ポール・アルベルト・ライトナーは、世界各地を歩き、ホテル、自画像、看板、広告、墓地、駅、路上の小物を撮ってきたオーストリアの写真家。出発点にあったのは、本人が反発したチロルの「神聖視された」故郷像と、芸術を通じて知った別の生き方とのずれだった。初期にはコラージュ、鏡、投影によって、いまいる場所の自分と別の場所・役割にいる自分を同じ画面で試し、やがて実際の旅へ出ると、予測できない街路との遭遇そのものを自己形成の場にした。反復するホテル自画像、場所と時刻の記録、写真集、8万点超のアーカイブは、世界の変化と、その世界を通過する自分の変化を同じ時間軸で読み返すための仕組みである。
1980年代のオーストリア写真では、自己演出と現実の記録をどう結びつけるかが一つの争点になっていた*29。ライトナー自身も当初、鏡、投影、コラージュの中で、チロルで与えられた故郷像から離れた「別の自分」を撮影前に組み立てていた*31。しかし《Exkurs über das Reisen》以後、実際に各地を歩き、与えられた空間の偶然や断片を受け入れるストレート写真へ重心を移した*26。本人も、旅では未知で異質なものに絶えず直面すると語っている*28。そこで旅のストレート写真に反復する自画像を差し込み、場所と時刻を記す「Legende」、写真集、アーカイブを組み合わせることで、同じ撮影者が異なる社会を通過してどう変わるかを数十年追った*3。自己像と外界を別々の主題にせず、世界との遭遇によって撮影者の見方が変わる時間そのものを写真の仕事にした。
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写真修業と報道写真 ― 現実へ接触する媒体としての出発点
ライトナーは1973〜76年に写真の職業訓練を受けた*33。そこで証明写真、現像、レタッチなどを学び、写真をまず手仕事として身につけた*30。青年期には『Life』『Quick』『Stern』を読み、ベトナム戦争写真、Thomas Hoepker、Weegeeに強く惹かれ、正しい時間と場所で決定的な瞬間を追う報道写真に関心を持った*30。この「現実へ出ていく写真」と、のちに自分自身を素材に始めた美術作品は、当初は別の方向を向いていた。
なぜ「自己」から始まったのか ― 故郷から別の生を想像する
ライトナーが最初に「自己」を問題にした背景には、内面への抽象的な関心だけでなく、どのような生活を自分のものにするかという切実な距離感があった。彼が育ったチロルはオーストリア西部のアルプス山岳地帯に広がる連邦州で、州都はインスブルック、Jenbachはその州内にある町である。そこで写真の職業訓練を受けた彼にとって、写真はまず証明写真、現像、レタッチを含む手仕事だった。一方、青年期に通ったインスブルックのCafé Centralでは芸術や都市的な生活の気配に触れ、1970年代末に初めて訪れたミュンヘンでは、映画、ジャズ、美術館を含む「まったく別の生活」に引き込まれたと『Die Presse』は伝えている*30。写真家になることは、既にある自分を表現するだけでなく、それまでとは違う生を選び取ることと結びついていた。
Gerald Mattは後年、当時のインスブルックを観光的な商品化に強く規定され、芸術家や知識人が流出していく街として振り返り、ライトナーも「内的亡命」に留まらず外へ出た一人だったと記している。Mattによれば、Jenbachは彼には早くから狭くなり、「広さ」と「他なるもの」への欲求が旅へ向かわせた*31。この地域でライトナーが距離を取ろうとした「故郷」は、単に山や自然そのものを指してはいない。Mattは《Austreibung der Heimat》について、既成の紋切り型の故郷イメージを拾得物の十字形と組み合わせて異化する「視覚的な悪魔祓い」のような仕事だったと記している*31。アルプスの山岳景観、郷土性、伝統的な生活が観光の魅力として理想化され、地域の「あるべき姿」として反復される。その出来上がった故郷像に自分まで固定されることへの抵抗が、《故郷の追放》の背景にあった。本人も1986年の同作を、チロルの「神聖視された」環境に対する自発的な反発だったと説明し、後には本、芸術、音楽にも複数の「故郷」を作れると語っている*28。本人の発言では、反発の対象はチロルという土地そのものより、故郷を一つの理想像として固定する「神聖視された」環境に向けられている。この時期のライトナーにとって「自己」は、性格や内面の正体を探す対象というより、出生地や郷土の価値観によって与えられた自分からどこまで離れ、別の生き方を作れるかという問題だった。
初期のコラージュ、上描き、鏡、投影、影は、この問題を像として扱うために用いられた。マリー・レーブルはこれらを「自己認識の探求」と位置づけている*26。Mattの回想では、《故郷の追放》では既成の郷土像を十字形の拾得物などと組み合わせて異化し、その後にはJenbachの居間で、まだ実現していない旅のイメージを投影した前に自分を置くシリーズも制作していた。そこでは「ここにいる自分」と「別の場所へ行きたい自分」が同じ画面に重なっていた*31。鏡や投影やコラージュは、一つの正しい肖像を得るための技法ではない。現実の身体、故郷から受け取った像、芸術や旅行から想像した別の人生をいったん分解し、同じ画面で衝突させるための装置だった。
1985年には写真史家ティム・シュタールとの共著「Das Leben. Ein Spiel.」を『Vier Wege』に発表している*10。1988年には《Die imaginären Reisen des A.R.(A.R.の想像上の旅)》を展覧会名にした*8。1985年の刊行物には「生活」、1988年の展覧会には「想像上の旅」という語が題名に現れる。初期の自己演出と、その後の旅を結ぶ転換は、1990年代の《Exkurs über das Reisen》で、世界経験と自己経験を同時に扱う方法として明確になる*26。
この経路から見ると、旅以後のライトナーにとって、なぜ写真でなければならなかったのかも見えやすい。青年期の彼は、正しい場所と時間に身を置いて決定的な瞬間を追う報道写真に惹かれ、写真を現実へ出ていく技術として学んでいた*30。旅では、投影やコラージュによって「別の場所」を想像するだけでなく、実際の場所で一度起きた遭遇を撮影として残すことができる。さらにホテル自画像では、その時の自分の状態を「存在の記録」として写し、Legendeによって場所と時刻を像へ結びつけた*28*3。世界の像だけでなく、そこにいた撮影者自身も同じ露光と時間軸へ置けることが、旅、自己像、アーカイブを一つの仕事に結ぶ写真の役割になった。
1980年代オーストリア ― 「作者写真」と写真制度の形成
ライトナーが自己演出を進めていた1980年代、オーストリアでは写真を独立した芸術として扱う場も整い始めた。FOTOHOFは1981年に設立された*13。公的な写真収集も同年に始まった*17。Camera Austriaは1980年から写真を継続的に批評してきた*27。1985年の「Neue Fotografie aus Wien」は、日記、連続肖像、物語的連作など、作者ごとに異なる「現実」への接近を「作者写真」として紹介した*25。写真が中立的な記録であることより、誰がどのように世界を見るかが作品の問題として前面に出る時期だった。
1986年には、連邦政府が写真作家向け国家奨学金を初めて交付した3人の一人にライトナーが選ばれた*14。翌1987年、ライトナーを含む特集をCamera Austriaは「Self-Images / World-Images(自己像/世界像)」と題した。同誌は、新しい写真を評価するには、写真家が各作品でどの立場を取るかを正確に記述する必要があり、事前のコンセプトだけでなく、現実への懐疑的な関わりと「主観的経験を意識的に認めること」が重要だと述べている*29。Camera Austriaが1987年の特集で扱った「自己」は、私生活の告白だけを意味しない。世界像が誰の位置から作られているのかを写真の問題として引き受けることだった。故郷から自分を切り離そうとしていたライトナー自身の問いは、撮影者の立場を不可視にしないという同時代の写真論とも接続していく。
後年の写真史研究でも、演出はこの時期を読む主要な軸になっている。ティム・シュタールは1980年代オーストリア美術を扱う研究書で、写真の章そのものを「『Der Stand der Dinge. Österreich』―1980年代の芸術写真における場面と演出」と題した*11。ライトナーの鏡、投影、コラージュも、写真を現実の透明な窓とみなす前提が揺らぎ、撮影者が像をどう構成し、そこへ自分の位置をどう刻むかが問われたこの状況と重なっている。
旅とストレート写真 ― 想像上の「外」から現実の他者へ
1984年、ライトナーはチロルを離れてウィーンへ移った*33。その前後まで、別の土地は投影像やコラージュの中で想像することができた。しかし実際に移動すれば、目の前の人物、光、標識、ホテルなどは本人の構想どおりには並ばない。マリー・レーブルが移行期の《Exkurs über das Reisen》を「世界経験と自己経験」が交差する旅として読むのは、この変化を示している*26。自己を知るための「外部」が、制作室で作る像から、自分では制御できない現実の場所へ変わった。
この変化とともに、制作の重心は、制作室で像を合成する方法から、現地で起こる予測不能な状況を画面へ受け入れるストレート写真へ移った。ライトナー自身は、構図が演出と偶然の双方から生まれ、撮影には長く待つ時間と瞬時に反応する時間があると語る一方、像そのものはシャッターを切る前から想像の中にも存在すると説明している*28。演出を全面的に捨てたのではなく、事前のイメージを現実の人物、物、光、偶然との接触によって変化させる撮影へ移行した。
この形式で表そうとしたのは、世界の客観的な一覧でも、旅によって発見される不変の「本当の自分」でもない。ルーマニアやキューバについて、西側の商品、ポップ音楽、コカ・コーラまでを含むグローバリゼーションの浸透を語ったように、旅先では社会そのものが変化していた*9。変わる土地へ自分を置けば、撮影者の判断や価値観も揺さぶられる。2007年のKunsthalle Wienが彼の仕事を「写真による旅の日記」と呼び、人生の旅の中で経験する変化を記録しながら、若い男が「自分自身への旅」に出るという成長小説の系譜へ置いたのはそのためである*2。初期の自己演出にあった「別の自分は可能か」という問いが、ストレート写真では「異なる世界を通過したあと、自分の見方はどう変わったか」という時間的な問いへ変わった。
「フラヌール」と歩く速度 ― 加速する社会から距離を取る
Camera Austriaはライトナーを「フラヌール」と呼ぶ。フラヌールとは、目的地へ直行せず、歩きながら街の人、文字、建築、周縁へ注意を向ける都市の遊歩者を指す。本人は2007年、速度は幻想で「ターボ資本主義」は滑稽だとし、観察には時間が必要だと語った。モチーフは歩行、待つこと、偶然から得られ、フラヌールが最短経路より「偶然のオデュッセイ」を選ぶという考えを自分の方法に重ねている*28。工業地帯や集合住宅、ゴミ捨て場まで歩くのは、名所から外れた場所で産業、貧困、開発、消費文化がどう現れるかを見るためだった*9。フィルムを節約するためシャッターを切る前に何度も考えるというアナログ撮影も、この遅い観察と結びついている*30。
都市を歩く方法は、写真専門領域の外でも都市表象として扱われた。2012〜13年、ライトナーはGrazMuseumの「Eyes on the City. Urbane Räume in der Gegenwartsfotografie」に参加した*33。Brigitte Kovacsは都市・建築誌『dérive』で同展を論評している*12。同展カタログにはHubertus von Amelunxenによるライトナー論「ある者が歩き回り、人生の瞬間を拾い集めたように」も収録された*10。歩行と収集を結びつけるこの題名は、都市を見る方法としてのライトナーの移動を端的に示している。
なぜ旅先で自分を写し続けるのか ― 自己を定点にして変化を見る
ホテルで繰り返される自画像は、初期の自己探求を旅の形式へ移したものである。ライトナーは同じ卵殻色の「写真服」を持参し、ホテルで必ず自画像を撮る理由を、その瞬間の状態を捉えることと「自分の存在の記録」を作ることだと説明している。同時に、重要なのは撮影地そのものより「芸術と生活」の問題であり、自分は小説の登場人物のように各地へ現れるとも語った*28。初期には鏡や投影で自己像そのものを変形させたが、旅の自画像では逆に服とポーズをある程度固定する。変わらない外形を置くことで、年月、場所、身体、周囲の文化が差として見えるからである。
ホテルが選ばれることにも、故郷をめぐる問題が続いている。ライトナーは故郷を単一の出生地へ結びつけず、本、芸術、音楽にも「複数の故郷」を作れるとし、ときには国外にいる方が故郷を感じると語った*28。ホテルは定住する家ではなく、その都度借りる短い居場所である。そこで同じ人物を撮り続ける《Me, myself in a Hotel》は、「ここが自分の本当の居場所だ」と確定する肖像ではなく、どこにも完全には固定されない自己を、都市ごとの仮の居場所とともに連続して記録する形式になった。FOTOHOFも、ホテルを典型的な通過空間とし、ライトナーがその中で「いま、ここ」へ意識的に留まる自分を演出すると説明している*3。
したがって、自画像は「撮影者もそこにいた」と証明するためだけに挿入されているのではない。世界各地の像を集める撮影者自身も、同じ時間の中で繰り返し記録される。Kunsthalle Wienは、彼の旅の日記が人生の過程で本人に起こる変化を記録すると説明し、自画像、他者、自然を一つの展示の中で連続させた*2。EMOP Berlinの2018年展も、ライトナーが30年以上アナログで自己撮影を続け、自画像では演出、ポーズ、専用の「写真服」が重要な要素になると説明している*32。初期から残る問いは「自分の正体は何か」ではなく、場所や時間や他者との接触によって自己がどのように作り直され続けるかなのである。
「Legende」と場所・時刻 ― 意味を動かしても、撮影地点は失わない
「Legende」は「伝説」ではなく、写真に添える説明文に近い。小型プリントをカードへ貼り、番号、正確な場所・時刻を書き込む。FOTOHOFは画像と文章を一体のものとし、ホテル自画像の地名、部屋番号、日時が一時的な「いま、ここ」を固定すると説明する*3。一方ライトナーは、旧社会主義圏を含む各地で西側の商品や生活形式が広がり、都市が似ていくことを見ていた*9。都市の景観が似て見える状況でも、Legendeは一枚ごとに撮影地と時刻を戻す。同じ写真を後年別の主題へ移しても、最初の撮影地点は残る。アーカイブ内で意味を組み替えながら、撮影時の座標は失わせない仕組みである。
チロル州の美術購入資料でGünther Moschigは、ライトナーの言葉として、写真家のリアリズムを「哲学的・言語的・地理的」なものとして紹介している*19。同じ解説は彼を単純なドキュメンタリー志向の作家とはしていない。この三つの層はLegendeに具体化されている。地理的には撮影地点と日時を固定し、言語的には題名や補足情報を像へ結び、哲学的には「誰がどこから世界を見たか」を消さない。ライトナーのリアリズムは、主観を排除して世界を中立化することより、像が成立した座標をできるだけ具体的に残すことに近い。
新聞・広告・切り抜き ― 直接見た世界と「報道された世界」をつなぐ
ライトナーは新聞記事、広告、拾得物も集める。FOTOHOFは、新聞を読むことを本人が「寄り道のシステム」と呼び、切り抜きを画像と言葉による自己探索へ使うと説明する*3。街を最短経路で歩かないことと、新聞を主題から主題へ脱線して読むことは同じ方法である。最初に決めたテーマだけを集めず、外から来る連想へ制作を開く。Camera Austriaの《Die Wellen kommen》では海の波と「感染の波」「倒産の波」などの見出しが結びつく*1。
8万点のアーカイブ ― イメージの過剰を整理しきれないまま扱う
8万点超のアーカイブでは、一枚が「Street Life」「Signs」「Hotel Rooms」「Self-Portrait」など複数の分類へ入り、分類が重なる。Camera Austriaはこれをベルント&ヒラ・ベッヒャーの比較可能なタイポロジーと区別する*1。本人も、自分自身がイメージを増やしながら「イメージの過剰」に直面すると語っている*9。別のインタビューでは、モチーフが蓄積するほど類型整理が難しくなると認めた*28。アーカイブは完成した世界表ではない。撮影時の座標を残したまま、歩行で拾った出来事、自画像、新聞や広告の断片を、後年の別の関心から組み直す場所である。世界と自分が変わる以上、分類も写真の意味も最終確定しないという考えが、その運用そのものに現れている。
1995年、Monika FaberはライトナーとRobert Jelinekを扱う『Bilder Nr. 111』に「Der Archivar endet im Wahnsinn(アーキビストは狂気に終わる)」と題する文章を寄せており、収集と分類が1990年代半ばの時点ですでに批評の対象になっていたことが確認できる*10。後年の8万点超のアーカイブでも、一枚が複数の群へ入り、分類は固定された体系として閉じない*1。
「Exkurs über das Reisen」1991/92年 ― 演出写真から旅の連なりへ
「Exkurs über das Reisen」は、約40点の旅写真と日記的文章を密に並べ、ロードムービーのように寄り道が続く構成を取る*26。レーブルは題名の「Exkurs」に予測不能な脱線を読み、旅を世界経験と自己経験が同時に進む場と位置づけた。演出が消えたのではなく、シナリオが一つの場面から移動中の断片へ開かれたのである。
Camera Austria 53(1995)は《Wien: Momente einer Stadt》を《Exkurs über das Reisen》の続編と位置づけ、今度はウィーンの公共空間を歩くフラヌールとしてライトナーを紹介した*7。旅の方法が外国の都市だけに向けられず、自分の暮らす街にも適用されたことは、主題が「遠い場所」そのものではなく、歩く撮影者が社会・都市・自己の変化をどう発見するかにあったことを示している。
『Kunst und Leben. Ein Roman』1999年 ― 「小説」と呼ぶ理由
『Kunst und Leben. Ein Roman』は249点を20の主題群に配した写真集である*4。ライトナーにとって世界は現実の像と発明された像が交わり、そのあいだに「私」が置かれる場だった*1。「小説」とは架空の筋書きではなく、写真の結び方を変えるたびに人生と世界の読み方も変わる構造を指す。
Rainer IglarはFotomuseum Winterthurのコレクション解説で、ライトナーの小型プリント、カード、連番、手書きの場所・日付という作業を説明したうえで、個々の写真は詩的な強度を持ち、シリーズや本になると個人的な自伝あるいはより広い歴史の物語へ展開すると述べている*20。Iglarの指摘に沿えば、写真集では、一回の遭遇では互いに無関係だった都市、自画像、物、文字が連なり、個人的な自伝とより広い歴史の時間が同じ配列の中に現れる。
『Städte, Episoden』2005年 ― 都市と自伝を同じ地図に置く
『Städte, Episoden』は1979〜2004年の455点を収め、駅、空港、墓地、文字、自画像を交差させる*5。駅やホテルのような通過空間と、旅の終わりの自画像を同じ本へ置くことで、都市の変化だけでなく、そこを通過する撮影者の時間も「エピソード」になる。
『0–24』2008年 ― 看板と広告から都市の言葉を読む
『0–24』はヨーロッパ、旧社会主義圏、ヒスパニック圏、ニューヨーク、米南部の看板や広告を集めた写真集で、FOTOHOFはウジェーヌ・アジェと接続する*6。ライトナーはルーマニアやキューバへの西側商品文化の浸透をグローバリゼーションとして語った*9。24時間広告と記号にさらされる状況へアナログカメラで応答するという本人の説明からも*6、看板は造形の収集以上に、異なる政治的場所が同じ商業言語で似ていく過程を記録する対象だった。
同時代の演出写真 ― ドレスラー、荒木、ゴールディンとの距離
レーブルはライトナーをピーター・ドレスラーと比較する。ドレスラーが偶然見つけたホテルや室内へ身体的に介入して場面そのものを変えるのに対し、ライトナーは後年、見つけた状況の輪郭を残したままポーズや小道具を加える*26。本人は荒木経惟からの影響を語り、ナン・ゴールディン、ハインツ・チブルカ、VALIE EXPORTとはグループ展で同席した*9。レーブルが同時代のオーストリア写真を演出、身体、物語の問題から論じるように、自己演出は当時の写真を考える重要な軸の一つだった*26。ライトナーはそこへ旅先の偶然と長期アーカイブを接続した。
エグルストン、ショア、フリードランダー、ベッヒャー ― 同じ方法が別の問題になる
Camera Austriaはライトナーをアメリカン・ニューカラー、フリードランダー、ルシェらと並べる*1。本人もエグルストンの「些細なもの」への視点に共感した*9。Camera Austriaが参照するニューカラーの文脈では、日常の色彩や平凡な人工環境そのものが写真の対象になった*1。ライトナーでは同じ企業ロゴや人工色が国境を越えて反復し、カラーの日常が世界の均質化を比較する材料になる*9。
ショアも道路、駐車場、集合住宅など平凡な風景をロードトリップで撮った*22。ライトナーはその視線を数十年・複数大陸へ延ばし、Legendeと自画像で「いつ、どこで、誰が見たか」を残す。旅の一般風景を匿名化しない点が違う。
フリードランダーは鏡や反射へ撮影者を入り込ませた*23。ベッヒャー夫妻は条件を標準化して工業建築を比較した*24。この二者との比較でライトナーの位置がさらに明確になる。彼は撮影者の存在を画面の外へ消さず、同じ服とポーズによる自画像を数十年反復して、観察する側の身体と時間そのものを記録へ入れた。一方、ベッヒャーのように比較条件を一つに揃えるのではなく、一枚の写真を複数の分類へ入れ、後年にも組み替えられる状態を保つ*1。つまり、世界を分類する視線と、その世界を見ている自己の変化を同じアーカイブから切り離さない。さらにジョエル・マイヤロウィッツの「影の重さ」への共感も語る*28。日常のカラー、旅、自己像、分類という既存の方法を、世界と自分の変化を同じアーカイブで追う作業へ結び直したのである。
旅する視線の危うさ ― 主観的な世界像として読む
FOTOTAPETAのインタビューでは、異なる土地を撮り続けるライトナーに対して「第一世界の観光客」という位置が問いとして向けられている。本人は、自分はあくまで外国人であり、その立場には両義性があると答えた*9。FOTOHOFは一方、異国情緒を求める旅行写真家ではなく、脇道や日常へ入り、土地の文学や歴史も調べる作家と説明する*3。正確な場所と時刻を残す記録性と、撮影者自身の連想による編集が併存するため、旅先の社会をどの位置から見ているのかという問いも作品から切り離せない。
近年の再評価 ― アーカイブを「遅い時間」の方法として読む
近年はアーカイブそのものが再評価されている。FOTOHOFは2023年にその「アーカイブ的なもの」を前面化した*3。Camera Austriaも2025年展で「obsession」を掲げた*1。2026年の文化省も、カメラを世界経験と自己認識の道具とし、緻密に整理された作品群が現在の急速な時間感覚に逆らう点を国家賞の評価理由に挙げた*15。歩行の遅さ、撮影時の一回性、後年の再分類が、いま一つの時間の方法として読まれている。2025年のCamera Austriaでの40年以上を総覧する個展と、翌2026年の国家賞は、長年蓄積された作品を単なる量としてではなく、世界経験と自己認識を持続的に組み替える方法として評価する流れを連続して示している*1*15。
2020年にはウィーンの独立写真誌『Auslöser』第3号がライトナーのロングフォーム・インタビューを掲載した。同誌は、あらゆるものがオンライン化し加速する状況に対して、印刷物による長いインタビューで「写真を遅くする」ことを編集方針に掲げている*21。この編集方針は、歩行、アナログ撮影、数十年単位の分類と再読を続けるライトナーの仕事が、デジタル化以後には別の時間感覚として受け取られる環境をよく示している。
2010年の芸術賞と2026年の国家賞 ― 二つの制度を分けて読む
こうした長期的な受容を制度面から見ると、2010年と2026年には名称の似た二つの顕彰があるが、同じ賞ではない。2010年の「Österreichischer Kunstpreis」は、写真部門では、広範で国際的に認められた仕事を顕彰する芸術賞で、ライトナーが受賞した*18。文化省の現行受賞者一覧でも、写真部門は1988年から続く部門として整理され、2010年の受賞者にライトナーが記載されている*16。一方、2026年8月7日に発表された「Österreichischer Staatspreis für künstlerische Fotografie」は、文化省が芸術写真に対して共和国が与え得る最高の栄誉と位置づける別制度の生涯業績賞である。ライトナーは第11回受賞者に全会一致で選ばれ、授賞式は2026年秋に予定されている*15。したがって、2010年の受賞を2026年に再び受けたのではなく、異なる制度がそれぞれの時点で彼の仕事を評価したことになる。
- ピーター・ドレスラー ― 旅先やホテルに自ら登場する同時代のオーストリア作家。場面へ身体的に介入するドレスラーに対し、ライトナーは街路の偶然を受け取りつつ撮影者の位置を自画像と記載で残す。
- ウィリアム・エグルストン ― ライトナー本人が、些細なものを撮る視点への影響を明言。日常のカラーという共通点はあるが、ライトナーでは同じ記号が異なる国で反復することが長期的な比較へつながる。
- スティーヴン・ショア ― ロードトリップ、ホテル、道路、看板、日常のカラーという近い比較軸。ライトナーは場所・時刻と自画像を加え、同じモチーフを数十年・複数大陸にわたって追う。
- ベルント&ヒラ・ベッヒャー ― 標準化した条件で同型建築を比較するタイポロジーに対し、ライトナーは異質な主題を混在させ、一枚を複数分類へ戻す。分類を使う目的が逆方向にある。
- ウジェーヌ・アジェ ― 商店、看板、都市の細部を蓄積した先行例。FOTOHOFは『0-24』を、経済活動の表示から別の都市像を見いだすアジェの方法と接続している。