写真の座標 Photo Coordinates
PHOTOGRAPHERS/THOMAS STRUTH ·デュッセルドルフ派 ·UPDATED 2026.08
TS
§ 295 — Photographer Index — デュッセルドルフ派

トーマス・シュトルート

Thomas Struth 1954–
Countryドイツ Period1990 — 2010s ChannelInstitution / Large Format
Abstract

トーマス・シュトゥルートは、無人の都市街路、家族肖像、美術館の観客、熱帯雨林、NASAやCERNなどの科学技術施設を撮影してきたドイツの写真家。《Unconscious Places》《Family Portraits》《Museum Photographs》《New Pictures from Paradise》《Nature & Politics》を軸に、大判写真と反復撮影を使いながら、街や家族、文化施設、技術装置に人間の歴史と価値判断がどう残るかを追った。絵画から写真へ転じた理由と、ベッヒャーの方法をどこで受け継ぎ、どこで離れたのかを中心に読む。

この写真家が変えたこと

ベルント、ヒラ・ベッヒャーは、同じ種類の工業建築をほぼ同じ条件で撮り、複数の写真を並べることで形の差を比較した。シュトゥルートはその比較の考え方を受け継ぎながら、街路、家族、美術館、科学施設を一つの撮影規則にはめなかった。無人街路では戦災と再建、都市計画の結果を建物や道路から読み、家族肖像では家族自身が決めた座り方と人物同士の距離を記録した。《Museum Photographs》では歴史画と現在の観客を同じ画面に置き、《Nature & Politics》では研究者の肖像を避け、複数の専門家、予算、政策判断が組み合わさってできた研究装置そのものを撮った。対象ごとに「何を同じ画面に入れれば、その場所や集団を作った人間の判断を比較できるか」を決め、カメラ位置、人物の扱い、画面サイズまで選び直したことが、シュトゥルートの具体的な更新である。

Keywords デュッセルドルフ派 Unconscious Places Family Portraits Museum Photographs Nature & Politics 大判カラー写真
§ WORKS 作品を見る
目次 · Table of Contents
§ 01 / 04 背景と時代

絵画から写真へ

シュトゥルートは1973年にデュッセルドルフ美術アカデミーへ入り、翌年からゲルハルト・リヒターに学んだ。写真は当初、35mmカメラで通行人や街を撮り、写実的な絵画の資料にするためのものだった。*1 だが本人は、次第に関心が絵具を扱う工程より「像を作ること」そのものにあると気づき、撮影した写真の段階ですでに必要な像が成立していたと振り返る。*13 さらに、自分の心理を画面へ投影することより、世界に実在するものを観察し、社会的・政治的な問題を考えることに惹かれていたとも語っている。*14 2015年には自らをまず「picture-maker」と呼び、目の前の複雑な現実を絵画で描けば膨大な時間が必要になるためカメラを使う、と説明した。*19

写真を選んだことで、絵画で学んだ構図への関心が消えたわけではない。MoMAの展覧会カタログは、シュトゥルートの目的を調査的・報告的としながら、画面の組み立て方は「画家的」だと整理し、初期の無人街路をリヒターが1960年代に描いた灰色の都市景観と比較している。*29 リヒターが写真由来の像をぼかして絵画の表面へ変換したのに対し、シュトゥルートは建物、舗装、看板、空地といった、すでに現実に存在する要素を同じ画面へ残した。彼にとって写真は、世界を一から作るより、世界にすでにある多数の情報を一度に記録し、その配置から社会を考えるために適した媒体だった。

戦後ドイツと街路

リヒターの《Atlas》制作を手伝い、私的写真や報道写真を大量に並べる作業に触れたことは、写真を一枚ずつ鑑賞するだけでなく、複数の像を比較して意味を考える経験になった。*1 当時のアカデミーにはマイケル・アッシャー、ダニエル・ビュレン、リチャード・セラらも訪れ、作品の形だけでなく、それが置かれる空間や制度、社会的な文脈まで作品の一部として考える美術が身近にあった。*3

同時に、シュトゥルートが育った西ドイツでは、戦争の犯罪と破壊を過去へ押しやり、都市を再建して「正常な社会」を作ろうとする動きが進んでいた。*18 彼が街路へ向かったのは、この歴史を政治家や市民の肖像で代表させるためではない。戦前から残る建物、戦後の再建、道路の幅、空き地、新しい商業建築が一つの通りに同居する状態そのものが、社会が何を残し、何を壊し、どのような都市を作ろうとしたかを長い時間幅で示すと考えたからである。*2 判断した人物を直接写さず、その結果として残った場所から人間の選択を読むという方法がここで形になった。

ベッヒャーの教室

1976年、リヒターの勧めでベルント・ベッヒャーの写真クラスへ移った。シュトゥルートはそれまでベルント、ヒラ・ベッヒャーの作品を知らず、自分がすでに作っていた街路写真が似て見えるのではないかと不安になったという。*13 そのため、彼の無人街路をベッヒャー様式の模倣として説明するのは時系列的にも正確ではない。教室で得た重要なものは、写真史、文学、政治、経済、映画までを結びつけ、写真を社会について考える手段として扱う環境だった。*1

ベッヒャー夫妻は、消えつつあった高炉や給水塔を、均一な光、正面性、一定距離などの条件を揃えて撮影し、複数枚をグリッドに並べた。そうすることで、同じ用途を持つ構造物の共通点と個体差を比較できるようにした。*17 シュトゥルートが受け継いだのは、この比較の厳密さである。ただしプラド美術館が指摘するように、彼は都市を「在庫目録」のような厳格な類型へ整理しなかった。*16 同じ種類の建物を集めるより、一つの街路に異なる年代、用途、価値判断がどう重なっているかを見ようとした。

モニカ・ペレニェイは、この形成過程をベッヒャーだけで説明せず、リヒターの《Atlas》で写真を分類・配置した経験と並べている。*26 ベッヒャーからは撮影条件を整えて差を比較する方法を、リヒターからは異質なイメージを並べることで意味が変わる経験を得た。シュトゥルートが後に、街路、家族、美術館、森、科学施設ごとに構図や人物の有無、画面サイズまで変えていくのは、一つの撮影様式を守ることより、「何を比較すればその対象について考えられるか」をシリーズごとに決め直したためである。

§ 02 / 04 表現の核心

街路から科学施設へ

シュトゥルートが繰り返し撮ろうとしたのは、人間の選択が物や空間の形として残った状態である。街路なら、建て替えられた建物、道路、看板、空地に都市計画や経済活動の結果が残る。家族なら、誰がどこに座り、どれほど離れ、どのようにカメラを見るかに、その家族が自分たちをどう見せるかが現れる。美術館では、絵画の置かれ方と観客の立ち位置に鑑賞の習慣が現れ、科学施設では、研究者や政治家そのものが写らなくても、彼らの判断が機械や配管の配置として残る。シリーズごとに題材は変わるが、「人間が作った状況を注意深く見れば、その社会について何が分かるか」という問いは続いている。*14

初期の街路では、その問いに答えるため、道路の中央にカメラを置き、一点透視で左右の建物を同じ条件で見られるようにした。ペレニェイはこの中央遠近法を、シュトゥルートが「非主観的な関心」の原型として見いだしたものと整理し、同時に視線を画面の奥へ導く劇場的な空間を作ったと論じている。*26 中央構図には、写真家の感情を消すこと以上に、建築の年代、用途、改変の痕跡を画面の中で比較しやすくする役割があった。

その後も同じ構図を守り続けたわけではない。ナナ・ラストは、後年の街路写真が初期形式をそのまま反復せず、肖像で人物を撮った経験や、美術館写真で得た複雑な画面構成を取り込みながら変化したと論じている。*32 家族では正面性、美術館では絵画と観客の位置関係、熱帯雨林では細部の密集、技術施設では複雑な装置の全体像が必要になった。シュトゥルートは中央一点透視や正面性を固定した作家様式にせず、対象ごとに必要な撮影条件を選び直した。

《Family Portraits》と家族の配置

《Family Portraits》は、精神分析家インゴ・ハルトマンと、患者が持参した家族写真を同じサイズに複写し、人物の並び、世代、距離を比較した共同研究から始まった。*5 その後の撮影では、家族自身が場所や並び方を相談し、全員がレンズを見る。東京都写真美術館所蔵の1986年《The Shimada Family, Yamaguchi》もその初期例である。*6 ここで知ろうとしたのは社会全体を職業や階層へ分類することではなく、一つの家族が「私たちはこういう家族だ」とカメラの前で形を作るとき、その配置に何が現れるかだった。

そのため、シュトゥルートは「自然な瞬間」を盗み撮りせず、人物へ役を与えて心理劇を演出することもしない。マイケル・フリードを論じたCAA Reviewsは、被写体が撮影を十分に意識している一方、顔や身体の似方、姿勢、誰が誰へ寄るか、家族固有の文化的な身振りまですべてを本人たちが統御できるわけではない点を重視している。*28 服装や座る位置には家族が意識して作った自己像が現れ、同じ画面には、身体の類似や視線、距離といった完全には演出できない特徴も記録される。写真は内面を推測する材料というより、家族が見せようとした姿と、実際に画面へ記録された配置を比べる場所になる。1997年の作品集『Thomas Struth: Portraits』にトーマス・ヴェスキ、ノーマン・ブライソン、ベンヤミン・H・D・ブクローが寄稿したことも、このシリーズが肖像写真だけでなく、絵画史、表象、鑑賞の問題から検討されてきたことを示す。*33

《Museum Photographs》と鑑賞者

《Museum Photographs》の出発点には、1980年代後半にローマとナポリで暮らした経験がある。シュトゥルートは、宗教画が教会建築や日常の信仰とまだ結びついている環境と、作品が本来の用途や歴史から切り離され「名作」として並ぶ世俗的な美術館との差を意識するようになった。*7 1987年に美術史家ジャイルズ・ロバートソンを古い絵画の前で撮った際には、「現在の瞬間と歴史的な瞬間を一つの写真平面に置く」可能性に気づいたと振り返っている。*7 ここから、美術館は過去の絵画を保存する建物というだけでなく、その絵が現在の人間によってどう見られているかを観察できる場所になった。

2005年の作品集『Thomas Struth: Museum Photographs』には、ハンス・ベルティングの「Photography and Painting」、ヴァルター・グラスカンプの「Observing the Observer」などが収められている。*27 同書は、絵画単体の意味に加え、作品が美術館建築の中でどう提示され、観客にどう知覚されるかという問題を扱う。*27 シュトゥルートの写真には、古い絵画の人物、額縁、壁、床、現代の観客が同時に入る。そこで一枚の写真に重なるのは、絵が作られた過去、その絵を美術館で見る現在、さらに完成した写真を見る現在である。《Museum Photographs》の重要性は、過去の像が現在どのような展示空間と鑑賞行動を通して生き続けているかを、一枚の画面で比較できるようにした点にある。

この関係を成立させるために、構図は厳密に決められた。公式アーカイブによれば、シリーズの大半で観客は演出されておらず、シュトゥルートは先にカメラ位置とフレームを決め、その中で絵画と人物の配置が成立する瞬間を待った。*7 ペレニェイは、初期街路の中央遠近法と、美術館写真での中央あるいは斜めのカメラ位置を連続して捉えている。*26 街路では建物を比較するために使った遠近法が、美術館では絵画が内部に持つ遠近法と、観客が立つ現実空間を一枚へつなぐために使われた。

《San Zaccaria, Venice》(1995)はその構造をよく示す。The Metは、ベッリーニの祭壇画が光と遠近法によって壁の奥へ架空の空間を作る一方、シュトゥルートの写真がその祭壇画と手前の観光客を同じ写真空間へ置くと解説している。*30 祭壇画の聖人たち、教会の建築、座る人と立つ人が同じ奥行きの中に並ぶため、約五百年前に構成された絵画空間と現在の鑑賞空間が連続して見える。絵画自体が、写真の構図を作るもう一つの空間として働いている。

《New Pictures from Paradise》と熱帯雨林

1998年に始まった《New Pictures from Paradise》では、それまでの作品にあった建築、看板、服装、家具のような社会的な手掛かりがほとんど消える。シュトゥルートは、ウォーカー・エヴァンスや自分の街路写真であれば車、家、地形を順に見て「この場所がどう作られたか」を分析できるのに対し、森では何を重要な情報として選べばよいか決められないほど細部を密集させようとした。*14 Guggenheim Bilbaoも、本人がこのシリーズを最も直観的な作品群と呼んだことを紹介している。*9

このシリーズでは、それまでの「よく見れば社会の構造を分析できる」という方法の限界が試される。街路では建物の差、美術館では人と絵画の配置を手掛かりにできたが、森では前景と背景、重要な部分と付随的な部分を簡単に分けられない。高い解像度で細部を増やしても、理解が一直線に進むわけではない。ここでは写真を見る時間そのものが長くなり、「見ること」と「理解すること」が同じではないという問題が作品の中心へ出てくる。

§ 03 / 04 代表作・方法・媒体

《Leonard Street》

1978年の《Leonard Street, Tribeca, New York》は、道路の中央にカメラを置き、消失点の左右へファサード、舗装、駐車車両、看板を配置した初期街路写真の代表例である。The Metはこの作品を、ベッヒャーの比較方法、シャルル・マルヴィルとウジェーヌ・アジェの都市建築写真、ミニマル/コンセプチュアル・アートの文脈が交わる仕事と位置づけている。*4 ニューヨークでは異なる年代と用途の建物が一つの通りに混在しており、同じ位置から複数の街路を撮ることで、個々の建築物より「街がどのような選択の積み重ねでできているか」を比較できるようになった。*16

《Museum Photographs》

1989年の《Louvre 2, Paris》では、絵画の前に立つ大人、床に座る子ども、展示室の建築が同じ画面に入る。*8 大判カメラを据え、群衆を演出せず、絵画と観客の配置が成立するまで待つことで、名画だけを切り出さず、「作品が現在どのように見られているか」まで撮影対象にした。*7 写真内の観客は絵を見る主体であると同時に、完成した写真を見る私たちからは鑑賞行動を観察される対象になる。

1999年の《National Museum of Art, Tokyo》では、ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》が暗い客席の前で明るく照らされ、展示そのものが映画館のスクリーンに近い構造を持つ。The Metは、絵の中の人物が革命の歴史へ前進する一方、20世紀末の観客は光るイメージの前で静止しているという対照を指摘している。*25 ここで焦点になるのは、行動する民衆を描いた歴史画が、現代の展覧会、観光、国際文化交流の中でどのような身体によって見られているかという点である。

2005年のプラド美術館では、同じシリーズの方法自体を更新した。シュトゥルートは《ラス・メニーナス》への長年の関心から撮影を始めたが、《Audiences》を経た後には「絵の前に立つ人の背中」を以前と同じ方法で撮れないと考え、部屋の中央へ入り、絵の人物と現実の観客がより近く重なるようにフレーミングした。*36 さらに8×10カメラで絵画と群衆の双方へ焦点を保つため、複数室の天井に約15灯のフラッシュを設置した。*36 大判やフラッシュには、絵画の人物、現代の観客、展示室の細部を同じ写真の中で比較できる状態に保つ役割があった。

《Nature & Politics》

2007年以降、NASA、造船所、核融合研究施設、製薬工場などが主要な被写体になった。ケネディ宇宙センターでの撮影を契機に、シュトゥルートは科学、政治、資金、権力が結びつき、「技術と野心」が具体的な装置になる場所へ関心を向けた。*10 《Nature & Politics》ではCERNを含む研究・工業施設を撮り、科学技術への期待、自然へ介入する欲望、知識の限界を扱っている。*11 人物がほとんど写らないのは、人間を排除して機械の美しさを見せるためではない。研究者、企業、国家の判断が、巨大な機械、配管、ケーブル、管理空間として具体化した結果を撮るためである。*12

この意味で、無人街路と科学施設は数十年離れていても方法としてつながっている。初期街路では、都市を作った政治家や建築家を写さず、彼らの判断が建物や道路として残った状態を撮った。《Nature & Politics》でも、個々の科学者や経営者を肖像化せず、複数の専門家、予算、研究目的が組み合わさってできた装置を一枚にする。マイケル・フリードは技術施設の写真について、人間の目的や設計判断の痕跡が画面に異常な密度で詰まり、観客は細部を理解しようと促されながら、全体を完全には把握できないと論じている。*35 初期街路では明晰さが比較を助けたのに対し、ここでは同じ高解像度が、現代の技術システムが一人の理解を超えるほど複雑になっていることまで示す。

大判カラー写真と展示空間

シュトゥルートが1980年代後半以降に採った大型カラー写真は、細部を多く見せるためだけの形式ではない。ペレニェイは《Museum Photographs》を、1970年代末以降の現代美術で成立した「photographic tableau(写真によるタブロー)」の展開として分析し、写真が映画、パフォーマンス、彫刻、西洋絵画の一枚画面の伝統と交差しながら、自律した「picture-object」になったと論じている。*26 小型プリントを手元で読む場合と違い、壁を大きく占める写真では、観客は離れて全体を見たり、近づいて細部を追ったりしながら、自分の身体を動かして作品を見ることになる。

マイケル・フリードの『Why Photography Matters as Art as Never Before』は、シュトゥルート、ジェフ・ウォール、トーマス・ルフ、アンドレアス・グルスキーらの大判写真を、絵画のように壁面で向き合う作品として論じている。*28 シュトゥルートの場合、この大きさは《Museum Photographs》で特に重要になる。写真の中にすでに絵を見る人々がいるため、現実の観客もその前に立つことで、自分が作品を見る姿勢を写真内の観客と重ねることになる。画面サイズは、写真を見る人を作品の外側に置いたままにせず、鑑賞という行為そのものへ意識を向けさせる。

The Metは《Times Square, New York》(2000)について、シュトゥルート作品のスケールと画面の複雑さが、写真へ絵画に向けられてきた種類の注意をもたらすうえで重要だったと評価している。*31 離れれば都市全体や群衆を一つの構成として見られ、近づけば広告、株価表示、建築表面、個々の身体へ視線を移せる。大型化によって、一枚に含まれる情報量が、観客が実際に費やす鑑賞時間へ結びついた。

§ 04 / 04 批評と写真史上の位置

ベッヒャーとの違い

ベッヒャー夫妻は約半世紀にわたり、消滅しつつある工業建築という一領域へ集中し、天候、距離、視点を揃えた写真を複数並べ、個体差から一つの型を考えさせた。*17 その非個性的な連続形式は、1970年代までにミニマル/コンセプチュアル・アートの文脈でも受け入れられていた。*3 シュトゥルートはこの比較の規律を学んだが、対象も撮影規則も固定しなかった。1976年の街路グリッドはベッヒャー作品を知る前に作られており、本人も後に、夫妻の比較方法には惹かれたものの、高炉や給水塔そのものは自分の問題ではなかったと語っている。*14 プラド美術館が、類型的方法の影響を認めながら「在庫目録」型の厳格なコンセプチュアル方式とは異なるとするのはこのためである。*16

違いは、何を撮ったかだけでなく、撮影規則をどのように使ったかにある。ベッヒャー夫妻では、同じ規則を守ることで複数の工業建築を比較できる。シュトゥルートでは、街路なら無人の中央構図、家族なら正面肖像、美術館なら絵画と観客を同時に含む大画面、科学施設なら複雑な装置を細部まで残す方法というように、問いに応じて規則そのものを変える。彼が継承したのはベッヒャーの見た目より、「比較して考える」ために撮影条件を設計する態度だった。Städel Museumが「ベッヒャー派」を一つの共通様式として扱う見方を問い直していることも、この差を考えるうえで重要である。*15

アジェ、エヴァンスと都市写真

The Metは《Leonard Street》を、ベッヒャー以前のシャルル・マルヴィル、ウジェーヌ・アジェの都市建築写真と明確に結びつけている。*4 マルヴィルはオスマンによるパリ改造を市の委嘱で記録し、取り壊される旧市街と新しい都市設備の双方を残した。*24 アジェも三十年以上にわたりパリの建物、街路、店、庭園を撮り、近代化の過程で姿を変える「古いパリ」を大量の写真として蓄積した。*21 シュトゥルートがこの系譜から受け取ったのは、都市を一枚の象徴的な景観にまとめるより、建築や道路の具体から歴史の変化を記録する方法だった。

ウォーカー・エヴァンスとの関係はさらに直接的で、シュトゥルート自身が、エヴァンスの写真なら車、家、地形を順に見て、自分の経験と結びつけながら場所を分析できると語っている。*14 エヴァンスは道路沿いの建築、看板、安価な店、住宅など、アメリカのヴァナキュラーな環境から社会を記述し、その明晰な写真は後にベッヒャー夫妻にも影響した。*22 シュトゥルートは1970年代にエド・ルーシャやスティーヴン・ショアも自分で調べており、都市写真への入口がベッヒャーだけだったわけではない。*18

The Metは《Times Square, New York》で、アジェ、マルヴィル、ザンダー、エヴァンスをシュトゥルートの歴史的系譜として挙げつつ、先行者が近代化を特定の都市や国家の記録として残したのに対し、シュトゥルートはグローバル化によって都市の文化的な境界が複雑になる状況を撮ったと説明している。*31 さらにペレニェイが指摘するように、初期街路の中央一点透視は建物を列挙するだけでなく、視線を奥へ運ぶ構図として後の美術館写真にもつながる。*26 アジェやエヴァンスから続く「場所の表面から社会を読む」写真史と、絵画で学んだ遠近法による画面構成が、シュトゥルートの街路写真では同時に働いている。

ザンダーと《Family Portraits》

アウグスト・ザンダーは、ベッヒャー夫妻が参照した新即物主義の重要な先行者である。*3 ただし《Family Portraits》は、ザンダーの人物類型を家族へ置き換えたものではない。近年の批評は、ザンダーが社会全体を職業や階層の体系として編成したのに対し、シュトゥルートには百科全書的な分類計画がなく、一つの家族が公共の場で自分たちをどう提示するかが中心だと論じている。*20 High Museumの《The Richter Family 1》解説も、ザンダーやベッヒャーの正面性を想起させつつ、親子の姿勢や室内の絵画に、この家族固有の関係が現れると指摘する。*23 Guggenheim Bilbaoも、シュトゥルートの家族肖像を、被写体がカメラを意識して臨む正式なセッションの結果であり、個人の特徴と家族という集団の構造を同時に記録する仕事として説明している。*38

フリードの議論を通すと、違いは分類の有無だけでなく、ポーズの意味にもある。シュトゥルートの家族は撮影されていることを知り、正面を向き、自分たちがどう写るかを共同で作っている。それでも、顔や身体の似方、誰が誰へ寄るか、座る高さや距離には、本人たちが意図した自己像だけでは説明できない特徴が残る。*28 写真家が心理を演出しないため、家族が意識して作った姿と、身体や配置として実際に記録された状態を同じ画面で比べられる。この方法は、美術館写真で鑑賞目的を推測するより、観客が実際にどのような姿勢で見ているかを記録する態度にもつながっている。

《Museum Photographs》と現代美術

シュトゥルートが現代美術の文脈で重要になった背景には、写真の展示形式そのものの変化がある。1970年代のコンセプチュアル・アートでは、写真は作品の記録、情報、分類の手段として頻繁に使われた。一方、1970年代末から1980年代以降には、ジェフ・ウォール、トーマス・ルフ、アンドレアス・グルスキー、シュトゥルートらの作品によって、写真が美術館やギャラリーの壁を大きく占め、一枚の画面として長く鑑賞される形式が強まった。フリードはこの動きをtableau photographyとして論じている。*28 ペレニェイも、写真が映画、パフォーマンス、彫刻、絵画の方法と交差しながら、自律した画面として現代美術へ入っていく過程にシュトゥルートを位置づけている。*26

シュトゥルートが1978年に滞在したニューヨークでは、写真のこの変化と同時に、美術館制度、作者性、表象そのものを問い直す議論が活発だった。ペレニェイは、October周辺のロザリンド・クラウス、ダグラス・クリンプらの制度批判をこの時代背景として整理している。*26 デュッセルドルフで写真を比較・分析する方法を学んだシュトゥルートは、ニューヨークで街路を撮りながら、写真が何を記録するかだけでなく、その写真がどの制度で、どのように見られるかという問題にも近い環境にいた。

《Museum Photographs》は、この二つの流れを一つの作品にした。被写体は、古い絵画を「名作」として展示し、多数の観客に見せる美術館である。同時に、完成した写真自体も約2メートル級の作品となり、美術館やギャラリーの壁で絵画と同じように鑑賞される。つまり、美術館を見る写真が、再び美術館の壁へ戻り、その前に新しい観客が立つ。MoMAの《On the Edge》カタログが、写真を見る人は画面内の鑑賞者へ自分の行為を重ね、自分がそこで何をしているかを意識させられると説明するのは、この二重構造を指している。*29

このとき絵画との関係も具体的になる。MoMAはシュトゥルートの目的を調査的としながら、構図の作り方は「画家的」だと指摘している。*29 彼は絵画らしい雰囲気を借りるより、遠近法、人物配置、画面全体の秩序という絵画史の方法を理解したうえで、現実の街や観客が作る配置をカメラで記録した。《Museum Photographs》では、歴史画の内部で計算された人物配置と、その前に偶然集まった現代の観客を同じ平面に置けるため、絵画が作った過去の物語と、現在の鑑賞行動を直接比較できる。

2002年のMet回顧展で同館は、シュトゥルートを、写真を現代美術の主流へ入れ、過去の大美術に匹敵するスケールと野心を与えた重要な作家として紹介している。*37 この評価は、プリントが大きかったという意味だけではない。写真固有の記録性を保ったまま、絵画史、美術館という制度、観客の身体、現在の社会を一枚の作品で同時に扱えることを示した。《Museum Photographs》は、写真が絵画や彫刻と同じ展示空間へ入った時代に、その新しい立場そのものを作品の主題にした。

グルスキー、ルフ、ヘーファーとの違い

デュッセルドルフ派は共通様式でまとめられやすいが、The Metはシュトゥルートとアンドレアス・グルスキーの単純な同一視を退ける。二人とも大判で世界各地の社会空間を撮る一方、シュトゥルートは歴史と個人が場所の中でどう結びつくかへ、グルスキーは生産・消費を動かす集団やシステムへ重点を置く。*3 トーマス・ルフは写真という画像制度そのものへ、カンディダ・ヘーファーは公共室内の継続的な観察へ進んだ。Städel Museumがベッヒャー教室を、同じ教育から異なる写真が生まれた場として再検討したのも、この差を示すためである。*15

ナナ・ラストは、1978年から2018年までの作品を「archive / matrix / assembly」という三段階で捉え、各シリーズを孤立した題材変更とせず、前のシリーズで得た方法が次のシリーズを変える発展として読む。*32 この見方に立つと、無人街路、家族、美術館、森、技術施設をつなぐものは「制度」という抽象語では足りない。シュトゥルートは、社会について知るために、街路では建築を比較し、家族では人の配置を見、美術館では絵画と観客を同じ画面へ入れ、森では分析そのものが難しくなる状態を作り、科学施設では人間の判断が装置になった結果を撮った。そのたびに、どこへカメラを置くか、人物を入れるか、どこまで細部を残すか、どれほど大きく見せるかを選び直している。2002年の回顧展カタログにも、チャールズ・ワイリー「A History of Now」、マリア・モリス・ハンブルク、ダグラス・エクランド「The Space of History」、アン・ゴールドスタイン「Portraits of Self-Reflection」が収録され、都市写真の歴史、歴史と空間、肖像という論点が作品全体を横断して検討されている。*34

§ REL 関連する写真家・運動
Photographers
  • ベルント、ヒラ・ベッヒャー ― 同一種類を固定条件で比較する類型的方法を学んだ師。シュトゥルートは分類の形式を固定せず、都市、家族、美術館、科学施設ごとに撮影方法を選び直した。
  • トーマス・ルフ ― 同じ教室から写真そのものの制度と画像技術へ向かった同世代。社会史へ向かう シュトゥルート との差が明確になる。
  • アンドレアス・グルスキー ― 大判カラー写真を共有する同世代。群衆や生産・消費の全体像を俯瞰するグルスキーに対し、 シュトゥルート は歴史と個人の位置を追う。
  • ジェフ・ウォール ― 大型カラー写真を現代美術の展示スケールへ接続した比較対象。演出された場面と観察による場面という方法の差も大きい。
  • ウジェーヌ・アジェ ― 近代化で変わるパリを大量の街路・建築写真として残した先行者。シュトゥルートは保存記録より、複数の時代が現在の都市にどう残るかへ重点を置く。
  • ウォーカー・エヴァンス ― 建築、看板、道路など日常の環境から社会を読む先行者。シュトゥルート自身が初期街路写真の「読みやすさ」を説明する際に参照している。
  • アウグスト・ザンダー ― 社会全体を人物類型として編成した先行者。《Family Portraits》は分類体系を作らず、個々の家族が自ら作る配置を比較する。
Movements / Contexts
  • デュッセルドルフ派 ― ベッヒャーの教室から生まれた写真家群。共通様式より、それぞれが比較的方法をどう変えたかが重要。
  • 大判カラー写真 ― 美術館、家族、技術施設を鑑賞者の身体に近いスケールで提示する展示形式。
  • コンセプチュアルアート ― 初期のグリッド、一定条件、比較の方法を理解する背景。
§ REF さらに読む
Thomas Struth: Unconscious Places
Thomas Struth / Richard Sennett / Prestel / 2020年版

1970年代から2010年までの街路写真をまとめた一冊。都市社会学者リチャード・セネットの文章とともに、《Unconscious Places》を長い時間軸で確認できる。

出版社ページ ↗
Thomas Struth: Figure Ground
Thomas Weski, Ulrich Wilmes 編 / Prestel / 2017年

初期資料から街路、家族、美術館、Paradise、Nature & Politicsまでを横断した大規模回顧展カタログ。シリーズ間の連続性を検討するのに適している。

Haus der Kunst ↗
§ SRC 出典

出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)

本文執筆 — AI

構成・編集 — 写真の座標 管理人

資料の収集と本文の執筆はAIが行い、構成と編集は管理人が行っています。事実関係は管理人がAIを用いて最終チェックしていますが、誤りが残っている可能性があります。正確さが必要な場合は、各ページ §SRC の一次資料をご確認ください。