デイヴィッド・ゴールドブラット(1930–2018)は南アフリカ、ランドフォンテイン生まれ。金鉱山の町で育ち、紳士服店で働きながら撮影を続け、父の死後に店を売却して1960年代初頭から写真に専念した。鉱山、アフリカーナー社会、住宅、道路、教会、土地を長期撮影し、『On the Mines』『Some Afrikaners Photographed』『The Transported of KwaNdebele』『The Structure of Things Then』などへまとめた。1989年にはMarket Photo Workshopを設立し、カラー作品にも取り組んだ。
アパルトヘイト期の南アフリカ写真には、警察暴力、抗議、強制撤去を直接記録する重要な系譜がある。ゴールドブラットは同じ制度を、鉱山、住宅、教会、道路、通勤、土地の区画、建築物の配置から長期的に調べた。アパルトヘイトを「暴力が起きた瞬間」だけでなく、誰がどこに住み、働き、学び、移動できるかを毎日決めていた建物、道路、土地、通勤時間まで写す対象にした。 これが重要なのは、人種隔離がニュースになる事件の場面だけでなく、平穏に見える住宅地、教会、鉱山町、交通網の日常にも組み込まれていたことを写真から読めるようにしたからである。詳細なキャプションと写真集の編集は、画面だけでは分からない法律、地名、土地の履歴、移動距離を補った。ゴールドブラットは事件そのものの告発より、事件を生み続ける社会の日常的な仕組みを長く調べた。そこに彼のドキュメンタリー写真の特徴がある。
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ランドフォンテイン
デイヴィッド・ゴールドブラットは1930年、ヨハネスブルグ西方の金鉱山町ランドフォンテインに生まれた。両親はリトアニア系ユダヤ人の家系で、父は紳士服店を営んだ。MoMAは、彼が高校時代から写真に関心を持ちながら、当初は写真だけで生計を立てられず家業で働いた経歴を記している。*1 鉱山会社、アフリカーナー農民、英語系白人、黒人労働者の生活圏が近接しながら法的・経済的には分断された町で育った経験は、後年の鉱山、住宅、道路、土地への長期的な関心につながった。
ゴールドブラット自身は、ユダヤ人として反ユダヤ主義を経験する一方、白人としてアパルトヘイト社会の特権側にも属していた。本人のインタビューは、その二重の位置を明確に語っている。*15 彼の写真が「外から悪を告発する」という単純な構図を取りにくいのは、自分自身も制度の内部で生活し、利益を受ける側だったという認識と切り離せない。『Some Afrikaners Photographed』でも、民族全体を代表する典型像を作るより、個々の人間、家、土地、恐れや愛着の細部を調べることを選んだ。*27
アパルトヘイトと写真
1948年以後、アパルトヘイトは人口登録、居住、教育、移動、公共施設を人種別に分離する法制度として強化された。Okwui EnwezorとRory Besterが企画した「Rise and Fall of Apartheid」は、住宅、交通、教育、宗教、商業まで制度が日常生活へ浸透した過程を、報道、社会ドキュメンタリー、写真集、新聞など異なる視覚資料から検証している。*36 この広い写真史の中で見ると、ゴールドブラットの建物や郊外を撮る方法は政治から離れた静物的な選択ではない。法律が暴力の瞬間だけでなく、毎日の移動距離、家の位置、道路、教会、記念碑へ形を変える場所を記録する方法だった。
若い頃のゴールドブラットは『Life』『Look』『Picture Post』のフォトエッセイに憧れ、ニュース写真家を志した。ANCの会議を撮影した際にフィルム送りの失敗で一枚も残せなかった経験や、暴力の現場で即座に撮影することへの不適性から、本人は自分がニュース撮影に向かないと考えるようになった。*32 後年、彼はニュースになる「出来事」より、出来事を生む「条件」に関心があったと説明している。*3 これは静かな作風を後から正当化した言葉ではなく、報道写真への志望と挫折を経て、政治をどこに見るかを選び直した経緯だった。
Jewish Museumは、ゴールドブラットが大きな政治事件をほとんど撮らず、普通の人びとの生活へ制度が入り込む様子を追ったと説明する。*31 《In Boksburg》の庭、結婚式、商店、教会は穏やかに見えるが、その町は法的には白人専用で、生活は黒人労働に依存していた。静かな画面を崩さないことによって、「善良で普通の生活」と差別制度が同時に成立していた矛盾を読ませる。
写真専業への転換
父が1962年に亡くなると家業を売却し、1963年頃から写真家としての仕事に専念した。*12 雑誌、新聞、抵抗運動の現場ではピーター・マグバネやアーネスト・コールらが直接的な暴力や管理を可視化していたが、ゴールドブラットは鉱山、白人住宅地、黒人労働者の通勤、強制移転後の土地へ繰り返し戻った。MACBAが彼の仕事を南アフリカ社会の政治構造と日常の価値体系を読む長期的な社会調査として位置づけるのは、この時間の使い方による。*25
建物を撮り続けた理由も様式史への関心だけではない。South African History Onlineによる『The Structure of Things Then』の解説は、教会、住宅、記念碑、行政建築を、人間が持つ価値観と制度が物質化したものとして読む。*33 ゴールドブラットは後年まで同じ場所を撮り直し、廃止された法律が壁、道路、土地所有、移動時間にどれだけ長く残るかを比較できる記録を作った。
制度と日常
ゴールドブラットはApertureのインタビューで、ニュースになる出来事より、その出来事を生む条件に惹かれていたと説明している*3。そのため、短時間の事件取材より、同じ場所や制度を何年も調べ、建物や生活の細部を繰り返し撮る方法を選んだ。抗議や衝突のピークを追う代わりに、静止した建物、労働現場、通勤路、住宅地へ戻り、誰がどこに住み、どれだけ移動し、どの素材で家が造られ、どんな記念碑が置かれたかを記録した。MoMAは『South Africa: The Structure of Things Then』を、物理的構造と、それを生んだ植民地主義・アパルトヘイトの観念的構造を重ねて読む仕事として紹介している*1。
建築とイデオロギー
《Gang on surface work, Rustenburg Platinum Mine》(1971)では鉱山労働者を、個人の悲劇だけでなく採掘産業の空間とともに見ることになる。MoMAの解説は、ゴールドブラットが南アフリカのレンガ、泥、石、鉄、コンクリートに過去の選択と価値判断が埋め込まれていると考えたことを示す*8。建物を正面から静かに撮ることで、住宅の配置、材料、境界線、記念碑といった細部から、誰のために作られた場所なのかを考えさせた。『In Boksburg』で白人中産階級の庭、商店、余暇を撮ったのも、抑圧が例外的な悪人だけで維持されるのではなく、平凡な生活の「正常さ」に支えられていることを見るためだった*18。
Sally Gauleは『On the Mines』を、鉱山施設の建築写真というより、採掘産業がヨハネスブルグとそこで働く人間をどう形づくったかを断片から読む写真の物語として分析している。*35 竪坑、巻揚機、宿舎、労働者の身体を別々の被写体として見るのではなく、資本、鉱物、土地、労働が同じ空間を作る要素として読むことで、ゴールドブラットの建築写真が「無人の形式美」に還元できない理由がはっきりする。
写真とキャプション
ゴールドブラットの作品では撮影地、人物、職業、社会制度、土地の履歴を記す長いキャプションが重要である。Goodman Galleryの展示資料は、写真とテキストの組み合わせが場所の政治的・歴史的な層を具体化することを示している*4。写真だけでは判別できない人種区分、強制移住、移動距離、所有関係を言葉で補い、鑑賞者が「印象」だけで南アフリカを消費することを避ける。ここでキャプションは、見えているものと制度上の意味のずれを埋める調査記録として働く。
長いキャプションは撮影後の補足ではなく、ゴールドブラットの写真の作り方に組み込まれていた。Apertureの対話で本人は、自分の写真は絵画より文章に近く、一枚の写真を段落、複数の写真を連ねることを文章の構成にたとえている。*3 また『Life』『Look』『Picture Post』が、写真、短いキャプション、補助説明、本文という複数の情報層を使っていたことから学んだと語っている。*3 画面には平穏な家、道路、人物しか見えない場合でも、地名、法的区分、職業、距離、土地の履歴を言葉で特定すると、その日常がどの制度に支えられていたかを読める。この写真と言葉の分業が、劇的な場面を選ばない彼の方法を成立させた。
長期撮影と社会の変化
MACBAは、ゴールドブラットの写真に被写体、土地、政治、表象のあいだの持続的な緊張があると説明している。*25 強いスローガンを画面へ持ち込む代わりに、誰が土地を所有し、どこに教会や家を建て、誰が何時間かけて通勤するのかを撮り、その意味をキャプションで特定した。写真だけで判断できない部分をキャプションで補い、鑑賞者に撮影地の歴史や法制度まで確認させる方法が、彼の批評性を支えている。
《The Transported of KwaNdebele》
《The Transported of KwaNdebele》では、アパルトヘイト下の強制的な居住政策によって都市から遠く離れた地域に住む労働者が、暗いうちから長距離バスで通勤する状況を追った*9。車内、停留所、眠る身体、暗闇を連続して見せることで、黒人労働者に毎日何時間もの通勤を強いた居住政策を具体的に示した。これはゴールドブラットの長期調査が最も明確に現れる仕事の一つである。
長期観察では、同じ建物を時間を隔てて撮ることも重要だった。建築・都市研究誌『Places Journal』は、Fietasで1977年に撮ったIslamic Butcheryを後年に再撮影した例を取り上げ、店の外観に残る変化から、強制撤去後の地区の変貌と抵抗の痕跡を読んでいる。*34 建物は動かないため政治的に「静か」に見えるが、反復撮影すると、看板の消失、閉鎖、周辺開発といった変化が制度の結果として現れる。ゴールドブラットが建築を撮った理由は、建物を造形として鑑賞するためだけではなく、人間が作った規則や価値観が物質として長く残るからだった。
《In Boksburg》
1979〜80年の《In Boksburg》は、白人中産階級の町の日常を、事件のない時間の連続として撮った。2015年再版に寄稿したSean O’Tooleは、この仕事が当初『Optima』誌の依頼から始まりながら掲載されず、後に独立した写真集へなった経緯を整理している。*37 ゴールドブラット自身はBoksburgを、白人の夢と礼儀正しさによって形づくられながら、黒人は働き、商売し、統治されても「権利として」町に属することはできない場所と説明した。写真集はこの矛盾を、暴力の場面ではなく、庭、店、教会、余暇、家族行事の平穏さの中に残した。
白黒からカラーへ
アパルトヘイト期にゴールドブラットは、カラーが自分の言いたいことに対して「甘すぎる」と感じ、白黒の抽象性と現実感を必要としたとMoMAの音声資料で語っている*14。民主化後はカラーを積極的に用い、『Intersections』では土地、犯罪、記憶、都市開発を大判カラーで扱った*5。この移行には、技術の更新とともに、社会の見え方と写真が担う距離の再検討があった。
写真集と長期シリーズ
『On the Mines』『Some Afrikaners Photographed』『In Boksburg』『The Structure of Things Then』『TJ』などは、個別作品を主題ごとに長期間蓄積し、写真集として関係づける構造を持つ。『TJ』はヨハネスブルグを数十年にわたり撮った像を再編集し、都市の変化と反復を並べた*7。Goodman Galleryの2018年展も、1948年から2018年までのヨハネスブルグ像を通じ、単一の歴史的瞬間より長期的な変化を読む必要を示した*6。
《On the Mines》《Some Afrikaners》
《On the Mines》は1960〜70年代の金鉱山と周辺社会を、鉱山景観、採掘設備、管理者、坑夫の生活から構成した。Norval Foundationは、この連作を鉱業が南アフリカ経済と社会を形成した仕組みを読む80点のまとまりとして紹介している。*28 《Some Afrikaners Photographed》は1960年代に撮影を進め、1975年に刊行された。後年の再版では写真が追加され、単一の民族像を固定するより、撮影者自身の位置を含めてアフリカーナー社会を読み直す対象になっている。Cambridge University Pressの研究は、初版と再版の差を含め、この写真集がアイデンティティを構成する働きまで検討している。*26 《The Transported of KwaNdebele》は1989年に写真集と巡回展としてまとめられ、長距離バス通勤がアパルトヘイトの居住政策によって生み出されたことを連作で示した。*12
アーネスト・コールとの距離
同じアパルトヘイトを扱っても、アーネスト・コールが黒人の日常に課される暴力と管理を内側から迅速に記録したのに対し、ゴールドブラットは建築、白人社会、労働環境、土地へ長く留まった。MoMAも両者の差を、コールが黒人の生きられた経験を写し、ゴールドブラットが構築環境へ重点を置いたと説明している*8。この違いの核心は、何を政治の証拠として選んだかにある。
SFMOMAの2012年展「South Africa in Apartheid and After」は、ゴールドブラット、アーネスト・コール、ビリー・モンクを同じ展覧会で比較し、同じ社会を撮っても政治の証拠として選ぶ対象が異なることを示した。ゴールドブラットの《In Boksburg》が白人郊外の日常とその「正常さ」を扱う一方、コールは黒人に課された移動、労働、監視を直接撮り、モンクは人種的に混在した夜の社交空間を記録した*29。さらにWalther Collectionはサントゥ・モフォケンとゴールドブラットを対話的に展示し、南アフリカの土地や社会を長期的に読む二つの異なる方法を比較している*30。この比較から、ゴールドブラットの特徴は政治性の強弱ではなく、事件の現場よりも、制度が長く残す建築、土地、生活時間を証拠として選んだ点にある。
EnwezorとBesterの「Rise and Fall of Apartheid」が重要なのは、アパルトヘイト写真を一つの「抵抗写真」へまとめず、報道、フォトエッセイ、社会ドキュメンタリー、芸術写真が異なる速度と対象で制度を記録したことを示した点にある。*36 ゴールドブラットをコールやマグバネと比較するときも、政治性の強弱ではなく、事件、身体、建築、土地のどこを証拠として選んだかの違いとして考える方が正確である。
Market Photo Workshop
1989年、ゴールドブラットはヨハネスブルグにMarket Photo Workshopを設立した。South African History Onlineと同校の沿革によれば、アパルトヘイト下で写真教育へアクセスしにくかった学生に視覚リテラシーと写真技術を提供する場として始まり、その後、南アフリカ写真の重要な教育機関へ成長した*11*23。UCLの研究は、民主化後も同校が新世代の写真家にとって、アイデンティティ、記憶、自由を検討する場として機能してきたことを論じている*24。ゴールドブラットの影響は作品の形式だけでなく、誰が写真を学び、批評し、社会を記録できるかという教育環境にも及んだ。
静かな画面の批評性
ゴールドブラットの写真は劇的な暴力を避けるため、政治から距離を置いた形式と誤解されることがある。しかしMoMAは1998年展を写真による社会批評への独自の入口と位置づけた*2。Apertureも、彼の土地の写真がアパルトヘイト後も残る不平等、記憶、所有の問題を追い続けたことを論じている*20。Yaleのコレクションや国際的な回顧展が示すように、評価の中心は、アパルトヘイト期の出来事を記録したことだけでなく、法律や人種区分が住宅、道路、土地、移動時間にどう残るかを数十年追った方法にも置かれている*13。近年のGoodman Galleryの展示も、土地と歴史の残響を現代の視点から再検討している*21。
本人への長時間インタビューでは、撮影前に相手へ許可を求め、人物の固有性を記録する姿勢が繰り返し語られている*15。米国務省の紹介やLensCultureの資料も、長期的な南アフリカ社会の観察を彼の中核に置く*16。ArtHubのインタビューは、色、政治的立場、風景の選択を本人の言葉から確認できる*22。こうした資料を横断すると、ゴールドブラットにとって写真は即時の告発画像を作る道具というより、社会がどのように普通の風景へ沈殿するかを、細部、時間、言葉で検証する方法だった。
国際的な再評価
ゴールドブラットの長期制作は建築だけに限られない。MoMA所蔵の《Street Trader》では、路上の商売と身体、都市の経済が一枚の生活空間として記録されている*10。LensCultureの作家資料は、鉱山、アフリカーナー、黒人居住区、ヨハネスブルグ、土地といった複数の系列を、南アフリカ社会を長く観察する一つの実践として整理する*17。リトアニア国立美術館の「Invisible Structures」も、写真に直接写らない法律や人種区分が、建築、距離、所有、移動を通じて画面に現れるという観点から回顧した*19。ここでいう「構造」は、壁の材質、道路の幅、家の位置、バスの時間、仕事場までの距離といった具体の集合を指す。だから彼の写真は、キャプションを読む前と後で同じ風景が別の意味を持つ。見た目には静かな郊外や建物が、制度の設計図として読み替えられることに批評性がある。
- アーネスト・コール ― 南アフリカ / 社会ドキュメンタリー
- ベルント&ヒラ・ベッヒャー ― 建築 / タイポロジー
- トーマス・シュトゥルート ― 都市 / 建築
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
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