クラウディア・アンドゥハル(1931–)は、スイス・ヌーシャテル生まれの写真家、活動家である。米国を経て1955年にブラジルへ移住し、1971年からヤノマミの人々と長期的な関係を築いた。赤外線や再撮影を用いた作品のほか、医療用の番号付き肖像《Marcados》を制作した。1978年以降は土地権運動に参加し、1989年には過去の写真を《Genocídio do Yanomami》として再編集した。写真や描画・文書にヤノマミ側の語りを結ぶ実践を続けた。
従来の民族誌写真では、外部の撮影者が先住民の姿を分類し、説明を与える立場にあった。アンドゥハルはヤノマミの居住地に長期滞在し、暗い共同住居と森の光に応じて赤外線や再撮影を試みた。1978年からは領域画定の運動にも加わる。後年の展覧会では《Marcados》の番号付き肖像とCCPYの政治資料に、コペナワの語りやヤノマミ作家のドローイングを並置し、撮影者一人の説明で展示を閉じなかった。《Marcados》では救命のための番号が、後年の展示で管理と生存の両義性を帯びる。1971年の訪問から1992年の領域画定、その後の共同展示まで、画像を誰が何のために用いるかが制作に関わり続けた。
本サイトでは作品画像を掲載していません。下記の公式アーカイブで作品をご覧ください。
目次 · Table of Contents
戦争と移住——《Marcados》に重なる識別番号の記憶
アンドゥハルはスイスに生まれ、トランシルヴァニアで育った。第二次世界大戦中に、ユダヤ人だった父と父方親族の多くをナチスの迫害で失った。戦後に米国へ移り、1955年にはブラジルに移住した。父や親族を失った記憶は、後年《Marcados》の番号付き肖像を公開する際、医療上の識別を戦時の経験と照らし合わせる背景となった。*14 ブラジルでは写真を仕事とし、各地を旅した後、雑誌『Realidade』の仕事でアマゾンへ向かった。Apertureのインタビューで本人は、1971年の道路建設と森林伐採を振り返った。当時の政府はアマゾンを開発すべき「空白」と捉えていたという。*5 その取材で初めてヤノマミと接触し、その後半世紀に及ぶ関係を築いた。移住直後はポルトガル語に不慣れだったが、カメラを通じて人々とやり取りし、写真を仕事にする道を開いた。
軍政下のアマゾン——道路・採掘開発とヤノマミ
軍政下の道路・採掘・入植政策は、1964–85年にアマゾン内部へ及んだ。ヤノマミの領域では外部との接触による感染症と土地侵入が重なり、権利問題も深まっていく。*16 感染症と違法採掘は、共同体の生活基盤そのものを脅かす。*18 この状況下でアンドゥハルは、ヤノマミを「未開の文化」として保存する民族誌的な計画より、外部社会との接触が何を壊しつつあるかへ関心を深めた。写真作品と土地画定運動の書類・書籍・映像を同じ展示に収めることで、制作と権利運動の過程が一続きにたどれる。*1 4万点を超えるアーカイブを研究した展覧会であることも、制作が短期取材ではなかった事実を示す。*3 トランス・アマゾン・ハイウェイは国土統合と経済開発を掲げる政策の産物であり、先住民社会には感染症や土地侵入を呼び込む経路となった。*16 アンドゥハルの写真が政治的になったのは、活動家として後から理念を加えたからではない。共同生活を通して、撮影していた世界そのものが道路建設によって変質する場面に立ち会い、記録と介入を切り離せなくなったためである。 さらに1970年代末から1980年代の金採掘拡大は、道路建設とは別の速度で領域へ侵入した。違法採掘は感染症だけでなく、水系や食料・共同体の移動にも影響し、写真家が記録していた生活条件そのものを変えた。*18 共同住居での撮影を続ける一方、道路建設と金採掘が持ち込む感染症や土地侵入は、のちのCCPYの活動と《Genocídio do Yanomami》の主題となった。
ヤノマミの共同住居——暗所撮影から実験的な光へ
ヤノマミの共同住居では、外部の強い光と内部の暗さが通常のフィルム撮影を難しくした。IMSの展示解説は、レンズ周辺へのワセリンの塗布や赤外線フィルムの使用を紹介する。暗所撮影の試験や、既存写真を色フィルター越しに再撮影する実験も重ねた。*2 《A jovem Susi Korihana thëri em um igarapé》のような像では、流れや身体の輪郭が光の揺らぎと一体化する。暗い共同住居や動き続ける身体へ近づく過程で、通常の報道写真とは異なる像が生まれた。 共同体との関係が深まるにつれて、撮影技法と政治的な関与も変化していった。*6 300点以上の写真にヤノマミ作家のドローイングや歴史資料・映像を重ねた回顧展も、その複数の視点を反映している。*7 写真家がヤノマミの宇宙観を自分の写真だけで代弁せず、紙と画材を渡して彼ら自身に描いてもらった行為も、表象の方法を一方向から複数方向へ変える。 赤外線やワセリンによる像の揺らぎは、ヤノマミの精神世界を「神秘的」に装飾するための記号として読むと危うい。技法はまず暗い共同住居での撮影に根ざし、火の光や身体の動きに対応するために生まれた。*2 その後、アンドゥハルはヤノマミ自身のドローイングを展示へ導入し、自分の写真だけを彼らの宇宙観の代理にしない方法を探った。実験的な光と色は、通常の報道写真が捉えにくい暗所での経験に撮影形式を合わせた結果でもある。 Patricia A. Bonchristianoは、光を写真の造形効果と森林の物質的条件の双方から分析している。ヤノマミの宇宙観や金採掘による環境破壊も、その検討に含まれる。*25 とりわけ後年の再撮影では、既存の白黒プリントへ金色やセピアの光を加える操作が、過去の写真を現在の採掘問題へ接続する。ワセリンによるにじみと赤外線フィルム、後年の金色の再撮影は、暗い住居の光を写す実験から採掘で傷つく森を伝える再編集までをつないでいる。
ヤノマミの像「utupë」——写真家の視点を相対化する
ヤノマミとの長期的な関係を通して、アンドゥハルは撮影者自身の理解も更新していった。映像インタビューでは、最初の接触からヤノマミ文化に学んだこと、領域侵入と《Marcados》までを一つの長い経験として語る。*8 撮影の方法も、外部からの短い観察を重ねる段階から、長期間の関係と政治運動の中で更新されていった。*9 彼女は理解の難しさに応じて、撮影技法と発表形式の双方を変えていった。 IMSが「ethical project」と呼ぶのも、その関係が完成した倫理モデルだったという意味ではない。写真を撮る権利、外部へ見せる責任、運動に利用する必要が衝突し続けた長期計画として読み直している。*4 写真に運動の経緯やヤノマミの現状を重ねて読むと、作品を造形だけで評価することの限界も明確になる。*10 撮影者と共同体は、長期滞在を経てもそれぞれ異なる立場にあった。時間を共有すると、撮影者が理解していない規則や言葉が明らかになり、最初の説明を修正する必要が生じる。Barbicanの証言で本人が繰り返す「学ぶ」という語は、撮影者が知識の所有者ではないことを示す。*8 写真の用途は、短期取材の報告から関係の変化に応じて内容を更新する長期的な記述へと発展する。その過程で自身の立場を問い直し、ヤノマミ側の知識を作品へ取り入れる方法も改めていった。初期には写真家が自分のカメラで見た世界を提示したが、後年の展示ではシャーマンの語りやドローイング・政治文書が併置される。*7 これは写真の説明を増やしただけではない。何が「作品を理解するための知識」なのかを写真家と美術館だけで決めず、共同体の宇宙観や政治的言葉を同等の資料として置く方向への変化である。 Ana Carolina Albuquerque de Moraesは2025年、ヤノマミ語の「utupë(像)」から13点の写真を分析した。鏡像、夢で身体を離れる「本質像」、シャーマンが呼ぶ祖先的な像と写真との関係を検討している。*26 この研究は、Davi Kopenawa、Bruce Albertらが記したヤノマミ側の像概念を参照する。西洋写真論の「原物/複製」だけでは捉え切れない解釈が加わる。コペナワとアルベールの『The Falling Sky』は、シャーマンの経験や夢から外部者との接触、疫病・道路建設・金採掘までをヤノマミ側の声で語る。*27 コペナワが語る夢やシャーマンの像、採掘被害を併読すれば、森の写真や《Marcados》の番号を撮影者とは異なる言葉からも捉え直せる。
《Marcados》——医療の識別番号が帯びる二つの意味
1981–84年頃の《Marcados》は、医療チームがワクチン接種と健康記録のためヤノマミ一人ひとりを識別する必要から制作された。MoMA所蔵の《Horizontal 1 (Village of Araçá)》では、首から番号札を下げた人物が正面から写る。*12 同シリーズの別プリントも2006年に作品として再制作され、行政・医療の記録だった像は美術展示の場へ移る。*22 番号は外部管理を想起させるため、ナチス迫害を経験したアンドゥハル自身には強い衝撃を伴った。当時のヤノマミにはポルトガル語式の個人名による医療管理の制度がなく、番号はワクチン接種を追跡して生命を守る実務でもある。Barbicanで本人がこの系列を「Marked to Live」と説明するのは、その両義性を示す。*8 《Marcados》では、番号が呼び起こす暴力の記憶と医療上の必要性が同じ肖像に重なる。 番号札の両義性は、肖像の形式にも残る。番号札は行政的で匿名的だが、画面には一人ずつ異なる表情や姿勢・身体が写り、単なる標本にはならない。*12 美術館で連作として展示されると、番号はホロコーストや警察写真・医療記録など異なる制度との連想を生む。しかし制作時の番号は治療を継続するための識別だった。撮影時の救命目的と後年の展示で生じる連想が、同じ記号の意味を複雑にしている。 2000年代の再作品化では、医療のために撮影した時点と、美術館で《Marcados》として見る時点の間に二十年以上の政治史が介在した。*22 鑑賞者は後から「番号を付けられた先住民」という暴力的イメージを読み込むが、制作時にはワクチンを誰に施したかを追跡する必要があった。《Marcados》の番号札は、1980年代には接種履歴を追う手段であり、2000年代以後の展示では迫害や管理の歴史をも連想させる。
《Genocídio do Yanomami》——写真の再編集と政治的告発
1989年の《Genocídio do Yanomami》では、それ以前のヤノマミ写真を再撮影し、色や光の重なりを加えて土地侵入と大量死を告発する作品へ再編集した。*13 撮影時の記録は、1980年代末の危機を伝える新たな素材となる。 写真とともに残るキャンペーン資料や医療記録・地図を通じて、制作と運動を一続きの歴史としてたどれる。*20 IMS所蔵アーカイブ自体も、写真作品だけでなく制作・活動を追える資料群として保存されている。*19 1970年代に共同体の中で撮影した像は、1980年代末の大量死と土地侵入を経て色や順序・重なりを変え、再編集された。*13 《Genocídio do Yanomami》の色と重ね焼きは、1970年代に撮った像を1980年代末の土地侵入と大量死の告発へ用いる、後年の編集判断でもあった。
CCPYと土地権運動——1978年以後の撮影者の立場
1978年、アンドゥハルはカルロ・ザッキーニ、ブルース・アルベールらと領域画定を目指すCCPYに加わった。以後、写真制作と並行して国際的な支援活動にも力を注いだ。The Shedの展示は、1971年の出会いと1978年以後の権利運動を一続きにたどる。ダヴィ・コペナワとの協働は、1992年のヤノマミ領域の法的画定にもつながった。*14 領域画定の運動を支えたのは、写真家に加えてヤノマミ自身の政治的な働きかけである。The Shedはコペナワとアルベールの『The Falling Sky』に加え、CCPYの報告書やヤノマミ自身の著作を紹介している。*15 Fondation Cartierの関連ポッドキャストには、アンドゥハルとキュレーター、ダヴィ・コペナワが登場する。それぞれの語りが、写真家のアーカイブを異なる立場から読み直す。*23 Hutukara Associação Yanomamiが今日の権利擁護を担うことも、闘争の主体が共同体自身にあることを示す。*17 近年のThe ShedやFondation Cartierも、コペナワの著作・発言と現代ヤノマミ作家の仕事を写真と並置し、共同体自身の活動へ視野を開いている。*15 CCPYの領域画定活動に写真を提供し、のちの展示ではコペナワの発言やヤノマミ作家の作品を併置することで、撮影画像の用途と語り手の双方を増やした。
ヤノマミとの共同展示——複数の声と写真家の責任
1950年代にブラジル各地で撮影した作品から《Marcados》まで、100点以上に及ぶ美術館収蔵作にも、ヤノマミとの出会い以前から続く制作の広がりが残る。*11 ヤノマミとの長い関係は、報道や実験写真・医療記録・活動資料を一つの仕事として結びつけた。 Fundación MAPFREの回顧展でも、200点を超える写真とヤノマミのドローイング、書籍・映像・歴史資料を同じ展示に置いた。*21 そこでは写真家の見たヤノマミ像と、共同体自身が宇宙観や政治を表すドローイングが、それぞれ独立した視覚言語として並んだ。2023年のニューヨーク展では、アンドゥハルの写真と現代のヤノマミ作家による映像・作品を対置し、共同体の現在の表現まで展示に加えた。*24 長期の関係は、展示の中で誰の声を残すかという編集上の判断にも及ぶ。 従来の民族誌写真では、撮影者と展示制度が被写体の説明権をほぼ独占してきた。アンドゥハルにも外部者としての権力差は残る。写真にヤノマミのドローイングや医療資料・地図・政治文書を並置することで、写真だけが解釈を独占する構図を和らげた。*21 長期に及ぶ関係は写真の用途から展示で語る主体にまで影響し、誰が写真や証言を選ぶかという編集上の責任も伴う。 長く滞在しても写真家と共同体の立場の違いは消えず、アンドゥハルには外部社会や美術館・国際世論へアクセスできる側の責任が残った。その立場を、土地権運動や共同体側の発言を伝える展示に生かしている。*24 CCPYの資料とヤノマミ作家の絵を写真とともに示す展示は、外部の写真家だけが歴史を語る構図を改める手立てとなった。
- 参与型ドキュメンタリーとの接続:ヤノマミの共同住居を赤外線などで撮り、1978年からCCPYの領域画定運動にも加わり、写真と土地権擁護を一続きの活動とした。
- セバスチャン・サルガドとの比較:人々の生活と開発の影響を国際的な写真展で伝える点は重なるが、アンドゥハルはヤノマミとの関係を半世紀にわたり継続し、CCPYの領域画定運動にも加わった。
- ダヴィ・コペナワとの関係:後年の展示は写真家の視線だけで構成せず、コペナワの語りとヤノマミ作家の絵を写真と並べ、作品解釈の主体を複数化した。
出典 — 美術館・アーカイブ・専門資料(このページの §SRC に個別記載)
本文執筆 — AI
構成・編集 — 写真の座標 管理人
資料の収集と本文の執筆はAIが行い、構成と編集は管理人が行っています。事実関係は管理人がAIを用いて最終チェックしていますが、誤りが残っている可能性があります。正確さが必要な場合は、各ページ §SRC の一次資料をご確認ください。