ペルッティ・ケカライネンは、室内、廊下、階段、窓を撮影し、色面、半透明の幕、影のような形を重ねた《TILA》で知られるフィンランドの写真家。彫刻と絵画の訓練を背景に、建築を記録する写真を、平面と奥行きが衝突する知覚の実験へ変えた。ヘルシンキ・スクールの国際化と並行して、写真に見える空間が鑑賞者の判断によって完成することを具体的に示した。
ケカライネンが建築写真から取り出したのは、建物の情報よりも、平らな像を奥行きのある部屋として読む目の働きである。廊下や窓に色面、幕、線、球体を重ね、室内へ進もうとする視線を写真の表面で止めた。実在する部屋と抽象的な形を同時に置くことで、奥行きがどの手がかりから生まれるのかを主題にした。彫刻的な構成と絵画的な色彩を写真へ持ち込み、建築写真を知覚を確かめる場へ変えた。
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ケカライネンが活動を始めた1990年代のフィンランドでは、写真が報道や記録の領域から現代美術の展示空間へ急速に入り、演出写真、カラー、映像、インスタレーションが並行して試された。フィンランド写真美術館はこの時期を、写真家が従来のドキュメンタリー中心の自己理解を揺さぶり、素材と展示形式を拡張した時代として振り返っている*11。
彫刻と絵画から写真へ
1965年にオウルで生まれたケカライネンは、写真だけを出発点にした作家ではなく、彫刻家、画家としての訓練を経て制作した*4。Galerie Anhavaは、彼が写真表面へ線、棒、球体、色面を加えたことを、三次元の構造と絵画的な錯視を同時に扱う方法として説明している*2。Persons Projectsの作家略歴も、ヘルシンキ・スクールの写真家であると同時にフィンランド彫刻家協会の会員だった経歴を示し、作品の空間的な発想を補強する*16。写真は、実在する部屋の痕跡を残したまま、色や物体の配置によって別の空間を重ねられる媒体だった。彫刻的な空間構成と絵画的な平面操作を一つの画面で衝突させられる点が、彼の方法を支えている。
ヘルシンキ・スクールと国際化
ヘルシンキ・スクールは単一の様式名というより、ヘルシンキ芸術デザイン大学を基盤に、教育、出版、ギャラリー、国際写真祭を結ぶ流通の仕組みだった。Aalto Universityは、フィンランド写真が国内で十分に美術制度化されていなかった時期に、学生と教員が海外展示や批評の回路を自ら作った経緯を記している*10。Paris Photoへの継続参加は、その作品群を大判カラー写真とコンセプチュアルな実践として国際的な写真フェアと展示の回路へ提示した*9。「30 by TaiK」展は、ケカライネンを30人以上の学生・教員出身作家の一人として並べ、教育から国際展示へつながる制度的文脈を示した*15。Pori Art Museumの「Intersection—Between Past and Future」も、彼を過去の造形言語と新しい写真表現が交差するフィンランド写真の文脈へ置いている*18。
モダニズムの抽象とオラ・コレマイネンとの違い
フィンランド写真美術館の「Abstract!」は、モホイ=ナジ、マン・レイから現代まで、光や物体の配置によって被写体を抽象化する百年の歴史を示した*13。ヘルシンキ・スクールの同時代作家オラ・コレマイネンも、建築を色、光、反復、表面の構成として切り取り、建物をほぼ抽象的な画面へ変える*21。ケカライネンは建築の細部を平面化するだけでなく、廊下や扉が作る奥行きを残したまま、その手前へ色面や球体を置く。コレマイネンが建築の表面から抽象を引き出すのに対し、ケカライネンは具体的な室内と抽象的な形を衝突させ、写真が奥行きを作る瞬間そのものを不安定にした。
《TILA》は2004年頃から継続された約130点のシリーズで、フィンランド語の tila が「空間」「部屋」「距離」「心の状態」を含むことを題名に抱える*3。この多義性は、写された場所と、見る側が心理的に組み立てる場所を一つの語で結ぶ。
《TILA》が遮る奥行き
《TILA (Passage I)》では、廊下や扉の透視図法が奥へ視線を導く一方、黒い影や色の膜がその進行を遮る。The Metropolitan Museum of Artは、こうした遮蔽が建築空間の読み取りを複雑にし、写真の平面と奥行きの錯覚を同時に意識させると説明している*1。画面の一部が壁なのか、影なのか、写真表面の色なのかを即座に決められないため、鑑賞者は「部屋を見ている」という確信を立ち止まって確かめる。加工は現実を幻想的に飾る効果に終わらず、奥行きを判断する手がかりを一つずつ露出させる。
Bildmuseetは《TILA》を、目立たない室内を写しながら、撮影された空間が必ず何らかの方法で濾過、加工されている連作として紹介している*22。何も起きていない廊下や部屋では、色面や遮蔽物が加わったとき、どの線を壁、影、画面上の形として読むのかが前景化する。出来事の少なさによって、写真を見る途中で生じる判断の変化が作品の内容になる。
色面は何に属しているのか
《TILA (dark red)》の暗い赤は、室内に存在する物体にも、写真表面へ塗られた色にも見える。2008年の展覧会資料は、作品が絵画の空間的錯視へ接近しながら、写真が保持する現実の痕跡を捨てていないことを強調する*4。Société Générale Collectionの《Tila passage 5》も、建築の線と色の層が互いに食い込み、見る位置を安定させない構造を示す*5。色は室内の雰囲気を表す記号ではなく、画面内と画面上のどちらにあるのか判断できない物質として働く。
見えない部分を鑑賞者が補う
フィンランド語の「tila」は、部屋や物体の内部だけでなく、物と物の間隔、状態、心の状態まで指す。ケカライネン自身は、室内の経験が視覚だけで決まらず、広さ、光、素材、用途、音、匂い、触覚、身体の移動が混ざって成立すると説明している*24。《TILA》で壁や扉の一部が隠されると、鑑賞者は見えない続きを記憶と身体感覚から補う。作品が扱うのは設計図のような部屋ではなく、断片から頭の中に組み立てられる空間である。
《Density》— 人や物が去った後に残る色の痕跡
《TILA》以前の《Density》では、機械的なカメラ操作による色の点や残像が、家具や室内の上に浮かぶ。Persons Projectsの作品集解説は、それらを人や物の関係が残した影、会話や考えの幽霊にたとえ、初期の心霊写真との近さも指摘する*25。Helsinki Schoolの出版情報も、《Density》から《TILA》へ至る作品群を、見えないが持続する現実を扱う連続した試みとして紹介している*23。色の点は奥行きを妨げると同時に、画面にいない人物や、すでに終わった出来事の痕跡として働く。この系列から見ると、《TILA》の空室も無人の建築記録ではなく、遮られた物や画面外へ続く場所を鑑賞者が補う写真として読める。
建築写真との距離
通常の建築写真では、構造、用途、素材が明確に伝わることが価値になる。ケカライネンは同じ廊下、窓、階段を使いながら、説明の精度を上げる代わりに、透視図法の継ぎ目へ異物を置いた。Kunstmuseum Wolfsburgのフィンランド写真展は、彼の作品で遠近法的な空間と色彩空間が相互侵入すると述べる*7。Abitareの展覧会紹介も、北欧の建築的感覚をそのまま記録するより、空間が視覚の中で不確かになる点に注目した*8。
作品は単発の仕掛けではなく、同じ問題を異なる部屋、色、遮蔽で反復する連作として構成された。Photography-nowの記録は、1990年代以降の個展、グループ展、出版を通じて、この反復が長期的な制作の骨格だったことを示す*6。
《TILA (Passage I)》と通路
通路は奥行きを最も分かりやすく示す建築要素であるため、知覚の規則を崩す素材として適している。《Passage I》では、扉の反復が生む消失点と、前景の不透明な形が衝突し、入口と障害物が同じ画面に置かれる*1。鑑賞者は空間へ入る想像を促されながら、写真表面から先へ進めない。この往復が、作品を静かな室内描写から、見る行為の時間を含む構造へ変える。
《Spatial Changes》と大判プリント
《Spatial Changes》では、撮影された建築へ加えられた色と線が、壁の位置、窓の反射、影の方向を再編する*2。大判カラー・プリントは細部を見せるためだけでなく、鑑賞者の視野を覆い、色面を物体に近い強度で経験させる。EMMAの「Red」は、赤という色を複数の現代作家の感情、物質、記号として扱い、ケカライネンの色彩が装飾以上の構成要素であることを示した*19。
写真集と展示空間
《Paikka1》の図書館記録は、作品が展示だけでなく、場所をめぐる出版物として編集されたことを伝える*20。Persons Projectsの出版活動も、ヘルシンキ・スクールの作品をシリーズ、テキスト、図版の順序によって国際的に流通させた*17。写真集では大判展示の身体的な圧力が弱まる一方、ページをめくるたびに別の空間が立ち上がり、連作が一つの建築のように読まれる。
ケカライネンの評価は、フィンランド写真の国際化という制度史と、写真が空間をどう作るかという媒体論の二つから考える必要がある。フィンランド写真美術館の「Photo and Video」は、彼を新しいフィンランド写真の大判カラー作品を紹介する部門に置き、同時代の映像表現と並ぶ展覧会環境で提示した*14。
抽象写真との接点
フィンランド写真美術館の「Abstract!」は、抽象写真を被写体の不在として狭く定義せず、光、表面、複写、構成によって現実の見え方を作り直す歴史として提示した*13。ケカライネンの室内には具体的な壁や扉が残るが、それらは色面と線の関係へほどかれる。完全な抽象へ進まないからこそ、現実らしい奥行きがどの瞬間に崩れるかを検証できる。
ヘルシンキ・スクールの内側と外側
「Wild 90s」は、1990年代のフィンランド写真を一つの洗練されたブランドへ回収せず、身体、ジェンダー、演出、素材実験がせめぎ合った時代として再検討した*12。ケカライネンの写真も、北欧的な静けさや端正な大判プリントだけでは説明しきれない。大判カラーの精度を共有しながら、色面、遮蔽物、反射によって遠近法の連続性を断ち、ヘルシンキ・スクールの滑らかな画面に視覚上の抵抗を作った。
建築の説明を止め、奥行きが生まれる瞬間を見せる
ケカライネンは建物の用途や社会史を詳しく記録する代わりに、廊下、窓、壁の線を使って、写真が奥行きを成立させる条件を露出させた。ほぼ実物大のプリントは、写真を壁に掛けた小さな窓としてではなく、鑑賞者の身体と競合する面として展示空間へ置く*24。そのため作品の変化は、建築を抽象化したことだけにない。写真の前に立つ人が、どこまでを室内と信じ、どこからを画像表面と判断するかを、見る時間の中で揺らした点にある。
- サンナ・カンニスト ― 同じヘルシンキ・スクールから、自然科学の装置と写真の演出を可視化した作家
- エリナ・ブロテルス ― 身体、風景、絵画史を大判カラー写真で接続し、同時代フィンランド写真の別の軸を作った作家
- トーマス・デマンド ― 建築的な空間を、模型と写真の二重の表面として構成した比較対象
- ジェームズ・ウェリング ― 写真の色、表面、抽象性を暗室と素材実験から問い直した作家
- ヘルシンキ・スクール ― 教育、出版、ギャラリー、国際見本市を接続したフィンランド写真の制度的ネットワーク