G.R.A.M.は、パパラッチ写真、議会写真、金融危機時のトレーダーなど、すでにニュースとして定着した画像のポーズと構図を自分たちの身体で撮り直す。《Paparazzi》《Reenactments》《NixCheckCashing》で焦点になるのは、元の事件そのもの以上に、望遠レンズ越しの人物、頭を抱える手、演説する腕といった「ニュースらしさ」の型である。似ているのに少し安っぽい再演が、報道写真の権威を笑いへ変えながら、記憶が画像の定型に支えられていることを露出させる。
G.R.A.M.は、ニュース写真を引用するだけでなく、そこに写る身体の身振りをもう一度演じ、別の写真へ撮り直す。政治家の握手、トレーダーが頭を抱える姿、パパラッチに狙われる人物の歩き方を作家自身や俳優が再現すると、元の事件より先に、私たちが「政治」「危機」「有名人」と読み取る構図とジェスチャーが見えてくる。写真→身体による再演→写真という往復を作ることで、報道画像が現実を伝えると同時に、現実を覚えるための型も作っていることを検査した。
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目次 · Table of Contents
1987年グラーツ ― 写真・映像・パフォーマンスを横断する集団
G.R.A.M.は1987年、グラーツでギュンター・ホラー=シュスター、ロナルド・ヴァルター、アルミン・ランナー、マルティン・ベアの4人によって結成され、のちにホラー=シュスターとベアのデュオとして活動を続けた。集団が生まれたグラーツには、1970年代からCamera Austriaが作家運営の写真プロジェクトとして存在し、写真を美術、理論、出版の間で議論する国際的なネットワークを形成していた*23。G.R.A.M.をCamera Austriaの直接的な産物と見るより、写真を単独の美術作品として扱うだけでなく、雑誌、映像、メディア、理論の中で考える環境が同じ都市にあったことが、彼らの横断的な活動を位置づける手がかりになる。
この多媒体性は、写真を新聞、映像、パフォーマンスと連続させる態度につながる。esc medien kunst laborは、G.R.A.M.が日常、広告、報道、商品文化に由来する既視感の強い画像や記号を扱い、可視性の政治へ関心を向ける集団として紹介する*14。撮る対象を探すより、すでに社会に存在する画像が人々の記憶へどう入り込んでいるかが制作の出発点になる。
1990年代のメディア環境 ― 出来事より先に「画像の型」がある
G.R.A.M.が活動を始めた時代、テレビ、タブロイド、広告、報道写真は、政治家、有名人、戦争、経済危機を繰り返し似た構図と身振りで流通させていた。Austrian Federal Ministryの芸術賞資料は、彼らの継続的な関心を、日常・メディア・商品美学から生まれる紋切り型で記憶に残りやすいイメージ世界に置いている*7。彼らが写真を選ぶ理由は、元資料の多くがすでに写真として社会へ入り、出来事そのものより「出来事をどう見たか」という記憶の形になっているからである。
Photography Nowの略歴と展覧会記録には、《Paparazzi》から《Global Player》《Hohes Haus》へ、メディア上の典型的な像を扱う仕事が長期間続いていることが示される*9。対象が芸能人から政治・金融へ変わっても、「画像を見た瞬間に意味が分かる」という既視感を利用する点は共通している。
《Paparazzi》― 無名の人物を「スクープ写真」の型へ入れる
《Paparazzi》は1997年のロサンゼルスでのMAK奨学滞在を起点に、商業パパラッチが使う視覚習慣と画像ステレオタイプを美術へ移すプロジェクトとして始まった*25。平凡な近所の場面を長いレンズ、遮蔽物、車、入口、急いで歩く人物といったコードで撮ると、鑑賞者はそこに秘密やスキャンダルを補い始める。同資料が「fact」から「fiction」へ変わると説明する通り、著名人そのものより、著名人を見つけたと信じさせる写真形式が主題になる。
Salon für Kunstbuchの刊行情報によれば、《Paparazzi》の構想はダイアナ・スペンサーとドディ・アルファイドの事故死のおよそ1年前に始まり、1997年のロサンゼルス滞在から撮影が展開した*25。G.R.A.M.は事件の直前から、覗き見る距離、粗い画質、隠された被写体という形式だけで日常が「ニュース」へ変わる仕組みを扱っていた。
Christine König Galerieの「café paparazzi」は、ダイアナ妃事故以前から企画が始まり、ロサンゼルでの滞在を契機に商業的な写真狩りの視覚習慣を美術の場で再演するに至った経緯を記している*6。ここで再演されるのは特定の一枚に加えて、「パパラッチ写真ならこう見える」というジャンル全体の文法である。
《Reenactments》― わずかなズレで元画像の身振りを浮かべる
Photonの「REENACTMEDIA」は、《Reenactments》を既存の有名画像を演じ直し、引用し、サンプリングする継続的な仕事として紹介する*4。初期のローレル&ハーディから政治・報道写真まで、元画像のポーズや構図を残しながら、俳優の身体や身近な道具で作り直すため、コピーには必ず小さなずれが生まれる。
Camera Austriaの「Ja, Ja, Ja, Ja, Ne, Ne, Ne, Ne」は、その再制作に残るずれと原作との差そのものを重要だと説明している*2。精密な複製なら、鑑賞者は元画像とコピーの類似だけを確認して終わる。失敗が見えるからこそ、元画像の身振り、照明、構図が人工的な構造として意識される。
再演で読むもの ― 写真に埋め込まれたジェスチャー
Camera Austria International 119の批評は、G.R.A.M.の方法を歴史的出来事へ没入する再現劇より、写真に残されたポーズやジェスチャーを「redo」する行為として論じている*3。写真を一度身体へ戻すと、頭を抱える、握手する、走る、視線を避けるといった動作が、事件固有の瞬間であると同時に、別の身体でも再現できる視覚コードだったことが分かる。さらに再演をもう一度写真へ戻すことで、元画像と新しい画像を同じ平面上で比較できるため、写真という媒体自体が批評の対象と比較装置の両方を担う。
グラーツ市のKulturserverも、G.R.A.M.がメディア画像の膨大な蓄積から意識的に断片を選び、「可視性の政治」に関わる身振り、英雄像、悲劇、勝利の型を扱うと整理している*12。写真の構図を身体でなぞると、私たちが「歴史そのもの」として覚えていた像が、演技、報道の選択、印刷と反復を経た形式でもあることが見えてくる。
《NixCheckCashing》― 金融危機を「顔の型」から見る
《NixCheckCashing》では、金融危機時に新聞で繰り返されたトレーダーの驚愕、絶望、緊張の表情をスタジオで再演した。Camera Austriaは、背景の具体的な取引所空間を除き、顔と手のジェスチャーを露出させることで、経済危機がどのような「危機の顔」として報道されたかを示すと説明する*1。数字や制度の複雑さは、一人の男性の頭を抱える姿へ圧縮される。
このシリーズの焦点は、元写真が伝えた経済情報から、情報を「危機の顔」へ翻訳した視覚表現へ移る。ニュース写真が抽象的な金融システムを、人間の感情へ翻訳するために選んできた身振りそのものが対象になる。Camera Austriaがこの仕事を再演、流用、再解釈、批評的露出の間に置くのは、コピーが元画像の権威を借りながら、その作られ方を同時に見せるからである*1。
《Hohes Haus》― 議会写真から政治の「大きな身振り」を抜き出す
《Hohes Haus》では、議会や政治家の写真に見られる対立、握手、身振り、集団配置を再構成した。Christine König Galerieの展示ページには、ソウル、キーウ、ベルン、ベルリンなどを参照した大型写真や新聞形式の作品が並び、政治の舞台が国ごとの出来事を越えて似た視覚へ整えられることがわかる*5。
Artmagazineの展評は、このシリーズを政治空間から「大きな身振り」が失われたり定型化されたりする問題と結びつけて読んでいる*11。Austrian Cultural Forum New Yorkの「An I for an Eye」に《Hohes Haus (Seoul)》が含まれたことは、この仕事がオーストリア国内の政治風刺だけでなく、現代の写真表象をめぐる国際的な展示文脈へ置かれたことを示す*10。
写真、新聞、映像、パフォーマンス ― 再演を複数媒体へ展開する
G.R.A.M.は再演を写真プリント、新聞、映像、パフォーマンスへ展開する。《Hohes Haus》には新聞印刷、《Ja, Ja, Ja, Ja, Ne, Ne, Ne, Ne》には俳優を使ったパフォーマンスと映像が含まれ、同じ画像コードが別媒体へ移るとどう変わるかが試される。FOTOHOFが刊行した《Paparazzi》のCプリント・エディションは、同シリーズが写真集だけでなく個別プリントとしても流通し、凡庸な日常場面をパパラッチ写真のコードによって「事件」へ見せる仕組みを説明している*15。
University of Toronto Press Distributionが扱う『G.R.A.M.: Reenactments 1998–2011』は、十年以上の再演を一冊の出版物としてまとめた*13。FOTOHOFの『Der Coup der tadellosen Männer』では、政治家、兵士、警護、サッカー選手などの身振りを「performative character」という共通項で並べ、ニュース写真が身体を定型化する仕組みを本のシークエンスへ変えている*18。
《Côte noire》以後 ― 政治的イメージを複数の読みにさらす
Villa Arsonの《Côte noire》紹介は、G.R.A.M.が長年、マスメディアの美的・意味的な構成を扱ってきた集団として位置づける*8。ここで焦点になるのは個々のニュースへの賛否より、政治的立場が異なっても反復される視覚コードである。
Tiroler Tageszeitungのインタビューでは、あるインスタレーションについてマルティン・ベアが、一方向の政治的主張として理解されることを避けたい旨を説明している*16。この発言は中立の表明というより、画像批評の焦点を「正しいメッセージ」の伝達から、メッセージを成立させる視覚形式へ置く姿勢として読める。G.R.A.M.が扱うのは、政治的判断の前提へ入り込み、その判断を誘導する見慣れた画像形式である。
アプロプリエーションと再演 ― コピーに身体を挟む
G.R.A.M.は既存画像を引用する点でアプロプリエーションの系譜と接続するが、引用した画像を一度身体へ通してから撮影し直すところに特徴がある。Camera Austriaが彼らの仕事を、記憶と歴史を決める「image politics」の再構成として説明するのは*1、元写真の所有や引用だけでなく、その写真が人間の身体をどんなジェスチャーとして保存したかまで再演の対象にするためである。ポストコンセプチュアルな写真が既存画像の制度や流通を分析してきた流れに、G.R.A.M.は俳優の身体、失敗する模倣、再撮影という時間を挟み込んだ。 オーストリアの先行する美術史には、1960年代に身体と行為を作品の中心へ置いたウィーン・アクショニズムがある*24。G.R.A.M.は写真に保存されたジェスチャーを現在の身体で反復し、行為が公共イメージとして記憶へ残る段階を検査する*3。
Camera Austriaの略歴は、この実践を「politics of visibility」と結びつけ、英雄、悲劇、悪名、勝利といった大量の人々を動かすイメージのレパートリーを扱うと説明する*17。繰り返し使われる写真の型は、何を英雄的・悲劇的・危機的と感じるかという判断の前提へ入り込む。
《Paparazzi》から金融危機へ ― ニュース画像の型を撮り直す
G.R.A.M.は、カメラの前の出来事そのものより、すでに流通し記憶へ入り込んだ二次的な画像から制作を始める。Photonの「REENACTMEDIA」が《Paparazzi》《Reenactments》を代表作として挙げるように、彼らの写真観は1990年代以降のメディア環境そのものを素材とする*4。
この方法が向ける問いは、「その写真は真実か」という判定から、「なぜ私たちはこの形を真実らしいと認識するのか」という視覚習慣へ深まる。FOTOHOFの《Paparazzi》では無名の人物が有名人写真の型へ入り、《NixCheckCashing》ではスタジオの再演が金融危機の報道写真の型へ入る。G.R.A.M.の再演は、元画像を破壊するより、私たちの記憶の中にある画像の型を少し狂わせる。その小さな失敗によって、報道写真、政治写真、芸能写真が現実を伝えると同時に、現実の読み方を作っていることが見える。
グラーツで育った写真・メディア批評の環境
Camera Austriaは1970年代から、写真作品の展示だけでなく、雑誌、理論、作家との対話を組み合わせ、オーストリアの写真を国際的な議論へ接続してきた*23。Neue Galerie GrazやKunsthaus Grazなどの制度と合わせて見ると、G.R.A.M.の写真は「写真だけを作る集団」の外側から写真へ入ってきた実践として理解しやすい。彼らにとって写真は最終成果物の一形式であると同時に、新聞やテレビで流通した公共イメージを止め、身体で再演し、別の文脈へ戻すための分析単位でもある。
Neue Galerie Grazの《POSTMEDIA CONDITION》にはG.R.A.M.も参加し、写真・映像・デジタル画像が互いの領域へ入り込む状況の中で作品が提示された*19。
Kunsthaus Grazの記録は、steirischer herbstの文脈でもG.R.A.M.が同地の現代美術企画に組み込まれてきたことを示す*20。
mumokの《Photo/Politics/Austria》は、オーストリアにおける報道写真、新聞切り抜き、ポスター、映画スチルを、歴史認識を作る「頭の中の画像」として扱っており、G.R.A.M.の再演を読む制度的な背景になる*21。
1996年のオーストリア写真トリエンナーレ《RADICAL IMAGES》では、写真が社会的現実をどう構成し、批評できるかが中心課題として掲げられた。G.R.A.M.が《Paparazzi》へ進む直前のグラーツで、写真の現実性とメディア環境が公的に議論されていたことがわかる*22。
- トーマス・デマンド ― 報道・記憶の二次画像から現実を再構成して撮る比較軸。
- シェリー・レヴィーン ― 既存写真の再利用を通じ、作者性と写真の流通を問うアプロプリエーションの参照点。
- シンディ・シャーマン ― 既知のメディア類型を身体で演じ直す方法との比較。
- アプロプリエーション ― 既存画像の引用・再利用によって、その意味と権威を問い直す実践。
- 再演(Reenactment) ― 過去の行為や画像を現在の身体でやり直す方法。G.R.A.M.では元写真との差やずれを残す再制作が重要になる。
- メディア批評 ― ニュース、広告、有名人写真などが現実をどう構成するかを作品の対象にする。