アン=ソフィ・シデンは、写真、映像、パフォーマンス、インスタレーションを横断し、監視、精神医学、国境、ケア、移動を扱うスウェーデンの作家。QMをめぐる初期作、《Who Told the Chambermaid?》《Warte Mal!》《3 MPH》《In Passing》などでは、記録映像と演技、インタビュー、展示空間を組み合わせる。
一本のテレビ・ドキュメンタリーでは通常、複数の証言が一つの編集順に置かれる。《Warte Mal!》でシデンは、頭部を固定して撮るインタビュー、車からのロードムービー、作家の日記、深夜の観察映像を別々の画面へ分けた。どの画面にも全体を説明する役割を与えず、作家自身の記録も他の映像と並ぶ一つのチャンネルに置く。国境地帯ドゥビーを一つの報告へまとめず、証言ごとの位置と撮影方法の違いを展示空間に残した。
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絵画からQM、映像、インスタレーションへ
シデンは1962年にストックホルムで生まれ、ベルリンとストックホルムで学んだ。絵画から出発し、1980年代末から泥に覆われた架空の存在「Queen of Mud(QM)」を自ら演じ、公共空間、映像、彫刻、文章へ展開した*1。
QMは、作家の内面を象徴する固定キャラクターとして安定せず、状況ごとに役割を変える。高級百貨店、美術市場、精神医学、博物館へ侵入し、誰が文明的/逸脱的と分類されるかを露出する。Magasin3は、シデンの制作を脆弱性、統制、目立たない暴力を扱う複合媒体の実践として整理している*2。
QMは1990年のストックホルム・アート・フェア周辺ですでにパフォーマンスと映像へ展開していた。Kunstforumの2002年論考は、この初期実践を日常の境界、文明/野生、制度的な分類を横断する仕事として振り返る。シデン自身がQMを演じ、その行為を写真や映像で記録するため、作家は被写体であると同時に記録を作る側にも位置していた*21。
2001年にはJan EstepがNew Art Examinerで「Feral Children and the Queen of Mud」を発表しており、QMを軸にした作品は早い段階から、異常/正常を分ける文化的枠組みと自己演技の問題として批評対象になっていた*23。QM期から作家自身が被写体と記録者の両方に関わっており、後年の調査型作品でも撮影者の位置を画面の外へ消さない方法につながる。
監視カメラとテレビ・ドキュメンタリーを撮影方法にする
1990年代のシデンは、監視カメラ、固定カメラ、インタビューといった記録形式そのものを作品へ取り込んだ。Moderna Museetは、彼女が社会の排除、異国趣味、西洋文明の仕組みを調査し、映像やインスタレーションで扱う作家として紹介している*3。監視映像やインタビューを中立な記録として単独で置かず、カメラの位置、モニターの数、記録者の存在まで展示の中に残す。
《Who Told the Chambermaid?》では、ホテルの受付、廊下、倉庫、客室を固定カメラで分けて映し、監視モニターと業務用棚を同じ展示に置く。客室を使う人と、清掃・受付のためにそこを管理する人が、同じ空間を異なる位置から見る仕組みが前面に出る。e-fluxの監視芸術展も、シデンを監視と写真の複雑さを扱う作家の一人として位置づけている*4。
《Who Told the Chambermaid?》――ホテルを監視装置として展示する
《Who Told the Chambermaid?》(1998)は、ホテルの受付、廊下、倉庫、客室を複数の監視モニターで映し、タオルや備品を置く業務用棚と組み合わせる。宿泊客の私的行為と従業員の労働空間が同じシステムに収まり、ホテルのサービスが観察と管理に依存することを示す*5。
《Who Told the Chambermaid?》の固定カメラは、受付、廊下、倉庫、客室というホテル側が管理する位置に置かれる。The Nordic Watercolour Museumも、監視カメラがシデンの重要なモチーフであると紹介している*6。同じホテルにいても、宿泊客、清掃員、受付係では見られる範囲とモニターへ近づける権限が違う。監視映像の無表情さより、そのカメラを誰がどこに置き、誰を見られるようにしたかが作品の中心になる。
《Warte Mal!》――国境地帯の証言を一つの物語へ閉じない
《Warte Mal!》(1999)は、チェコとドイツの国境の町ドゥビーで、セックスワーカー、斡旋者、警察、客へ行ったインタビューを多画面の映像インスタレーションへ構成した。Moderna Museetの2003年資料では、展示は16本のVHSを用いる構成として記録され、シデンは現地滞在、インタビュー、車からの移動映像、日記、夜の集まりを別々の映像形式で並べている*7。
本人はRobert Fleckとの対話で、アムステルダムのレッドライト地区の企画から出発し、より見えにくい越境的な売買の現場へ調査対象を広げた経緯を語っている*8。《Warte Mal!》では作家の日記や迷いも証言者とは別の画面に置かれ、取材対象だけが一方的に観察される構図にならない。
Robert Fleckとの対話でシデンは、一画面のテレビ・ドキュメンタリーには放送時間と編集順があり、視聴者がその順序に従うと話している。《Warte Mal!》では、頭部を固定して撮るインタビュー、車からのロードムービー、日記と静止画、深夜のシネマ・ヴェリテを別々の映像形式へ分けた*8。複数の記録を一つの順番へ編集しないこと自体が、展示形式になっている。
2004年のKunstforumの展評も、《Warte Mal!》を東西ヨーロッパの境界、移動、セックスワークをめぐる社会状況と結びつけて論じた。取材映像を一つの告発物語へ編集しない形式は、国境を越えて移動できる客、働く女性、警察、取材者の位置の違いを展示空間に残す。 *22
ドキュメンタリーとフィクションの混成
シデンの初期作品《QM, I Think I Call Her QM》は、実在した精神科医アリス・E・ファビアンの資料と、架空のQMを映画の物語へ結びつける。South London Galleryは、ファビアンが残した日記、録音、文書、部屋の測量を使うインスタレーションと映画を対になる作品として紹介した*9。
Artforumの批評は、精神医学、監視妄想、他者を分類する知識が、QMとの遭遇によって反転する構造を論じている*10。実在資料はフィクションの権威付けから外され、精神医学の専門家も監視される主体になり得ることを示す。
遅い移動が作る別のアメリカ像――《3 MPH》
《3 MPH (Horse to Rocket)》(2003)は、サンアントニオからヒューストンのNASA宇宙センターまで、25日間を馬で移動しながら撮影した多画面映像である。題名は馬の平均速度、時速3マイルに由来する*11。
Bilbao Fine Arts Museumは、この旅を西部劇的な馬と宇宙開発のロケットをつなぐ作品として紹介する*12。高速交通なら短時間で通過する町、道路脇、停止、会話が、馬の時速3マイルでは長い記録として残る。速度の違いが、同じ区間で何が画面に入るかを変えている。
《In Passing》――ベビーハッチとケアの制度
《In Passing》(2007)は、乳児を匿名で預けられるベビーハッチを題材に、若い女性が子どもを置く側と、医療従事者が受け取る側を複数画面で同時に見せる。Bonniers Konsthallの解説は、シデンが社会の「ほころび」、語りにくい倫理的状況へ入っていく作家だと述べる*13。
《In Passing》は、子どもを預ける側と受け取る医療者を別々の空間と画面で並置する*14。一方の行為だけで出来事を説明せず、ベビーハッチの外側で子どもを手放す女性と、内部で受け取る側の動きをそれぞれ別の視点から追う。
Barbara Thummの作品解説は、《In Passing》を複数の視点へ分裂した物語として説明する。病院側は監視カメラに近い上方の視点で映される一方、子どもを預ける女性の移動は街路の目線に近い高さから追われる。ケアの制度を「善い/悪い」の一枚絵へする代わりに、同じ出来事へ接続する身体が別々の視覚制度に置かれている。 *24
《My Country》と反復される馬上の視点
《My Country (Somewhere in Sweden)》(2010)は、2009年秋にストックホルムからスコーネまで38日間を馬で移動した映像をもとにした4チャンネル作品である。Moderna Museetは、《3 MPH》の続編として、速度と技術を社会変化の原動力と考えたポール・ヴィリリオが参照されたと説明する*15。
《My Country (Somewhere in Sweden)》では、馬上からの一定速度で道路、集落、停止、会話を連続して記録する。前作《3 MPH》がテキサスの馬上から都市とNASA周辺をたどったのに対し、こちらはスウェーデン国内を横断し、同じ遅い速度で道路や生活圏の変化を比較できる構成にした*15。
証言だけでなく、撮影と展示の条件も見せる
シデンの制作は「写真家」という肩書の範囲を越える。静止画と映像は、証拠、監視、身元確認、現場調査の技術として作品に組み込まれる。MoMAを含む美術館は、映画、写真、彫刻、インスタレーションを横断する作家としてシデンを収蔵・紹介している*17。
シデンの写真や映像は、単独の「証拠」として提示されない。《Warte Mal!》ではインタビュー、道路映像、日記が別チャンネルに分かれ、QMの作品群では精神科医の資料、録音、部屋の測量とフィクション映画が組み合わされる。Filmformの論考は、《Warte Mal!》をホテルを拠点に長期調査して生まれた多画面作品として振り返り、時間をかけることが方法の中心だったと述べる*18。資料の種類を混ぜることより、それぞれを同じ説明へ統合しないことがシデンの特徴である。
取材者の立場を画面の外へ隠さない
シデンの作品には、精神疾患、セックスワーク、乳児遺棄など、撮影者が他者の状況を一方的に説明しやすい題材が含まれる。医学誌の展評は、実在した精神科医の資料を用いる作品に対し、展示と診断の境界そのものを問題として読んだ*19。《Warte Mal!》で作家の日記を証言者とは別の画面に置くことや、《In Passing》で異なる立場を一つの視点へまとめないことは、取材者の解釈を最終的な説明にしないための具体的な形式になっている。
Wanås Konstや大規模美術館での受容は、映像インスタレーションだけでなく、彫刻、公共空間、移動を含む実践の広がりを示す*20。Larsen Warnerは《Same Unknown》を、《Warte Mal!》《Who Told the Chambermaid?》《In Passing》と比べて、対話や明確な空間文脈を外した作品として紹介している*16。同じ多画面でも、作品ごとに何を分離し、何を同時に見せるかが変わる。
多画面は、証言を一つの編集順へ統合しない
《Warte Mal!》では、頭部を固定したインタビュー、車からのロードムービー、作家の日記、深夜の観察映像が別々の画面に置かれる。《In Passing》では子どもを手放す側と受け取る側が別画面になり、《Who Told the Chambermaid?》ではホテルの受付、廊下、倉庫、客室が固定カメラごとに分かれる。作品ごとに分ける対象は違うが、一つのカメラや一本の編集順だけで場所全体を説明しない点は共通している。
- ソフィ・カル ― 調査、追跡、日記、他者の私生活を作品化し、見ることの倫理を問う比較対象。
- ハルン・ファロッキ ― 監視、業務映像、制度が作る操作的な像を分析した映像作家。
- フェミニスト・ドキュメンタリー ― 語る主体と撮る主体の非対称性を隠さず、制作過程を作品へ含める実践。