ写真を導入する期待がすでに広がっていた。シカゴ大学ISACの写真史は、デュ・カンのフランス公共教育省による任務を、その初期の制度的な実践の一つとして位置づけている。*24 彼の正面性や連続撮影は個人的な美意識から説明するだけでは足りず、「遠征で得た情報を帰国後の研究者が確認できる形で持ち帰る」という当時の学術的要求と結びつける必要がある。

§ 02 / 04 表現の核心

正面性、真昼の光、尺度

デュ・カンの代表的な方法は、建物や彫像を正面または説明しやすい角度から撮り、影が複雑になりにくい強い日中光を選ぶことだった。《Westernmost Colossus of the Temple of Re, Abu Simbel》では像の下部を掘り出し、助手を冠の上へ登らせ、巨大さを人間の身体と比較できるようにしている。*3 ピラミッドを南東から撮った写真でも、地形と建造物が画面内で互いの寸法を示すように整理される。*6 《Profile of the Great Sphinx》は横顔の輪郭を強く切り出し、周囲の生活景観よりモニュメントの形態を優先する。*5 第一急流の写真を遺跡写真と同じシリーズに収録したことで、読者は建造物だけでなくナイルを南下した経路も写真の順序から追える。*4 第二急流の眺めも同じ判型で収録され、異なる地点を同じ大きさの図版として比較できるようになっている。*10

なぜ紙ネガだったのか

紙ネガはダゲレオタイプより解像度が柔らかい一方、一つのネガから複数のポジを作れる。デュ・カンの目的が遠隔地の資料を持ち帰り、出版することにあった以上、この複製性は決定的だった。The Met所蔵の私家版ポートフォリオには174点が含まれ、温かい色調と発光感を持つプリントが残る。*2 ブランカール=エヴラールの印刷所で作られた出版版では、各写真が同じ冊子の判型にそろえられ、読者が連続して閲覧できる形になった。展覧会「Proof」は、私家版と出版版の色調差を、写真が撮影後の印刷工程でも大きく変わる例として示している。*21

遺跡を中心にした画面とオリエンタリズム

写真の明晰さは中立ではない。カイロの武器・器物を平面的に配置した写真では、生活の中で使われる物が分類可能な標本のように切り出される。*7 都市の泉と学校を撮った写真でも、現地の社会は建築の説明項目として画面へ入り、旅行者の視点から整理される。*11 Princeton University Art Museumは、デュ・カンの遺跡写真がエジプトを「異国的で時間の止まった」場所として提示し、19世紀のオリエンタリズムと結びつくことを指摘している。*17 そのためデュ・カンの写真は、精密な考古学資料であると同時に、古代遺跡を中心に撮ることで、同時代の人々や生活のどの部分が画面から外れたのかを検討する資料でもある。

§ 03 / 04 代表作・方法・媒体

『Égypte, Nubie, Palestine et Syrie』1852年

1852年に刊行された『Égypte, Nubie, Palestine et Syrie』は125点の写真を含み、ブランカール=エヴラールの工房で印刷された。*2 BnFも、デュ・カンの写真活動がこの旅行と1852年の刊行物に集中していることを紹介している。*1 一枚ごとに撮影地点と遺跡名が付され、125点が同じ冊子の中に並んだため、ヨーロッパの読者は現地へ行かなくても複数の遺跡を順に見比べ、地図や考古学記述と照合できた。写真集の構造そのものが、遠隔地で得た調査資料を共有する手段になっていた。Princeton所蔵の《Palace of Menephta, Gourna》のように各地点が独立した写真として切り出されることで、旅行中に見た各地点が、個別に参照できる図版として保存された。*18

アブ・シンベルと人物尺度

アブ・シンベルの巨像は、デュ・カンの方法がもっともはっきり見える。MoMA所蔵作でも、画面の大部分を彫像が占め、人物は小さな測定単位として働く。*13 Musée d’Orsayの《Haute Egypte. Bois de dattiers et de palmiers doums》では、同館がネガをデュ・カン、プリントをブランカール=エヴラールと記録し、撮影と印刷が別の専門工程として組み合わされていたことが確認できる。*15 National Gallery of Artのフィラエ神殿像も、遠近の誇張より建築の正面性と読みやすさを優先している。*14 画面内の人物は、巨像や建築との比率によって大きさを判断する尺度として機能している。

遺跡から出版物へ

Princeton University Art Museumの《Second Pylon, Temple of Isis, Philae》は、デュ・カンを撮影者、ブランカール=エヴラールを印刷者として分けて記録し、刊行写真が二者の工程で成立したことを明確にする。*16 Princetonの所蔵群は、同じ旅が複数の機関へ散在し、今日では一冊の順序と個別写真の両方から研究されることを示す。*18 日本では、せんだいメディアテークが2001年に「150年目の旅―マクシム・デュ・カン展」を開催し、刊行写真集の全125点を紹介するカタログを制作した。*19 デュ・カンの重要性は、遠征で得たネガを撮影地と題名で整理し、印刷所で複製して125点の写真集として配布した点にある。撮影だけで終わらず、閲覧順序と書誌情報まで含めて考古学写真を読者へ届けた。

§ 04 / 04 批評と写真史上の位置

記録の正確さと植民地主義的視線

デュ・カンの写真は、19世紀に写真が「正確な記録」として権威を得る過程をよく示す。メディネト・ハブの柱列は、建築要素を遠近法的に整理し、考古学者が構造を比較できる画面を作る。*8 フィラエを東から撮った眺めでは、島と遺構が一つの地理的対象としてまとめられる。*9 しかし同じ視覚秩序は、現地を「調べられる古代」へ還元する。したがって今日の評価では、写真の正確さを称賛するだけでなく、その正確さが誰の知識制度のために作られたかを問う必要がある。

1849–50年に集中した写真活動

デュ・カンは帰国後、文学、ジャーナリズム、社会観察へ比重を移し、この旅ほど大規模な写真活動を続けなかった。BnFの略伝が「一つの旅と一冊の本の写真家」と要約できるほど、写真歴は集中している。*20 だからこそ、このシリーズには1849–51年という時期の技術、旅行、考古学、出版の条件が凝縮している。Musée d’Orsayの作家資料も、写真制作が1849–51年の旅行に集中した文学者・旅行者としての経歴を示している。*22 ダンドゥールのプロピュロンやスフィンクスなど、多数の地点を同一フォーマットで撮る反復が、個々の傑作性よりシリーズ全体の力を作っている。*12

1852年の写真集と後続の旅行写真

のちにフランシス・フリスらがエジプトや聖地をより大規模に撮影し、市場向けアルバムを展開するが、デュ・カンはそれ以前の段階で、遠征中に作った紙ネガを帰国後に大量印刷し、撮影地名とともに一冊へまとめて販売する方法を実践していた。The Metの展覧会は1852年刊行物をフランス初期の写真入り書物として重要視しつつ、私家版とのプリント差も提示した。*21 私家版と出版版を比較すると、同じネガでも色調や印象が異なる。旅行写真の記録性は撮影だけで決まらず、撮影地点、光、人物配置、印刷方法、キャプション、ページ順序まで含む編集工程によって形づくられていた。

図版の系譜と、後世の考古学資料

デュ・カンの正面性や「全景から細部へ」という整理方法には、写真以前のエジプト調査図版という前史がある。シカゴ大学ISACは、ナポレオン遠征後の『Description de l’Égypte』が、地図、全景、建築部分の詳細図という順序で各遺跡を提示し、その構成が後の写真アルバムにも反復されたと指摘している。*25 写真アルバムにも、遺跡の全体を示してから部分へ進む同じ整理法が引き継がれた。ただしページに載る像は、手描きの測量図や版画から、現地で露光した紙ネガをもとにした写真へ変わった。考古学写真史を論じるFrederick N. Bohrerは、写真が遺跡の記録として使われる一方、撮影位置、出版、額装によって遺跡の見せ方も決まることを論じている。*26 さらにISACは、デュ・カンが1850年に撮ったルクソール神殿の写真を、1850年代後半以降の写真と比較して発掘・整地による変化を確認する資料として使用している。*23 フランスの考古学調査のために撮られた1850年の写真が、現在では遺跡がその後どのように発掘・整地されたかを検証する史料にもなっている。

§ REL 関連する写真家・運動
Photographers
  • ギュスターヴ・フローベール ― 同行者として旅を文章に残した作家。写真が場所を正面から整理する態度と、文学的な旅の経験を比較する手がかりになる。
  • ルイ・デジレ・ブランカール=エヴラール ― デュ・カンの紙ネガを125点の出版用プリントとして印刷した人物。撮影者と印刷者が別々の専門工程を担ったことを確認できる。
  • フランシス・フリス ― 後にエジプト・聖地を商業的に撮影・出版した写真家。旅行写真が考古学調査から大規模な市場へ展開する比較対象。
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§ SRC 出典

出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)

本文執筆 — AI

構成・編集 — 写真の座標 管理人

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