アヌシュカ・ブロマース/ニールス・シュムは、ファッション撮影の照明、モデル、服、スタジオセットを精密に組みながら、カメラの位置だけで物を顔に、固定物を浮遊物に、正位置を反転像に見せるデュオ。『Self Service』での編集仕事から『Anita and 124 Other Portraits』『More』、Foamの《Mid-Air》まで、商品を明瞭に見せるためのスタジオ技術を、何を見ているか確定できなくする錯視へ使ってきた。
1970年代のギイ・ブルダンやヘルムート・ニュートンは、服の商品説明だったファッション写真へ物語や性的緊張を持ち込み、1990年代には独立系ファッション誌とアート写真の往来が強まり、スナップ的な日常性や映画的な演出も誌面へ入った。ブロマース/シュムは、物、身体、背景を実際に組み、一つのカメラ位置から二次元へ圧縮された瞬間だけ、顔が物に、前後が同一平面に、静止したセットが落下中の場面に見えるようにした。商品を明瞭に見せるために発達した照明、ピント、セット制作の精度を保ちながら、その精度そのものを誤認の条件にした。
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リートフェルト・アカデミーからSelf Serviceへ――二人の名義が一つになった理由
ニールス・シュムは1995年、アヌシュカ・ブロマースは1996年にGerrit Rietveld Academieを卒業した。Stofのインタビューによれば、シュムは建築を学んだ後、カメラで結果へ直接到達できることに惹かれて写真へ移り、ブロマースは友人を着飾らせて撮る遊びや父親の暗室を通して写真に親しんだ*2。在学中は一学年上のシュムがブロマースの技術面や卒業制作を手伝い、卒業後は互いの撮影をアシストする関係になった*2。『Self Service』では当初、シュムが静物、ブロマースが肖像を別名義で担当したが、「撮影」と「ライティング」のクレジットが作品ごとに入れ替わるうち、どちらの写真かを分ける意味が薄れて一つの名義になった*2。人物を演じさせる関心と、物や空間を組み立てる関心が、共同のスタジオ撮影で重なっていった。
ブルダンからゴールディン/テラーへ――1990年代に変わったファッション写真
ブロマース/シュムの前にも、ファッション写真とアート写真の往来は続いていた。V&Aは1970年代のギイ・ブルダンやヘルムート・ニュートンらが、衣服の説明より強い物語、性的緊張、人物像を前面へ出し、1980年代のスタイル/ユース誌が磨き上げられた広告美学への対抗軸を作ったと整理している*20。MoMAの「Fashioning Fiction in Photography since 1990」は、1990年代に美術写真と商業写真の相互作用が強まり、映画的に構築された場面と、ナン・ゴールディンやユルゲン・テラーに連なるスナップ的な美学の双方がファッション誌へ入り込んだ時代を扱う*19。東京都写真美術館も、1990年代には服の魅力を伝える従来の枠を越える写真家と、独立した編集方針を持つファッション/カルチャー誌が現れ、写真イメージそのものが時代の感覚や生活像を担うようになったと整理している*21。ブロマース/シュムが入ったのは、まさに雑誌の依頼仕事が商品説明だけに限定されなくなった環境だった。二人はスナップの粗さを採用する代わりに、ブランド知識よりセット、光、物の配置へ関心を向け、商業スタジオの精度を知覚の誤読へ使った*2。
カメラの一つの視点だけで成立する、物理的な錯視
ブロマース/シュムの写真はデジタル合成のように見えることがあるが、Foamのスタジオ訪問は、日用品や紙、ガラス、身体を実際にセットし、カメラ位置から見たときだけ別の像に見える構成を多用していることを示す*3。Nieuwe Instituutの取材でも、シュムは「Photoshopではないと分かるところまで」物理的な錯視を作ることへの関心を語り、撮影回数を減らしながら光やセットを事前に作り込む工程が紹介されている*9。ここで写真でなければならない理由は明確である。三次元空間では離れている物と身体が、レンズを通して一つの平面へ投影されると輪郭を共有し、前後関係を失う。その一つの視点に固有の誤認を、最終的な二次元像として固定できるのが写真だからである。現実のセットとカメラの投影だけで像を成立させるため、写っている物は実在していても、その前後関係や用途を読み違える状態が残る。
「fashion is something we use」――服をテーマではなく材料にする
Nieuwe Instituutのインタビューで二人は、ファッションそのものを伝えたいのではなく、それを「使う」ものとして捉えていることを説明する*9。商業仕事そのものを退ける発言ではなく、服を視覚的な材料として扱う態度を示している。服、モデル、スタイリング、雑誌レイアウトには、身体を魅力的に、若く、欲望されるものとして整える既存の視覚文法がある。その文法を使ったまま、モデルの姿勢を不自然にし、顔と物を入れ替え、上下を反転させ、静物を肖像のように撮ると、ファッション画像が当然としている「身体の読み方」が露出する。Stofのインタビューで語られる上下反転への関心も、像を奇抜にするためだけでなく、正しい向きが何によって決まるかを試す態度として読める*2。
美しさと違和感を同時に残す理由
彼らは照明、肌、服、背景を高い精度で整えたうえで、輪郭、前後関係、物の用途に小さな不整合を入れる。Wallpaper*は《Mid-Air》を、ファッション写真の魅惑と不穏さが同居する回顧として扱っている*10。Duel Magazineも、完璧に見える表面がわずかな不一致によって宙吊りになる構造を強調する*17。Foamのプレス資料は《Mid-Air》を二人にとって初の大規模個展として位置づける*5。The Ravestijn Galleryの作家ページも、ファッション誌と美術展示を横断してきた制作歴を作品画像とともに整理している*6。商業写真の完成度を捨てて反広告へ向かうのではなく、整えられた像の内部で何を見ているのか確定しにくくする。そのため、批評性は粗さや拒絶の身振りより、ファッション写真の精度そのものから生じる。
共同制作の実際――コンセプト、キャスティング、技術を往復する
二人の名義は、互いの撮影を助け、役割が重なっていった実務から生まれた。Stofのインタビューでは、アイデアは共同で組み立てつつ、ブロマースがキャスティング、モデル、ヘアやメイク周辺を多く担当し、シュムが技術面と実行を多く担うと説明されている*2。The Agents Clubのプロフィールも、二人の活動をコンセプト形成、セット制作、撮影を横断する共同実践として示す*13。静物と人物、撮影とライティングの担当が交換可能だった初期経験が、その後の作品にも反映されている。物を人物のように扱い、身体を静物のように配置する彼らの像では、被写体のカテゴリーだけでなく、制作上の役割そのものも固定されにくい。
《Anita and 124 Other Portraits》――雑誌の肖像を写真集で再編集する
『Anita and 124 Other Portraits』は、1997年から2007年までの仕事から125点の肖像を集めた写真集である。Valizは、人物をアルファベット順に並べることで元の編集文脈から切り離し、巻末ではオリジナルの雑誌レイアウトを一覧できる構造を説明している*7。ARTBOOKも、10年間のファッション写真とその他の肖像を一冊へ再編集した出版物として紹介する*12。雑誌では服、人物、記事、広告との関係で読まれていた写真が、写真集では肖像の連続として読み直される。編集媒体そのものが作品の意味を変えることを、写真集の構造が示している。
『More』――25年以上の編集写真を一つの視覚アーカイブにする
Roma Publicationsの『More』は、25年以上にわたる制作を240ページにまとめ、ファッション、肖像、静物、自律作品を同じ流れで見せる*8。日本のBook of Daysによる紹介も、すべての要素がカメラ内で捉えられる構築性と、商業的スタイリングと自律制作の往来を主要な特徴として伝えている*18。この本では、雑誌仕事そのものが長期的な作品群として再編集されている。ページを跨いで異なる依頼仕事を並べると、身体を物として、物を身体として見る反復的な方法が浮かび上がる。
Self Serviceと雑誌媒体――ページの中で意味が決まる写真
二人は『Self Service』をはじめ、多くのファッション誌で継続的に仕事をした。Self Service第8号のアーカイブは、1990年代末に彼らの写真が編集媒体の中で流通したことを確認できる*14。第9号にも継続して参加しており、雑誌が反復的な実験の場だったことがわかる*15。Et Caeteraが紹介する同誌とのプロジェクトは、個々のプリントよりページの連続、人物と余白、服と文字の関係まで含めて作品が働くことを示す*16。Librarymanの『A Day in the Life of...』も、彼らが書籍という順序媒体を継続して使ってきたことを示す*11。写真集と雑誌では、同じ写真でも隣り合う画像、文字、ページ順によって意味が変わる。編集は撮影後の付属工程ではなく、作品構造の一部になる。
商業写真の精度を錯視へ使う――ファッション写真の内部から規則を崩す
二人を写真史に置く際、ファッション写真を美術館へ持ち込んだことだけを成果にすると、1990年代以降の大きな越境現象に埋もれる。Brno Biennialは、二人の活動領域をファッション、アート、写真が重なる「灰色地帯」として紹介している*1。Foamの回顧展も、編集仕事と自律作品を分けず、同じ制作方法が25年以上にわたって両方で働いてきた構成を採っている*4。MoMAが示すように、その時点ですでにファッション誌は映画的演出とスナップ的リアリズムの双方を吸収していた*19。ブロマース/シュムの固有性は、広告写真が培った均質な照明、精密なセット、肌や物の滑らかな描写を捨てず、その明晰さを錯視のために使うことにある。顔だと思った像が物へ戻り、落下していると思った物体が固定されたセットだと分かると、商業写真の「分かりやすく魅力的に見せる」技術が逆方向へ働く。ファッションと美術の境界を消したという一般論より、明晰さのためのスタジオ技術を知覚の不確定さへ転用した点が、二人の具体的な写真史上の位置である。
CG時代に、カメラ内で作ることが持つ批評性
デジタル合成が一般化した後、奇妙な画像を作ること自体は珍しくない。それでもブロマース/シュムが物理的なセットと単一視点にこだわることで、写真固有の問いが残る。Foamの解説では、最終像の不可思議さが撮影後の加工ではなく、カメラの前に置かれた現実と視点の関係から生まれるとされる*3。この方法は、未加工であることを真実性の証明には使わない。むしろ、加工していなくても、配置と視点だけで現実はいくらでも別のものに見えることを示す。そこに、ファッション写真の身体、商品、欲望を批評するために写真という形式を選ぶ必然がある。
- イネス・ヴァン・ラムスウィールド、ヴィノード・マタディン ― 1990年代以降のオランダで、ファッション、デジタル操作、美術を横断した比較対象。
- ロー・エスリッジ ― 商業写真と自律作品を同一の画像文化として往復する後続世代の比較軸。
- トービヨン・ロッドランド ― 広告的な魅力と不穏さを同居させる現代写真の比較対象。
- ギイ・ブルダン/ヘルムート・ニュートン ― 1970年代に衣服の説明を越え、物語性と性的な緊張をファッション写真へ強く持ち込んだ先行者。
- ナン・ゴールディン/ユルゲン・テラー ― 1990年代のファッション誌へ私生活的・スナップ的な語彙が入る流れを考える比較軸。