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PHOTOGRAPHERS/NORIHIKO MATSUMOTO ·日本写真 ·UPDATED 2026.08
NM
§ 185 — Photographer Index — 日本写真

松本徳彦

Norihiko Matsumoto 1936–
Country日本 Period1980–1990s Channel写真史の論点 · 日本写真
Abstract

松本徳彦は、越路吹雪、水谷八重子ら舞台人を長期に撮影し、劇場での上演、役柄、衣装、身振りを継続的に記録した写真家である。《越路吹雪「ロングリサイタル」》《水谷八重子「明治一代女」》などの舞台写真に加え、《Venice》のような都市のカラー作品も残した。1968年の「日本写真の100年」への参加、美術館の写真コレクション調査、著述・編集活動まで含め、撮影と写真史研究を横断した活動の全体像をたどる。

この写真家が変えたこと

日本の舞台写真は松本徳彦から始まったわけではない。堀野正雄は1920年代の築地小劇場で舞台や舞踊を撮り、その後モダニズム写真とグラフ・モンタージュへ展開した。木村伊兵衛も1930年代から歌舞伎を撮り、舞台上の一瞬の表情変化を小型カメラで捉える仕事を残している。松本が戦後に担ったのは、日生劇場の公演を新聞・雑誌へ供給する職業写真を大量に制作しながら、越路吹雪や水谷八重子を公演・役柄を越えて長期に追い、その日の広報写真を、同じ舞台人の時間を比較できる系列へ蓄積したことだった。さらに1968年の「日本写真の100年」では年表作成と資料調査に参加し、のちには美術館コレクション調査と写真原板保存にも携わった。舞台を撮る職業実務、写真を歴史化する編集、原板を残す保存が一人の活動の中で連続した点に、松本の写真史上の特徴がある。

Keywords 越路吹雪 水谷八重子 舞台写真 日本写真の100年 写真コレクション ヴェニス
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目次 · Table of Contents
§ 01 / 04 背景と時代

写真とマスコミへの関心

松本徳彦が写真へ関心を持ったのは中学2年頃で、疎開してきた少年から二眼レフのリコーフレックスを1週間借り、尾道の町、造船所、進水式を撮ったのが最初だったと本人が2024年のインタビューで回想している。*21 同じ回想では、科学雑誌をよく読み、人の日常的な話題にも関心があり、進路として「マスコミの仕事」を考えていたことも語っている。*21 写真は、未知の対象を見に行き、人や出来事を広く伝えるマスコミの仕事と結びつく媒体として意識されていった。その後、日本大学芸術学部写真学科へ進み、在学中から国内外の舞台芸術家を撮影し始めた。*2 「何でも見てみたい、触ってみたい」という本人の好奇心とマスコミ志向が、舞台、雑誌、写真史調査という異なる活動へ共通する出発点になった。 Art Platform Japanも松本を写真家・写真関係著述者として登録しており、制作と文章の双方が長い職歴の基礎にあった。*1

越路吹雪を14年間追う

日生劇場の舞台写真には明確な実務用途があった。本人は、一つの演目で新聞記者へ配る写真を約500枚用意し、稽古も撮影していたと回想しており、舞台写真は劇場と新聞・雑誌をつなぐ広報・報道のインフラだった。*21 越路吹雪についても、それ以前から撮影していたものの、本格的に撮り始めたのは日生劇場からだったと本人が述べている。*21 九州産業大学美術館は、松本が越路の舞台と自宅での姿を14年間にわたって撮影したと記している。*2 《越路吹雪「ロングリサイタル」》では、照明、衣装、身振りが特定の日の上演に結びつき、スタジオで再構成した肖像とは異なる。*5 出発点は新聞・雑誌へ即時に供給される写真だったが、同じ人物を年単位で追った結果、写真群には演目、身体、衣装、劇場演出が変化する時間が蓄積した。短命な広報写真の用途と、後年に比較可能な文化記録として残る時間性が、同じネガ群の中で重なっている。

§ 02 / 04 表現の核心

舞台上の身体

水谷八重子の《明治一代女》は1975年6月24日の国立劇場公演として所蔵データに残る。*7 《月夜鴉》は1974年11月7日の新橋演舞場公演として記録されている。*4 松本が日生劇場で担った舞台写真は、稽古や本番を撮り、新聞・雑誌へ配布する実務と結びついていた。*21 この条件では、俳優を舞台から切り離した心理的ポートレートより、照明、衣装、姿勢、共演者との配置を含めて「どの公演のどの役だったか」を残すことが重要になる。長期間同じ俳優を撮ると、同一人物の肖像集ではなく、役柄と演出によって身体の見え方が変化する系列ができる。1979年に国立劇場で水谷八重子写真展の図録が編まれたことは、劇場の広報写真が公演史を構成する資料へ転じた一例である。*8

《Venice》とカラー

松本の所蔵作品には舞台写真だけでなく、《Venice》《Venice at Night》など都市を扱ったカラー作品もある。Tokyo Museum Collectionは《Venice》を銀色素漂白方式のカラー作品として登録している。*9 東京都写真美術館の《Venice at Night》では、劇場のスポットライトとは異なる都市の人工光、看板、夜の色彩が画面を組み立てる。*10 これらは松本の制作が舞台人の記録だけで完結せず、1960〜80年代のカラー技法を用いた都市観察も含んでいたことを示す。舞台作品と共通するのは、人工光の下で人物や建築が一時的な場面を形成することへの注意であり、カラーはその光源と場所の差を記録するための条件になっている。

§ 03 / 04 代表作・方法・媒体

「日本写真の100年」

1968年の「写真100年 日本人による写真表現の歴史展」は、写真家自身が日本写真の過去を調査・選別する大規模な試みだった。松本は文章経験を買われて年表作成を担当し、文献を読み、各地で写真を探す作業へ参加したと回想している。*21 東松照明らの委員会は十万点規模の写真・複写を集め、芸術写真だけでなく商業写真、事故、広告、国策宣伝、満洲、戦争を分類し、日本の写真家が植民地支配や戦時宣伝に関与した歴史も展示の対象にした。*12 中平卓馬、多木浩二はこの調査を経て、既成の表象制度への批判をProvokeへ接続した。*24 松本はProvokeのような視覚言語へ進まなかったが、職業写真家として過去の写真を収集し、年表と分類によって「何を日本写真史とするか」を決める作業に加わった。制作と歴史記述が同じ写真家集団の内部で行われた1960年代末の制度的転換を示す活動である。 同展準備時の1968年座談会では、東松照明が「写真家自身はそれまで歴史を扱ってこなかった」と述べ、年表作成と戦前雑誌の読解から調査を始めた経緯を説明している。*11 近年の写真史研究では、この展覧会が約50万点を調査して1,640点を選び、写真家自身が全国規模の写真史を比較・編纂した試みだったこと、さらに後の東京都写真美術館構想へ連なる「photographers as historians」の実践だったことが検討されている。*15 1968年の展覧会カタログと年表は国立国会図書館にも所蔵され、展覧会自体が後世の研究対象となっている。*14 国立国会図書館の書誌では、会期を1968年6月1日〜12日、主催を日本写真家協会とし、付録に「日本写真史年表」が含まれることまで確認できる。*6

写真原板の保存

松本の制度的な仕事は、美術館の所蔵調査だけでなく、写真原板そのものの保存へ進んだ。『日本の美術館と写真コレクション』は全国の美術館における写真収集を扱う基礎資料として記録されている。*13 日本写真家協会の日本写真保存センターは、作者の死後にフィルムが散逸・廃棄されること、高温多湿による劣化で画像自体が失われることを設立理由として明記している。*22 同ページには松本自身による「フィルムの劣化と写真保存センターの活動」「写真原板の収蔵施設決まる」などの調査報告が掲載され、保存科学と収蔵の実務に直接関わったことも確認できる。*22 写真保存センターは、美術館が完成プリントを収蔵するだけでは残らないネガやフィルムを、写真家団体自身が収集・整理する制度である。松本は美術館コレクションの実態調査と原板保存の双方に関わり、職業写真家の側から「何を作品として収蔵するか」と「どの原資料を写真史の証拠として残すか」という二つの選別に参加した。保存は制作後の中立的な処理ではなく、後の写真史記述に利用できる資料の範囲を決める実務でもあった。 松本は2007年の文化審議会著作権分科会で、写真分野の実務者として日本写真著作権協会専務理事・日本写真家協会専務理事の立場からヒアリングに参加している。*19 これは原板保存と並行して、写真の利用・権利処理という制度面にも関与していたことを示す。現在、日本写真家協会は松本を名誉会員として掲載している。*18 2026年の日本写真著作権協会展でも、元専務理事として作品が展示されている。*20

§ 04 / 04 批評と写真史上の位置

舞台写真の前史

松本以前にも、日本写真には舞台を重要な被写体とした系譜がある。堀野正雄は1920年代の築地小劇場を中心に舞台、舞踊、俳優を撮り、その身体表現を1930年代のモダニズム写真やグラフ・モンタージュへ接続した。*27 木村伊兵衛は広告やスナップと並行して歌舞伎を撮り、《六代目尾上菊五郎・鏡獅子》1934年のように、上演中の一瞬の表情や身振りを小型カメラで捉えた。*26 松本の違いは、舞台を新しい被写体にしたことではなく、戦後の劇場広報という反復的な職業システムの内部で多数の演目を撮り、同じ俳優や歌手を年単位で追跡した点にある。1995年のJCIIフォトサロン図録『日生劇場の演劇1964–1971』には、仲代達矢、東山千栄子、平幹二朗、岸田今日子、杉村春子ら複数の公演が一つの系列としてまとめられている。*28 新聞・雑誌へ即時に配布された写真が、後には俳優の身体、衣装、照明、劇場演出を年代で比較する資料になった。東京都写真美術館が越路吹雪の写真を戦後昭和写真の通史へ組み込んだことも、その用途の変化を示している。*16 2019年の「世界の舞台芸術家 1955〜86年」展も、長期間にわたる舞台芸術家の肖像を、個別の公演広報ではなく戦後の国際舞台文化を横断する系列として提示した。*25 日生劇場は1963年開場後、演劇・ミュージカル・オペラなどを継続して制作・上演しており、松本の1960〜70年代の仕事はこうした戦後の大規模劇場文化の定着と同時進行していた。*3

「六の会」とVIVO

松本は日本大学芸術学部写真学科の同級生、髙村規、熊切圭介、野上透、木村惠一、齋藤康一と「六の会」をつくり、各自が異なる専門分野を持ったまま展覧会と小冊子形式の写真集を長期間続けた。*23 同じ1950年代末には、奈良原一高、細江英公、川田喜久治、東松照明らがVIVOを結成し、報道や広告の依頼から距離を取りながら、戦後社会を作者固有の視覚言語へ変える自主制作を押し出していた。*24 両者に直接の影響関係が確認されるわけではないが、集合の仕方は対照的である。VIVOは個々の強い作家性を共有する発表拠点として短期間に凝縮したのに対し、「六の会」は舞台、肖像、報道、建築など異なる職域を維持した写真家が、職業活動と並行して半世紀以上共同発表を続けた。松本の舞台写真はこの後者に属し、前衛運動から離れた場所でも、戦後の写真家が展覧会と出版を通じて自作を職業用途から切り出し、批評対象へ移していたことを示す。

戦後写真史での位置

松本の活動には、同じ写真が置かれる場所を変えていく三つの段階がある。第一に、日生劇場で作られた舞台写真は新聞・雑誌へ配布される即時的な職業写真だった。*21 第二に、その写真群は個展、ポートフォリオ、美術館収蔵を通じて、戦後のスター像や舞台演出を検証する作品・資料へ再編された。*16 第三に、松本自身が「日本写真の100年」の年表作成、美術館コレクション調査、日本写真保存センターの原板保存に関わり、何を写真史の一次資料として残すかという選別にも参加した。*22 新しい造形様式を提示した作家とは異なり、松本では制作、編集、保存が別々の専門領域へ分かれず、職業写真家の実務の延長で結びついている。この構造によって、劇場で短期間消費される写真が、後年の写真史・演劇史を支える資料へ変わるまでの過程そのものが、彼の活動史に組み込まれている。 東京都写真美術館図書室に残る《Norihiko Matsumoto photographs: portfolio III》は、舞台写真が単発の掲載物ではなく、写真家自身が選択・編集したポートフォリオとして保存されたことも示している。*17

§ REL 関連する写真家・運動
Photographers
  • 中平卓馬 ― 「日本写真の100年」の調査・編集作業で同じ場に関わった写真家。
  • 東松照明 ― 戦後日本写真の歴史化を進めた同時代の写真家。
  • 写真史編纂/美術館コレクション ― 松本の制作を「作品の保存と制度」の側から読むための文脈。
Movements / Contexts
  • ドキュメンタリー ― 日生劇場での舞台公演や人物の記録写真を撮影し、戦後日本写真の記録的側面を担った。
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§ SRC 出典

出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)

本文執筆 — AI

構成・編集 — 写真の座標 管理人

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