ラグビール・シン(Raghubir Singh、1942–1999)は、インドのジャイプル生まれの写真家である。1960年代後半から小型カメラとカラー・スライドを使い、インド各地の市場や街路を撮影した。河川や宗教儀礼、雨季の風景にも取り組んだ。1974年の『Ganga』や1998年の『River of Colour』を刊行。没後の2002年には『A Way Into India』も出版された。インドの宮廷細密画と西洋の街頭写真を参照し、色彩の重なりと複数の出来事を一画面に収める構図を追求した。
白黒の街頭写真が有力だった1960年代から、シンはインドの市場や雨季の景色をカラーで撮影した。《Monsoon Rains, Monghyr, Bihar》(1967)では、雨に打たれる人物を濡れた衣服や地面の色とともに捉えている。ジャイプルの宮廷絵画を複写した経験は、ラージプート絵画の多焦点の配置を街路に応用する土台となった。《Zaveri Bazaar and Jeweller’s Showroom》(1989)では、鏡と窓を使って店内と往来の出来事を一画面に重ねている。インド美術を起点とするカラー写真の系譜を示し、欧米の「ニューカラー」を中心に語られがちな写真史に別の視点を加えた。一方、《Employees, Morvi Palace》(1982)には宮殿の装飾と床を磨く女性が写る。旧貴族出身の撮影者が労働者をどう捉えたかという批判は、構図の評価にも関わってくる。
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ジャイプルからカルカッタへ——報道写真の出発点
ラグビール・シンは1942年、ラージャスターン州ジャイプルのラージプート系旧貴族家庭に生まれた。独立後の社会変化のなかで家業から距離を取り、シンは写真の仕事を求めてカルカッタに移った。少年期から親しんだ西洋の写真雑誌が、写真家を志す手がかりとなる。1960年代後半には海外の雑誌にも作品を寄せている。*12 宮廷文化の内部を知る出自は、後に《Employees, Morvi Palace》(1982)で床を磨く女性たちにレンズを向けた立場を考えるうえで無視できない。
宮廷絵画の複写——多焦点の構図を学ぶ
1966年にジャイプルでカルティエ=ブレッソンと出会い、瞬間的な人物の配置に関心を深めた。同時期には美術史家スチュアート・キャリー・ウェルチの依頼で、王家の絵画を複写する仕事にも携わった。絵画の細部を観察して写真に定着させる反復作業が、ラージプート宮廷画への関心を深めた。*13 一枚の絵に配された人物と建築の細部を、ファインダーの枠に収め直す仕事である。*16 後の街路写真では、複写する対象が固定された絵画から動く人や車へ変わり、瞬時に配置を選ぶ判断が求められた。
宮廷画では複数の人物や出来事が配され、視線が中心と周辺を往復する。シンはその構成を、人や車の動きと鏡の反射が交錯する街路写真に応用した。1970年代に親交を結んだ写真家ウィリアム・ゲドニー、リー・フリードランダーの実践も参照した。*1 フリードランダーの窓の反射とラージプート絵画の人物配置は、後の《Zaveri Bazaar and Jeweller’s Showroom》(1989)を読み解く二つの手がかりとなる。
《Monsoon Rains》——季節と人々を写す色彩
《Monsoon Rains, Monghyr, Bihar》(1967)には、ガンジス河畔で雨に打たれる女性たちが写る。濡れた衣服や地面を包む雨が、画面全体の色を形づくっている。*4 シンは1994年のインタビューで初期のこの写真を叙情的で単純な構成と振り返り、その後はさらに複雑なイメージへ進んだと語っている。*3 1967年の雨季の写真と1989年の《Zaveri Bazaar》を比べると、人物の動きが集まる初期の構図から、反射で複数の場面を見せる構図への展開が分かる。1967年の《Chess Players, Monsoon Floods, Benares》では、浸水する町で二人がチェス盤を囲む。*9 浸水する街の中でも二人は盤上の対局を続け、水の動きとチェス盤に向かう身体の静けさが一画面に収まる。同じ1967年の雨季を扱う二作では、女性たちの動きとチェスを続ける二人の静けさが対照をなす。1999年の書評も、浸水の中で続く遊戯にユーモアを見いだしている。*14 スミソニアン所蔵のプリントは、1967年のネガから1989年に焼き付けられたものだ。撮影とプリント制作の時間差も作品の来歴に刻まれている。*20
《Zaveri Bazaar》——鏡と街路の多層構図
1980年代末になるとシンは、画面の複数の場所で同時に進む出来事を一度の露光に収めるようになる。《Zaveri Bazaar and Jeweller’s Showroom》(1989)では、鏡や窓が店内と街路の光景をいくつにも分ける。視線は手前の商品から奥の建物や通行人へと進む。*7 《Dhabawallah, Bombay》(1992)では、配達人の動線を建物や道路の線が横切り、都市の密度が画面に刻まれている。*5 移動する人物と動かない建物や商品棚の線が交差する瞬間を捉えることで、一枚の画面に複数の時間と動線を生み出している。
フリードランダーもショーウィンドーや反射で画面内外を交錯させた。シンは反射を使い、街で同時に進む商売や移動の日常を写し込んでいる。1994年のインタビューでは、川や女性の衣服に見いだした色をカラー撮影の動機として語っている。*3 《Zaveri Bazaar》では鏡によって店内と路上が分割され、配達人の写真では移動する身体が建物の輪郭に重なる。カラーの選択は、物と人の差異を一画面の中で見分けることにも関わっている。
《Subhas Chandra Bose Statue》——記念碑と街の現在
《Subhas Chandra Bose Statue, Calcutta》(1986)には、独立運動の指導者を顕彰する像と現在の街を行き交う人々が写る。独立運動家の記念像は過去の政治を伝え、その前を行き交う人物や車は1986年のカルカッタの日常を刻む。*6 記念像の周囲を歩く人々の誰にレンズを向け、どの姿を中心に据えるか。その選択が、都市を語る撮影者の立場を表している。《Sital Mata Goddess and Worshipper》(1989)に目を向けると、信仰の対象と祈る人物の距離をカラー写真が具体的に表している。*10 《Sital Mata Goddess and Worshipper》では、神像と礼拝者が同じ写真に現れるため、像を眺める行為と祈る動作を切り離さずに見ることができる。
『Ganga』『Rajasthan』——河川と地域を編む写真集
シンは『Ganga: Sacred River of India』(1974)を皮切りに『Rajasthan』(1981)と『Kashmir』(1983)を刊行し、さらに『Kerala』(1986)へと地域別の作品を広げた。河川をたどる旅と州ごとの取材を重ね、都市と村落の生活や宗教儀礼を写真集ごとの構成に結びつけた。ガンジス川を軸とした1974年の巻と、ラージャスターンを扱う1981年の巻では、撮影者がどの地名と範囲で作品を編むかという単位そのものが異なる。*3
『Ganga』が流域を一冊の単位としたのに対し、『Rajasthan』は州内の景観や人々を集める。その地域別の編集を経て、1998年の『River of Colour』では約三十年分の写真をインド各地にまたがる一冊へ再編した。1994年のインタビューでは、地方を繰り返し訪れる旅と写真集の編集作業を結びつけて語っている。*3 『River of Colour』の書評では、水害の中でチェスを続ける人々から都市の交通まで、普通の生活を写した場面の力が論じられた。*14 1967年の洪水下のチェスと1989年の宝飾市場の写真は、撮影地も時期も異なる。その隔たりを写真集全体の色彩と反復の中で読むことになる。
『River of Colour』から『A Way Into India』へ
『River of Colour: The India of Raghubir Singh』(1998)は、三十年に及ぶ仕事から写真を選び直した回顧的な一冊である。ガンジスの河畔や宗教儀礼、都市の往来を地域や年代の境界を越えて収めている。*14 シンが唱えた「ガンジス側のモダニズム」には、インドの視覚文化からも近代写真の形式を考えるという主張が込められている。*1
没後2002年に出版された『A Way Into India』では、移動を支える車窓や車体が重要な役割を担う。窓枠と街の輪郭を一画面に収めることで、路上の出来事を見る車内の撮影者の位置まで構図に組み込んだ。車体の形を繰り返す写真集の構成は、異なる町を走る場面をつないでいる。同時に、車窓の高さと路上までの距離が街の見え方を左右する。アンバサダー車の窓越しに見ると、路上の人々は車内の撮影者とは異なる高さと距離で捉えられる。シリーズに登場するアンバサダー車は、1957年に製造を始めたインドの大衆的な乗用車である。スミソニアンの展覧会資料は、車体の曲線と窓や鏡が景色の枠と尺度を兼ねる点に注目する。*18 車の中で撮影者が占める位置は、街路を歩く人々との社会的・物理的な距離も定める。*19
《A Young Assistant》——反射が写す労働の配置
《A Young Assistant of a Betel Leaf Seller, Benares》では少年がカメラを見返し、背後の鏡には画面外の雇い主が現れる。*8 反射は構図に奥行きを与えるとともに、少年が働く場所とその人物の関係まで写し込む。2018年の『Frieze』誌の展覧会評は、鏡に映る人物を階層の違いを読む手がかりとした。*11 手前でカメラを見返す少年と、奥の鏡に現れる雇い主。その配置によって、正面の肖像だけでは見えない職場の上下関係まで一枚に収まる。
「ガンジス側のモダニズム」——宮廷絵画と階級の視線
「ガンジス側のモダニズム」という言葉には、パリやニューヨークを中心に語られがちな近代写真をインドの絵画や都市から捉え直す意志がある。2017年のメトロポリタン美術館展は、85点の写真を宮廷絵画や欧米の同時代作品と対置した。シンが参照した美術の系譜を、展示室で直接比較できる構成である。*1 図録にはミア・ファインマンやアミット・チャウドゥリのほか、シャナイ・ジャヴェリとパルタ・ミッターも寄稿している。*15 宮廷画とシンの写真を同じ展示室で見ることで、複数の人物を画面内に配する方法や鮮やかな色面の配置を直接比較できる構成だった。
色彩が「インドらしさ」の証拠として消費されると、作品を成立させた階級差や具体的な生活の条件が見えにくくなる。2018年にラティク・アソカンが『The Caravan』誌で検討したのは、『Rajasthan』(1981)にある旱魃の村の記述である。焦点となったのは、旱魃による困窮の事実と、鮮やかな衣服や人々の活力を称える記述との落差である。*12 作家が困窮を知りつつ、何を作品の中心に選び、何を背景に置いたのか。批判はその選択に向けられている。
同じ批評が挙げる《Employees, Morvi Palace, Gujarat》(1982)には、宮殿の床を磨く二人の女性と、装飾的な室内の模様が写る。画面では衣服と床や家具の模様が呼応し、二人が床を磨く労働者である事実も刻まれている。*17 装飾の反復が強いほど、そこで働く女性の姿は模様の一部にも見えてくる。模様の反復に目を奪われると、床を磨く仕事そのものが背景へ退く危うさも生じる。旧貴族出身の作者が撮ったと考えると、宮殿の使用人へ向けた視線をめぐる問いがいっそう具体的になる。宮殿の装飾と清掃する二人を同じ色彩の構成に収めたことが、視覚的な完成度と階層差の描かれ方を同時に問わせる。
ニューカラーとの比較——インド絵画に根ざすカラー写真
欧米の写真史でカラーが芸術表現として定着していく過程では、エグルストンやスティーヴン・ショアの役割が繰り返し語られてきた。エグルストンが米国南部の日用品や室内の色を撮る一方、シンは1967年の雨季の水害や1989年のムンバイの宝飾市場をカラーの主題にした。インド宮廷画の多焦点の構図もその制作を支えている。*2 シンの制作には旧貴族という出自とインド宮廷画の学習に加え、海外雑誌での仕事も関わっていた。ニューカラーとの比較は、その違いまで含めて成立する。
2017年のメトロポリタン美術館展は、写真85点と宮廷絵画や欧米の写真を対置して構図の系譜を検討した。一方2018年の批評は、その構図が階級差をどう見せるかを問うている。*12 例えば《Employees, Morvi Palace》を見ると、装飾された床面とそこで働く女性を一緒に撮った構図が批評の争点となる。階級をめぐる緊張は、シン自身の『Rajasthan』(1981)の文章にも表れる。旱魃の村の困窮と鮮やかな衣服に見いだした活力への賛美が、同じ記述の中に併存する。*12 王家の絵画を複写した経験から学んだ構図が、宮殿で床を磨く労働者をどのように見せたのか。そこにシンの写真の達成と批判が重なる。
- アンリ・カルティエ=ブレッソン ― 街路で形と瞬間を合わせる技法を学んだ先行者。シンは色彩と多層構図を重ねた。
- ウィリアム・エグルストン ― 米国で日常の色彩を作品の中心に据えた同時代人。シンの場合はインドの絵画・気候・宗教に根差す。
- リー・フリードランダー ― 反射やフレーム内の錯綜を共通の課題としながら、シンは街の絵画的な色面へ独自の秩序を与えた。
- ラグー・ライ ― 独立後のインド社会を取材した同世代の写真家。白黒の報道を軸とするライに対し、シンはカラーの写真集を通して地域を構成した。
1967年の洪水下のチェスから1980〜90年代の都市の反射まで、約三十年のカラー写真を再編集した一冊。インド各地の街路と川を一つの作品群として読み直せる。
書誌を見る ↗- Aperture - India in Full Color
- The Met - A Taxi Driver, Calcutta (1987)
- SFMOMA - Raghubir Singh: collection
- Museum of Fine Arts Houston - Modernism on the Ganges
- Royal Ontario Museum - Modernism on the Ganges
- Open Library - Raghubir Singh books and editions
- The New Yorker - India Before Instagram, Raghubir Singh
- Architectural Digest India - Inside the World of Raghubir Singh
- The Met - Ram Rahman, Raghubir Singh, Delhi (1982)
- The Met - Village Well, Barnawa, Rajasthan (1977)
- The Met - Barber and Goddess Kali, Calcutta (1987)
- The Met - A Wedding Party, Jodhpur-Jaisalmer Road (1988)
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
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