アネタ・グジェシコフスカは、《Album》で家族写真に写る自分だけを消し、《Untitled Film Stills》でシンディ・シャーマンの場面を演じ直し、《Negative Book》では肌を黒く塗ってネガの上に白い身体を作った。《Selfie》では豚革、《Mama》ではシリコン人形が本人の顔と身体を引き受ける。写真に現れる「私」が、実在する身体、記憶、作者名、撮影技術のどこに支えられているのかを、作品ごとに別の方法で確かめてきた作家である。
《Album》から《Mama》まで、グジェシコフスカはセルフポートレートの成立条件そのものを作品にする。《Album》では家族写真から本人を消し、《Untitled Film Stills》ではシャーマンのイメージへ入り、《Negative Book》ではネガの規則に身体を合わせ、《Selfie》《Mama》では皮膚やシリコン人形へ本人らしさを担わせる。シャーマン以後の自己演出を参照しながら、記憶、技術、類似、家族の行為のどれが「本人」を成立させるのかをシリーズごとに確かめてきた。
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目次 · Table of Contents
ポスト1989年のワルシャワ――Raster世代と、操作できる写真
グジェシコフスカはワルシャワ美術アカデミーでグラフィック・デザインを学び、1999年に卒業した。写真、映像、デザインを横断する初期活動には、夫で長年の協働者でもあるヤン・スマガとの共同制作が含まれ、室内や建築を画像へ変換する仕事から出発している。Culture.plは彼女を、社会主義体制崩壊後に新しいギャラリーと批評の回路が育った「Raster generation」の一人として紹介する*12。2025年のインタビューで本人も、卒業期のワルシャワでRasterが若い作家を探し始め、専業作家として活動する道が現実味を帯びた状況を振り返っている*16。卒業後は写真と映像を主な媒体とし、デジタル編集、演出撮影、フィルム、身体模型を作品ごとに使い分けていく。Muzeum Sztukiは、彼女にとって写真が制作過程と最終結果を細部まで制御できる媒体だったことを紹介している*1。CAM St. Louisも、写真と映像を通して身体の出現、消失、代理を反復する構成を個展の中心に置いた*2。
《Album》――家族アルバムが作る「私の人生」から自分だけを抜く
《Album》(2004)は、作家と家族が約30年にわたって蓄積した200点以上の写真から、グジェシコフスカ自身の姿だけを画像処理で消した作品である。Museum of Modern Art in Warsawは、日常の記録として撮られた家族のスナップを集めたアルバムであることを記している*3。Culture.plは、誕生から制作時点までをたどる私的アーカイブから本人を取り除くことで、主人公を欠いた写真による自伝が成立したと説明する*13。操作は一枚の画像に収まらず、誕生日、旅行、食卓、集合写真を順番に連ね、「この人はこの家族の中で生きてきた」と読ませるアルバム全体へ及ぶ。消去後にも、隣の人物が向けた視線、身体の間隔、空いた場所が残り、本人の不在が周囲の人間関係から逆算される。本人は後年、《Album》を《Untitled Film Stills》《Negative Book》《Selfie》へ続く「自分を失う」一連の最初の段階として説明している*15。家族アルバムが人生の証拠を編成する仕組みと、その編成を変更できる作者の権限が同じ作品の中で見える。
《Untitled Film Stills》――シャーマンの69点を参照し、70点のカラー写真を作る
2006年の《Untitled Film Stills》は、シンディ・シャーマンの《Untitled Film Stills》(69点)を参照し、グジェシコフスカ自身による70点のカラー写真として制作された。Art Collection Telekomは、シャーマン原作を69点、グジェシコフスカ版を70点と記録している*20。Rasterは、構図とメイクを参照元に合わせながら、背景や衣装を当時のワルシャワで調達し、一年をかけて全作を撮ったと記録する*10。シャーマンの原作では、本人の身体が映画に登場しそうな女性類型へ次々に変身し、MoMAはこれらを作者自身が写る作品でありながら「セルフポートレート」とは位置づけていない*23。グジェシコフスカは、すでに美術史上のイメージとして定着した連作全体を再演対象にした。Arsenal Galleryは《#54》について、画面からシャーマンの身体が消えグジェシコフスカが入るほど、鑑賞者の記憶の中では参照元のシャーマンが強く立ち上がる構造を指摘する*19。本人も後年、「シャーマンを消して自分を入れた」一方、鑑賞者がなおシャーマンを認識するため、自分自身も見えにくくなる二重の消去として振り返っている*16。誰が写っているか、誰が作品を作ったか、どのイメージを記憶しているかが一致しない状態を、セルフポートレートの内部に作ったシリーズである。
《Negative Book》――ネガの白黒に合わせて身体を作る
《Negative Book》(2012–13)は、アナログ写真のネガそのものを制作条件にした。撮影時に肌と髪を黒く塗り、衣服や室内の調子も調整することで、ネガ上では作家の身体が明るく現れる。Museum of Modern Art in Warsawは《#63》《#78》を含む作品を所蔵し、白黒写真としての物質情報も公開している*4。同館の映像《Negative Process》は、黒く塗られた身体を撮影する工程を記録し、ネガとプリントの反転関係が制作の中心にあることを示す*6。Art Collection Telekomも、日常的な家族写真の場面へ写真技術の反転規則を持ち込み、身体自体をその規則に合わせたシリーズとして解説する*9。Rasterの写真集は、この操作を日常場面、ポーズ、室内の連続として編集した*11。加工が撮影後のソフトウェアにあるのか、撮影前の身体にあるのかという区別が揺らぎ、像が作られる段階そのものが主題になる。
《Selfie》《Mama》――顔を皮膚にし、母を人形にする
《Selfie》(2014)では、作家の顔や身体の断片を豚革で作り、それを撮影した。Centre Pompidouの所蔵作品では、目、口、皮膚の継ぎ目まで精密に作られた断片が、セルフィーという即時的な自己像の形式と不穏に重なる*7。《Mama》(2018)では、本人そっくりのシリコン人形を作り、娘フランチシュカがその「母」を運び、抱き、遊び、埋める場面を撮影した。Museum of Modern Art in Warsawは2018年作の《Mama》を14点所蔵している*5。ArtReviewは発表時のシリーズを25点と記録し、娘とシリコン人形の遊びを、母娘の役割が入れ替わる構造として論じた*21。同批評はさらに、母性をめぐるこの役割反転を、当時のポーランドの中絶法制と女性の身体をめぐる社会状況へ接続している*21。2025年のインタビューで本人は、実際の母である自分はフレームの外で撮影しているため、鑑賞者が人形を「母」として見始める仕掛けを強調している*16。画面内で「母」と認識されるのはシリコン人形で、作家本人はカメラ側からその状況を撮る。母という役割が、顔の類似、娘の行為、写真の題名によって人形へ結びつく仕組みが露わになる。
デジタル、ネガ、皮膚、人形――シリーズごとに方法を変える
グジェシコフスカは、シリーズが変わるたびに加工技術そのものを変える。《Album》ではPhotoshop、《Negative Book》ではフィルムとネガ、《Selfie》では豚革の彫刻とデジタルプリント、《Mama》ではシリコン人形と演出撮影が使われる。Art Collection Telekomは、写真、映画、書籍、演出的な制作を横断しながら、身体を繰り返し素材にしていると整理する*8。Friezeの批評も、《Untitled Film Stills》から《Selfie》までを、歴史的な写真形式と身体の物質が往復する仕事として読む*17。シリーズをつなぐのは、各形式に「本人らしさ」を担わせ、その根拠がどこまで持つかを試す反復である。写真集《Negative Book》では、壁面で見る一枚一枚がページの順序へ入り、反転した身体が日常生活を送る時間として読めるようになる*11。
自分の身体を使う理由――最も制御できるモデルが、最も不確かな主体になる
本人は、自分をモデルにすると制作を細部まで制御できるという実務的な理由を挙げている*16。この発言を踏まえると、セルフポートレートは作者・被写体・演出家を一人へ集約できる実験条件として見えてくる。Contemporary Lynxのインタビューでは、《Album》《Untitled Film Stills》《Negative Book》《Selfie》を「自分を失う」段階の連続として本人が説明している*15。消去、他者の像への侵入、ネガによる反転、皮膚の断片化は、制御できる身体から同一性が少しずつ離れていく過程としてつながる。Lyles & Kingも、自己の構築と消去、ジェンダー化された身体、人工物と有機物の混交を長期的な主題として整理している*18。
シャーマン以後の自己像――役を演じる身体から、身体の不在まで
1970年代のシンディ・シャーマンは、《Untitled Film Stills》で自分の身体を映画的な女性類型へ変身させ、女性像が映画や写真の型から作られることを露出させた。MoMAは、同連作が「キャリアウーマン」「ヴァンプ」「孤独な主婦」といった既成の役柄を演じることで女性表象を検討した作品だと説明する*23。グジェシコフスカは2006年にこの連作を参照した70点のカラー写真を制作し、その後は家族アルバム、ネガ、豚革、シリコン人形へ自己像の担い手を変えていった。CAM St. Louisは、写真と映像の双方で身体の出現、消失、代理を繰り返すことを彼女の実践の中心に置いている*2。《Mama》では作者本人がカメラの後ろに立ち、シリコン製の「母」が画面の中で娘と過ごす。本人は、実際の母である自分がフレーム外にいるからこそ、鑑賞者が人形を母として受け入れ始める仕掛けを説明している*16。シャーマンの自己演出では身体が役柄を演じる場所だったが、グジェシコフスカの後期作では、作者の身体が画面外にある状態でも類似、題名、家族の行為が自己像を成立させる。セルフポートレートの問題が、演じる身体から「本人を成立させる手掛かり」へ進んでいる。
《Album》から《Mama》へ――自己像を支えるものが作品ごとに変わる
《Album》では家族写真の順序が人生を語り、《Untitled Film Stills》では既知の美術作品が作者を特定し、《Negative Book》ではネガの明暗が身体の見え方を決める。《Selfie》では顔の皮膚片、《Mama》ではシリコン人形が本人を認識させる手掛かりになる。AWAREは、こうした実践を自己表象、身体、女性像の批判的検討として扱っている*14。2022年のRaster個展《WAVE》では《Album》へ再び戻り、娘の誕生後まで含む家族写真から自分を消す作業を続ける一方、《Skinformer》では身体像を縫製された皮膚として制作した*22。初期のデジタル消去から近年の人工皮膚や人形まで方法は大きく変わるが、各シリーズは「写真の中で誰かをその人だと認識する根拠」を一つずつ取り出して試している。セルフポートレートは、記憶、作者名、ネガ、皮膚、家族関係のどれが「本人」という認識を作るかを一つずつ試す形式として使われる。
- シンディ・シャーマン ― 《Untitled Film Stills》を70点のカラー写真として再演し、女性像と作者性の問題を正面から引き受けた参照点
- 森村泰昌 ― 既存イメージへの自己挿入という方法を比較できる作家。グジェシコフスカでは、置換が自己消去へも向かう
- コンセプチュアルアート ― 写真・映像・彫刻の形式を、自己像と写真の制度を検証するために使う文脈